- ものごとをよりよく考える時に、何が必要でしょうか。
- 実は、「問う」ことが必要かも。
- なぜなら、考える原動力であり、スタートラインだからです。
- 本書は、そんな大切な「問う」について説く1冊です。
- 本書を通じて、「問い」の大切さと社会的な認識について俯瞰した視点を得られます。
問いとは!?
考えることは問うことに基づいている。
はじめに
はじめに、問いがあって、そこから考え始めることができます。漠然とした状態から、いきなりものごとを考えることはできません。「なぜ~~なのか?」「いったい、いつ~~なのか?」「どうしたら~~なのか?」そういった問いが、常に考えることの起点になります。
ビジネスの世界でも、教育の世界でも、考えるという行為に注目が集まり、いかによりよい答えが出せるのか、効率的な方策を考えられるのか、アウトプットに注目が集まります。
しかし、本質的に大切なのは、その原点である問いなのです。問いが、正しければ、自ずと答えのベクトルも良くなります。目的と手段を間違ってはいけません。
まず、考える力を身につけるためには、「問う力」を養う必要があります。
本書は、「問う」ことが私たちの人生においてどのような意味を持つのかを、問う1冊です。
問いは嫌われる!?
しばしば、問いは暴力的であるともとらえられます。問いについて次のように感じることが、あります。
1)攻撃的に感じる
2)責めているように感じる
3)不満を表しているように感じる
4)抗議の意味を感じる
それは、問いのない状態がなんとなく良いものだという刷り込みによるところもあります。義務教育の中で、問いは常に与えられます。問いが与えられて、それに対して理想的な答えを出して、スッキリする状態を目指すのが、教育といってもいいかも知れません。
だから、常に問いは与えられます。問いが与えられることに慣れていて、自ら問うことに違和感を感じるのが私たちの通常の状態なのです。
怒りや不満、抗議の気持ちを帯びた問いを除けば、そもそも私たちは、自分から問うのに慣れていない。
問いは、”与えられるもの”である
問いの先には!?
でも、先述のように、問うことは考えることの起点になります。問いがなければ、よりよく考えることも難しいです。
1)問うという行為は・・・好奇心の表れである。
知的好奇心を持ち続けることは、常に学びを触発します。対象となるものごとや人に対して、興味関心を持ち接していることで、自ら考える深い学びのサイクルに向かうことができます。
時として、知的好奇心による問いや思考や、行動が、自分自身をよりよい方向へと導くきっかけともなります。例えば、クランボルツが提唱する「計画的偶発性」も、こうした考えを支えます。計画的偶発性については、こちらの1冊「【幸運は引き寄せられる!?】その幸運は偶然ではないんです!――夢の仕事をつかむ心の練習問題|J・D・クランボルツ,A・S・レヴィン」をご覧ください。
2)問うという行為は・・・違和感の表れである。
疑問、怒り、反発、抗議、苦悩、不安などのネガティブな要素だけではなく、違和感を表出することも問いです。なんとなく、違うような気がする。何か引っかかるような気がする。そんな第六感的な感性を大切にするためにも、問いは役立ちます。
違和感と共に生きるのは、悪いことではない。むしろ当たり前のことだ。
問うという行為は…②違和感の表れ
この世の中や社会は、自分のためにできているものではありません。誰かのためにできているわけでもない。だから、違和感を感じて当然です。違和感を押し殺して生きていくのではなく、積極的に活用することで、新しい視点と変化をもたらすことができます。
世の中や社会は、つねに移ろいゆくものです。
だから、違和感を起点にして、より良くしていく起点になってみましょう。
人は一人で生きているのではなく、他者との関係性の中に生きています。あなたが感じ、見つけた違和感を、「問い」として他者と共有するすることで、ともに新しい変化を生み出していくことが可能になるのです。
問いは、協働・共感・共創のための起点になるエンジンです。恐れずに自信をもって、問いを使っていくことがとても大切なのだと感じます。次回も本書を取り上げさせていただきながら、今度はよりよく「問う」ことについて理解を深めていきたいと思います。
まとめ
- 問いとは!?――考える原動力です。
- 問いは嫌われる!?――問いは時として、ネガティブな印象をはらみます。
- 問いの先には!?――よりよい関係とよりよい変化をもたらします。