- どうしたら、多様な価値観を尊重する社会の中で、みなの生きやすさを見つめられるでしょうか。
- 実は、「哲学」の考え方が参考になるかも。
- なぜなら、哲学とは、それぞれの人の欲望を見つめ、共通了解を取りつける思考でもあるからです。
- 本書は、哲学者でもあり、教育学者でもある苫野一徳さんによる、哲学入門書です。
- 本書を通して、これまでの人類の歴史の中で、哲学が志向してきた目的に触れ、多様な価値観の社会を生きる私たちに、他者との生き方についてヒントを得ることができるでしょう。
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「哲学」とは、そもそもなんだ!?
哲学が求められる時代と言われています。これまで社会通念で一般的とされてきた生き方・価値観だけではなくて、自分自身でどうしていくのか?を構築しなければ、生きづらい自由な社会に私たちは暮らしています。また、自分自身のためにも必要ですが、一人ひとりが自分らしい多様な生き方・価値観を持つ中で、社会の一員としていかに共通点を見出していくか、というのも長い人類のテーマとなるはずです。私たちには、生きるためにあまりに「余裕」があるのかもしれません。
意味や価値の本質こそ、哲学が解き明かすべき問い
第3講 科学とは何がちがうの?
もともと、人は考える時に宗教という拠り所をもっていました。これは地域性をおびたものです。例えば、生きるのがイージーモードな日本的風土は、季節の移ろいに敏感になりました。季節が巡ることに感謝し、あらゆるものごとに神様を信じるようになりました。一方で、沙漠の文化は生きるのがハードモード。だから、神様は試練をもたらすものとして、一神教による契約に重きが置かれました。
これらの論点は、過去の投稿「【日本文化をカミから、客観視する!】日本人の神|大野晋」でも詳しく述べられていました。非常に興味深い、書籍です。あわせてご拝読ください!
太古の昔から、人類は「疑う」ことより「信じる」ことを大事にしてきた。みんなが同じ信仰を持つことによって、共同体はひとつにまとまることができたのだ。
第2講 宗教とは何がちがうの?
さて、実は、そんな宗教を根源にしながら、哲学と科学が発展してきたと、著者である苫野一徳さんは語ります。それぞれ目指す対象が異なります。哲学は、意味を見出すものに対して、科学は事実を見出します。たとえば、哲学は「核のスイッチは押してはいけない」という考えをフィードバックするのに対して、科学は、「核開発が可能である」という事実をフィードバックすることを比べると明確です。
近代から現代にかけて、とりわけ現代では、一つの宗教観だけで、人生や社会を切り拓くのにはやや困難があるでしょう。だから、私たちの考え方のものさしとして、哲学や科学が発展してきたのです。
現代に潜む、考えの「ワナ」とは!?
哲学を駆使して、意味を見出したいものですが、実は、考えに曇りをもたらす、ニセの問いが現代にははびこっています。たとえば、「二項対立」です。これを苫野一徳さんは、「問い方のマジック」といいます。具体的な、事例を見てみましょう。下記2つのQを比べていきます。
Q)私たち人間が生きている絶対的な理由はあるのか、ないのか。
第6講 「問い方のマジック」にひっかからない――哲学的思考、その前に②
これを問われた時、どう感じるでしょうか。多くの人が、あるのか、ないのか、という選択肢から自分のスタンスを選ばなければならないという感じ方をするのではないでしょうか。いや、でもここで疑いが必要です。本当にそれらしか選択肢はないのでしょうか。もっと言えば、選択肢である必要があるのでしょうか。
Q)人間は、いったいどんな時に生きる意味や理由を感じることができるだろう?
