【パンだけでなく、バラのある生活?】暇と退屈の倫理学|國分功一郎

暇と退屈の倫理学
  • どうしたら幸福になるのか、どうしたらウェルビーイングを目指せるのか?そうした生き方の問いを持ったことはありませんか。
  • 実は、國分功一郎さんの提唱する「暇と退屈の倫理学」がヒントをくれるかもしれません。
  • なぜなら、著者はこれまでの退屈という切り口で、私たち人間(現代人)が置かれている状況を人類の歴史と哲学の歴史から紐解きながら、ひとつのものごとの考え方を提示してくれているからです。
  • 本書では、暇・退屈の定義をすえ、暇のありなしとはなにか、そして退屈のありなしとはなにかという下敷きで、よりよく生きる着眼点が提示されていきます。
  • 本書を読み終える(通読する)と、退屈な人生の中を少しの薔薇色で飾ることの楽しみ、考えについて触れることができるでしょう。
國分功一郎
¥792 (2024/02/26 16:16時点 | Amazon調べ)

人間は脳があまりにも発達であるがために退屈してしまいます。

ここまで定住化が人間にもたらした変化の一部をあげてきたが、本書にとって最も重要であるのは、次の点だ。定住によって人間は、退屈を回避する必要に迫られるようになったというのである。どういうことだろうか?
遊動生活では移動のたびに新しい環境に適応せねばならない。新しいキャンプ地では人はその五感を研ぎ澄まし、周囲を探索する。

第二章 暇と退屈の系譜学

人の大脳は進化の中で、高度に発達してきたのですが、とある時代から定住するようになりました。

定住することで、新しい環境に馴染む面倒な活動が減少した一方で、人は五感や思考を持て余してしまうようになりました。

決まった場所に、ゴミを捨てること、トイレをすることが、子どもや大人にとっても面倒なのは、定住生活がいかに人間にとってイレギュラーで、生物として本能のプログラムに組み込まれていないかを証明します。

人は優れた能力を定住によって、持て余し、そして、退屈の可能性を得ることになりました。

退屈するというのは決して振り払うことはできません。

ここまで、パスカルの考察をもとにして議論を深めてきた。それによって、<暇と退屈の倫理学>の出発点を得られたように思う。
人間は部屋でじっとしていられない。だから熱中できる気晴らしをもとめる。熱中するためであれば、人は苦しむことすら厭わない。いや、積極的に苦しみをもとめることすらある。この認識は20世紀が経験した下ろそしい政治体制にも通じるものであった。

第一章 暇と退屈の原理論

人間は能力をもてあまらしてしまっているがために、自分の部屋でじっとしていることができません。

新しい刺激をもとめて、よせばいいのに、ふらふらと外へ出かけて、時に、傷つき、傷つけ、自室に返ってきます。

そしてまた、明日でかけていく。

それが人間なのです。

どうしても「なんとなく退屈だ」という声を耳にしてしまい、これに抗うように、行動をします。

習慣の奴隷にならないこと。

人類は気晴らしという楽しみを創造する知恵をもっている。そこから文化や文明と呼ばれる営みも現れた。だからその営みは退屈の第二形式と切り離せない。ところが消費社会はこれを悪用して、気晴らしをすればするほど退屈が増すという構造を作り出した。消費社会のために人類の知恵は危機に瀕している。

結論

退屈な人生を凌ぐために、人はあらゆる楽しみを発達させてきました。

そこに大きく関わるのが、環世界を相当な自由度をもって移動できる能力です。環世界とは、人間や動物やモノの存在する、あるいは生きる世界は異なる時間や感覚が適応されているもので、それらは別々に存在しているという世界観です。

たとえば、マダニの世界は、哺乳類から吸血するために特化した世界を持っています。

1)酪酸の匂いというシグナル
2)セ氏37度の温度というシグナル
3)体毛の少ない皮膚組織というシグナル
に閉じた世界の中で、一定の活動を繰り返します。

しかし、人間の感覚や感性はこれよりも圧倒的に複雑化してしまったがために、退屈してしまっているのです。

一方で、ただもう一歩、深堀りをすると、これらの世界を自由に行き来できるのも人間であるとも言えます。

たとえば、天文学者や医者の世界のように専門家しか捉えられない世界観がそこにはあるはずで、一定の訓練や趣味趣向で、そこに到達することも、暇さえあれば可能なのです。

習慣の中だけに閉じて、繰り返しの奴隷になってしまう生活に浸ってはいけません。

きっと、日常生活の中にでもシグナルはきっとあるはずです。それらを楽しむこと、そして楽しむために考えること。これが人として退屈の中で生きて行くのに必要なことなのかもしれません。

楽しむことは思考することにつながるということである。なぜなら、楽しむことも思考することも、どちらも受け取ることであるからだ。人は楽しみを知っている時、思考に対して開かれている。
しかも、楽しむためには訓練が必要なのだった。その訓練は物を受け取る能力を拡張する。これは、思考を強制するものを受け取る訓練となる。人は楽しみ、楽しむことを学びながら、ものを考えることができるようになっていくのだ。

結論

世界には、思考を強いるようなシグナルがあふれているはずです。社会、政治、会社、組織、生き方、芸術、など、それらのすべてがシグナルを発信しています。そんな刺激に対して、強制的に開かれているために、楽しむことを学ぶことが大切です。

まとめ

  • 人間は脳があまりにも発達であるがために退屈してしまいます。――定住をきっかけに人は、退屈を得る可能性を得てしまいました。
  • 退屈するというのは決して振り払うことはできません。――人はその能力があるからこそ、「なんとなく退屈だ」という状態から逃げることはできません。
  • 習慣の奴隷にならないこと。――世の中にあふれている思考を強いるシグナルに開かれている状態になるために、楽しむことを学びましょう。

本書を通読する過程こそが、思考の楽しみを知り、そして、考えることの強制を体験するものになっていました。誰もにぜひ一読をおすすめしたいです。
余談ですが、「感動」を重視したハイデガーが哲学の一つの定義として引用したというノヴァーリスの「哲学とはほんらい郷愁であり、さまざまな場所にいながらも、家にいるようにいたい、そう願う気持ちが哲学なのだ。」という言葉。これに、私も心揺さぶられました。

國分功一郎
¥792 (2024/02/26 16:16時点 | Amazon調べ)
よかったらシェアしてね!
  • URLをコピーしました!