- いろいろ思い悩んだりすることは、人なので、多々あるでしょう。変化の多い時代だからこそ、なおさらです。
- 実は、人は言葉を持つからこそ、悩んでしまうのです。
- なぜなら、言葉を通じて、現実以外の世界を作り出せるからです。
- 本書では、曹洞宗僧侶でありながら、フェイスブック社やスターバックス社などで坐禅を教示した経験をお持ちの藤田一照氏が、仏教の考え方から現代の生き方について触れてくれます。
- 本書を読み終えると、いかに自分が自分でつくり上げた虚構の中で苦しみもがき、盲目の中で「水をかき混ぜてバターを創るような」そんな苦しみを感じていたのかと一つの視点をいただくことができるでしょう。
本書は、3回に分けて取り上げたいと思います。今回は、その3回のうち1回目です。藤田一照さんを知ったのは会社のプロジェクトを通じてでした。そこから著書「【毎日が楽しい修行!?】ブッダが教える愉快な生き方|藤田一照」を拝読し、大変感銘を受けました。仏教というコンセプトから、いまの時代をより良く生きるヒントがたくさん詰まっていると感じています。
人にとって、言葉は暴走する道具でもあるのです。
人間はおそらく唯一、「言語による思考」をもつ厄介な生き物で、私たちの生活を支配しているこの生物学的行動原則には、「言語による思考」が副次的に生み出す人間独自の「現実を現実としてちゃんとうけとめない」という特徴が混入しています。それは言い換えると、「こうあってほしいという自分の都合に合わない事実は、自己防衛のために認めようとしない」ということです。これを否認(denial)といいます。
第1章 執着をはなつ
他の動物になくて、人間にあるのは、言葉でしょう。言葉があるからこそ、人は、抽象的にものごとを理解し、それを応用しながら、科学技術を発達させてきました。
蒸気機関の発明や、ロケットを飛ばす技術、あるいは、何にでも変体できる細胞の応用などは、全て、言葉を話せるから、これまでの基礎研究が応用されて、コラボレーションを生み、結果として実現できているのです。
ものごとには必ず二面性があります。こんなに便利な言葉でも、それは、使い方次第で人を傷つけたり、誤解をうんだり、さまざまな悪事として私たちにもたらすのです。
もっとも、悪影響を及ぼすのは、自分自身にです。
なぜなら、著者がおっしゃるように、言葉によって現実をそのまま受け入れることが難しいという前提を作ってしまっているのです。動物ならば、寒ければ、暑いところに好き勝手に移動するでしょうし、お腹がすけば、好き勝手に食べ物を探して徘徊するでしょう。
でも人間は、そういった根源的な欲求だけではなくて、お金や名誉、自信などさまざまな概念を欲する生き物になってしまっているのです。
もしかしたら、旧約聖書のアダムとイブの苦しみもこういった解釈のひとつなのかもしれません。知恵があるからこそ、生み出せるものがあり、それはまた、人特有の苦しみも生み出してしまうことにつながっている・・。
この現実の認識をまず持つことから、人の人生を考えることが始まります。否認の考えを外側からながめてみることが重要です。
たまたまいまここにあるという考え方を持ってみましょう。
仏教では「縁起」といいますが、すべてのもの・ことは、数限りない条件が寄せ集められて、刻々にかたちづくられているものであって、それ自体で独立して成り立っているものはなにもありません。だから、絶対に変わらない不変なものなんかどこにもない、すべては一時的な「状態」である、という見方です。
第1章 執着をはなつ
「縁起」の考え方を通じて、たまたま、今こうして自分があることを認めることが根源なのです。でもたまたまに、ありがたみを感じてみようというのも仏教のコンセプトのひとつだと、著者は言います。
著者はこのたまたまのありがたみについてこんな説明をします。
春になるといろんな芽が出て、花が咲きますが、それは宇宙全体が咲かせているからこそです。宇宙の中野どれか一つでも反対したら、花は咲かないんです。宇宙全体がその花を肯定し、存在に賛成しているということです。
第1章 執着をはなつ