第6講 「問い方のマジック」にひっかからない――哲学的思考、その前に②
このような問いの再構築によって、対話を誘発することが、最も大切であり、そして哲学的思考の真骨頂だといいます。
僕の考えでは、哲学の本領の半分くらいは、以上見てきたような”ニセ問題”を、意味のある問いへと立て直すことにある。
第6講 「問い方のマジック」にひっかからない――哲学的思考、その前に②
哲学は、こうした意味のある問いを通じて、一見私たちに断絶をもたらすような価値観の相違に対して、「共通了解」を目指させる思考力を提供してくれます。もっというと、思考力というより、対話機会かもしれません。
「超ディベート」を目指そう!
哲学は、ある命題が「真か偽か」を明らかにするものじゃない。何度もいってきたように、お互いの”確信”や”信憑”を説い合うことで、”共通了解”を見出し合おうとする営みなのだ。
第8講 ここから思考をはじめよう――帰謬法を封じ込める
共通了解を目指す方法論を「超ディベート」として、苫野一徳さんは説明します。
①対立する意見の底にある、それぞれの「欲望・関心」を自覚的にさかのぼり明らかにする。
第10講 信念の対立をどう乗り越えるか
②お互いに納得できる「共通関心」を見出す。
③この「共通関心」をみたしうる、建設的な第三のアイデアを考え合う。
たとえば、教育において「集団の規律を重視する集団統率」か「個人の自由に重きを置く自由尊重」か、どちらが大切か?という論点があったとしましょう。これらはどちらが良いのか?ということではなく、本来的な目的「子どもたちのゆくゆくの自由と、その相互承認を育むという共通関心」を見出しさえすれば、共通のアイデアを見いだせるということです。
ある種のアウフヘーベンかもしれませんね。対立構造で善悪を決めつけるのではなく、その上位概念を提起することが、ポイントです。西側東側、右側左側、などという過去の枠組みに支配されるのではなく、対話を通じて、アイデアを生み出していく、問いを持つことが肝心なのですね。
「①対立する意見の底にある、それぞれの「欲望・関心」を自覚的にさかのぼり明らかにする。」という1つめのステップで、そもそも「欲望・関心」がないよ!という人もいるのでは?
今回の投稿の最初に記載しましたが、現代は生きて行くのに、あまりに制約がありません。石器時代のように猛獣に襲われる心配もありませんし、封建時代のように搾取に怯えることもありません。より良く生きていくには、ひとりひとりがマズローの欲求段階の最上位概念を突き詰めていく必要があるのかもしれません。
苫野一徳さんは、教育者でもあるのだなぁと思ったのですが、そんな欲望や関心ごとを見つけるための工夫も説いてくれているのです。
そんな時、僕は学生たちに、次の二つの方法をアドバイスすることがある。
第11講 生きづらさを乗り越える
一つは、価値観や感受性を刺激するものにたくさん触れること。そしてその経験を、人と交換し合うことだ。
全体を眺めてみると、哲学的思考を駆使すると、対話が可能になり、対立や善悪の決めつけではなく、他者と共に生きていく方向性やアイデアを見出す問いかけが可能になるということです。そして、その根源には、互いの「興味関心や欲望」にふれることが重要で、自分自身の「興味関心や欲望」に敏感になるためには、教養に触れ、そしてそこから感じたものごとを他者と交換するのがポイントということですね。
最後に、あえて、もう一度、著者の苫野一徳さんの引用を載せます。
太古の昔から、人類は「疑う」ことより「信じる」ことを大事にしてきた。みんなが同じ信仰を持つことによって、共同体はひとつにまとまることができたのだ。
第2講 宗教とは何がちがうの?
非難の応酬ではなく、信じる対話へ、カミなき時代においても、私たちは向かっていくことができるでしょうか。
まとめ
- 「哲学」とは、そもそもなんだ!?――意味を共通了解として見出すことです。
- 現代に潜む、考えの「ワナ」とは!?――二項対立のような偽の問いかけに惑わされないようにしましょう。
- 「超ディベート」を目指そう!――互いの「興味関心と欲望」を知り、共通了解をめざしましょう。
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