- 言葉や世界へ向けられた自分の視野がすべてだと思ってしまっていませんか!?
- 実は、言葉や視野は、諸刃の剣なのです。
- なぜなら、それは一部の世界を認識する術でありながら、すべての世界を認識することはできないからです。
- 本書は、白取春彦さんによる、世界の哲学者の思考へのいざないです。
- 本書を通じて、生き方を考える多くの手助けを得られます。
言葉は世界のすべてか!?
言葉を使うから、わたしたちは言葉によって騙されてしまう。
13 心と身体は別物ではない
私たちは、言葉を使います。言葉があるからこそ、ものごとについて考えられます。しかし、同時に言葉があるからこそ、私たちは私たちに騙されてしまうのも事実なのです・・。
どういうことかというと、言葉は、世界をそのままに表現できているわけではありません。一定の抽象度をもって、世界の一側面を切り取ります。
また、「分節化」という作用をもって、本来分けられないはずのものを分けて語ります。
たとえば、
- 陸地と水際
- 緑と青と紫
- 生と死
- 夕方と夜
- 子供と大人
- 若さと老い
- ・・などなど。
これらは連続していて、もっともっと曖昧なはずです。でも、言葉が与えられることによって、それはあたかも明確な分節があるように感じてしまいます。
これが言葉の落とし穴です。
ちなみに、仏教の教えを見てみても、極端を嫌います。きっと、ブッダも世界というのはもっと混沌としていて繋がりのなかで複雑な一方、非常にシンプルな成り立ちをしていることを、伝えて行きたかったのではないでしょうか。仏教の極端を嫌う考えについてはこちらの投稿「【メリットたくさん!?半分にする効用とは!?】半分、減らす。―――「1/2の心がけ」で、人生はもっと良くなる|川野泰周」をご覧ください。
視野は世界のすべてか!?
言葉だけではありません。私たちが世界を認識するときの視野・視点についても、疑問を持ってみましょう。
誰もが自分の遠近法によってつくられた事象の結合を世界だと思いこんでいるからだ。
15 相手の見ているものが見えているか
一般に人は、自分に関心のあるものごとに重きを置いて、その反対は、それなりに、というものの見方をします。これをニーチェは「遠近法」と名付けました。
これは仕方のないことです。今の状況と自分にとって必要とされていることがないがしろにされてしまうようでは、ひいては生存が危うくなるのです。
誰もが思い込みの世界の中で生きている・・つまり仮構の世界を生きているのです。でも、本人にとってはその仮構の世界が、現実の世界であるのです。人の数だけ、仮構があり、それらは交わりにくい・・、それが人の世界の認識です。
その世界に本人はずっと住み、その世界に応じた世界観を持っているからだ。
15 相手の見ているものが見えているか
「自分」という存在も、思い込みなのです。
自分が考える「自分」もまた仮構です。やっかいなのは、「自分の考えることや行いは善とはいいきれないまでも、おおむね正しく妥当なものだ」と遠近法的に解釈しながら生きているのが、「自分」という生き物です。
だから、他人が見ている「自分」は、私が見ている「自分」とは全く異なっているということになります。
これらの事実と、向き合いながら、この世界を生きていく必要があります。
私たちは、言葉と視野をもっていかに生きるべきか!?
では、わたしたちは互いに深いところで本当に意思疎通などできていない、互いを理解できていないということを嘆くべきなのだろうか。
15 相手の見ているものが見えているか
それでも、私たちは、相手とのコミュニケーションを多くするしかないでしょう。どこに齟齬があるのか、そして、問題はどこにあるのか、どのように対処するべきなのかを明らかにしていく・・互いに、言語・視野に相異があるに違いない、ということを前提に、勇気をもって進めていく必要がありそうです。
言葉の数を増やし、話す時間を増やし、あきらめないで相手を理解するよう努めていくべきでしょう。
それは、まさに、「愛」とでも言うような、そんな心持ちなのかもしれません。
まとめ
- 言葉は世界のすべてか!?――言葉は便利なものの、世界を総体として表せません。
- 視野は世界のすべてか!?――視野もひとりひとり異なります。
- 私たちは、言葉と視野をもっていかに生きるべきか!?――言葉と視野の特徴・限界を知り、愛をもって互いに接しましょう。