とってもステキな表現だと思いました。
私は今、ご縁があって、板橋区にあるとある大学のキャンパスでこの投稿を書いているのですが、とてもいい天気で気持ちが良いです。カフェテリアの外のテラスの席で、ここちよい4月末の風に吹かれ、新入生を迎えたキャンパスのイキイキとした活動の中に身を委ねながらただあるだけで、不思議な満足感を感じます。キラキラとした太陽に照らされる中庭には、ちょうど咲いたばかりのハナミズキがあり、とても美しいです。
私が、いま、こうしてはるばる板橋区のキャンパスにいるのも、ハナミズキが咲いているのも、周りの席で談笑している学生の存在も、すべてたまたまですが、全宇宙がそうしているともとらえることができるはずです。
こうしたことに気づくことが大切なのかもと思えました。
でも、日常生活はこうした輝きの瞬間が連続しているとなかなか思えないことも事実です。
仏教は、人生はストレスに満ち溢れている。と認めます。
その苦しみをつくり出しているのは、つぎの3つの心の状態だそうです。
- 1.貪(とん)・・心のある状態は好ましのだけどまだ何かが足りないから、その何かをもっとほしいと思う心です。(むさぼりの心です)
- 2.瞋(じん)・・今の状態には何か気に入らないものがあるので腹が立つ、だからそれを取り除きたいという心です。(怒りや憎しみの心です)
- 3.痴(ち)・・・今起きていることに自覚がない状態のことです。(愚かさの心です)
これらはすべて、現実を現実としてそのまま受けいれられていないことによります。どの状態で頑張ってみても、それは満たされることは決してないのです。なぜなら、あなたの頭がつくり出した虚構だからです。
あるがままを受け入れるには、どのような考え方が大切なのでしょうか!?
死生観を持つことで、人生を考えるヒントを得られる。
人生観の大きな要素となるのが死生観です。そして、死と生をどう見るかというのが死生観なのですが、私たちは「死」が抜けた「生観」だけになっています。
第1章 執着をはなつ
私たちは、生だけを見がちだと、著者は言います。人生100年時代いかに生きるか、いかに病気をなくすか、いかに死を遠ざけるか、などなど・・・。でも、これから本質的に逃れることはできません。
より良く生きていくためには、死を受け入れることが大切なのです。
そして、死は私たちにとって、もっともっと身近なものだと気づくことなのです。
私たちは生の側にいるかぎり、死の側は絶対に見えないんです。でも、死が無いわけじゃない。私たちは日々、「生きつつ死んでいる」のです。これは、考え方ではなく、事実です。
第1章 執着をはなつ
37兆個の細胞が生きつ死につしている私たちのからだがあります。そしてこのからだは、たまたまそれらの細胞が集まってこの瞬間に形作られた奇跡であるという考え方に仏教は立つので、生と死が常に共存している感覚を持てます。
いくら、死から逃げても、逃げ切ることは残念ながらできません。死を受けれ、よく見ることから、日々の暮らしへの新しい考え方が立ち現れてくるのです。
メメントモリ、日々死を想って(恐れてではなく)与えられた貴重な時間を全力で暮らしているうちに、そこはかとなく死に照らされて陰影を増す生の姿が感じられてくると思います。
第1章 執着をはなつ
まとめ
- 人にとって、言葉は暴走する道具でもあるのです。――言葉を道具として得た人だからこそ得られるものと、得てしまったものがあります。虚構をつくり出し、苦しみを生んでいるのは、言葉であり、そこからもたらされる概念です。
- たまたまいまここにあるという考え方を持ってみましょう。――全世界が認めてくれているから、わたしはわたしとしていまここに形作られているということは、奇跡以外のなにものでもありません。
- 死生観を持つことで、人生を考えるヒントを得られる。――死はとっても身近なものです。私たちは常に死んで、生きている。この感覚を持ってみましょう。変化に恐れずにそれを受け入れましょう。
次回の投稿では、本書を読む中で見つけた、「コンサルタント」として他者(社)との向き合い方と仏教の考え方をまとめてみたいと思います。