【贅沢とは何なのか!?】目的への抵抗―シリーズ哲学講話―|國分功一郎

目的への抵抗―シリーズ哲学講話―
  • 「消費者」としてではなく、「生活者」として自分たちをとらえる時、何がもっとも異なるのでしょうか!?
  • 実は、目的的でないことに対する考え方かも。
  • なぜなら、目的的でないところに、本当の「贅沢」があるからです。
  • 本書は、國分功一郎さんによる、哲学講座を収録した1冊です。
  • 本書を通じて、私たちが生きる社会に対して、新しい問いを持つことが可能です。
國分功一郎
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過去の投稿「【パンだけでなく、バラのある生活?】暇と退屈の倫理学|國分功一郎」で取り上げさせていただいた1冊において、國分功一郎さんは、生きることの新たな視点をくれました。

今回取り上げさせていただく本書の2部の講話でも、さらにその内容を深掘りしてくれています。

消費と浪費とは!?

消費者という言葉が象徴するように、産業革命以後、社会は私たちに「消費」を強いてきているようでした。消費には終りがありません。例えば、みんなが美味しいと評価するクチコミサイトナンバーワンのお店に行くことを考えてみましょう。そこでの食事をすれば、たしかにお腹は満たされますが、実は永遠に満たされないものがあります。それは、「その食事を提供する魅せに行ったことがあるという観念や記号や情報」です。これらはいくらうけとったとしても、満たされることがありえないのです。

消費のメカニズムを応用すれば、経済は人間を終わりなき消費のサイクルへと向かわせることができます。

20世紀にはこれが大々的に展開され、大量生産・大量消費・大量投棄の経済が作り上げられるとともに、人類史上、前例のない経済成長がもたらされました。同時にそれは甚大な環境破壊も引き起こしました。

消費と資本主義

では、消費の反対とはなにか・・・。私たちは、ずっと観念の枯渇の中を、生きていかなければならないのでしょうか。

一つのヒントが、浪費です。浪費による贅沢について考えることが、私たちの新しい過ごし方のヒントになるのではないでしょうか。

消費社会は僕らに何の贅沢も提供していない。

浪費家ではなくて消費者にさせられる

「次はこれだ、その次はこれだ」と私たちを消費者になるように駆り立てます。社会は私たちを駆り立てる一方です。

私たちは浪費家になって贅沢を楽しめるはずなのに、消費者にされて記号消費のゲームへと駆り立てられています。

むしろ贅沢を求め、物そのものを受け取って浪費することこそが大切ではないのか。

浪費家ではなくて消費者にさせられる

それは人間に充実感や豊かさをもたらします。そしてなにより、浪費は満足によって止まります。物の受け取りには限界があるからです。

浪費はどこかで満足に達して止まるという点は極めて重要です。なぜならば、自分たちが奪われている楽しみや豊かさを取り戻すことによってこそ、大量生産・大量消費・大量投棄に基づく消費社会の悪循環に亀裂を入れることができるという視点が得られるからです。

浪費家ではなくて消費者にさせられる

コロナ禍で見た必要とは!?

「不要不急」という言葉を何度聞いたことでしょうか。

そして同時に、人生というのは、常に目的がありえるものか、という違和感を感じた方も少なくないのでやないでしょうか。

何が、不要で、何が不急なのか。

そんなこと考えもしたこと無かったけど、人生の時間の使い方はすべて、目的をはかられるべきものだったのか・・。

すべてを目的に還元する論理、目的をはみ出るものを許さない論理は、消費社会の論理を継続するために、現在、この社会でその支配を広げつつあるのだと言うことができるのではないでしょうか。

目的にすべてを還元しようとする社会

社会は、あなたに対して、あらゆるものを目的に還元し、目的からはみ出るものを認めようとしないのです。

こうした、隠れた論点にアンテナを立ててみることが重要です。

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目的なくして生きられるか!?

目的とはそもそもなんでしょうか。それは、手段を正当化する手段なのです。

「目的とはまさに手段を正当化するもののことであり、それが目的の定義にほかならない」
(ハンナ・アレント『人間の条件』)

第2部 不要不急と民主主義――目的、手段、遊び

一方、人が贅沢をするのはなぜでしょう!?実は、それ自体がよろこびをもたらすからです。

おいしい料理を食べるのは、それ自体がおいしいからほかなりません。

贅沢というのは、何らかの目的に向けられているものではない、というのが重要な視点です。

ということは、「人間らしい生活をするために、私は贅沢をしなければならない」と考えてしまうことは、贅沢が目的になってしまうため、これまた異なるということになります。

贅沢はそもそも目的からはみ出るものであり、それが贅沢の定義に他ならないからです。

チェスのためにチェスをする

目的から、いかに自由になれるか・・・ではないでしょうか。「こういう動機でやっています」「こういう目標を達成するためにやっています」としか言えないような好意は本質的に自由ではないのです。

國分功一郎さんは、ひとつのキーワードを提示してくれます。それは、「遊び」です。

「遊び」という日本語が持つ「ゆとり」という意味にも注意を促しておきたいと思います。
「ハンドルの遊び」のような言い回しで、この語は、機会の連結部分がぴったりと付いていないでゆとりを持っていることを意味します。

遊びについて

遊びは、そもそも目的から逃れる行為にほかなりません。少しも不真面目でないし、むしろ真剣に行われるものですし、ゆとりとしての遊びは活動がうまく行われるために欠かせないものです。

問題は、あらゆるものが目的合理性に還元されてしまう事態に警戒することです。

まとめ

一人ひとりの人間が、共通の目的をいったんおいておいて、自由に行為をすれば、そこには同意や共感だけではなく、不同意や反感もうまれるでしょう。そうすれば、対話や調和が必要になります。

ですが、そうした自由な活動に真剣に取り組む時、人間は目的と手段という連関からは一時的でも離れて、何らかの喜びや充実を感じるのでしょう。

まとめ

  • 消費と浪費とは!?――目的から逃れることです。
  • コロナ禍で見た必要とは!?――不要不急ということばから全て目的的に語られる違和感を私たちは感じました。
  • 目的なくして生きられるか!?――いかにしたら一人ひとりが目的から自由に、遊びを純粋に取り入れることができるでしょうか。対話や調和の必要性がここにはあります。
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