- 100年時代、生涯学習の重要性が語られています。
- 実は、大人も子どもも、勉強の意味を考えることが重要かもしれません。
- なぜなら、勉強というのは、させられるものではなく、するものだからです。
- 本書は、哲学者でもあり、教育学者でもある苫野一徳さんによる勉強の意味を考える内容です。
- 本書を通じて、私たちにとって、あるいは自分にとっての勉強の意味を考えるきっかけを得られるでしょう。
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この本「【わかりあえない時代の対話手法とは!?】はじめての哲学的思考|苫野一徳」ではじめて苫野一徳さんを知りました。衝撃的でした。もっと苫野一徳さんの本を読みたくて、深掘りをしています。ぜひ、みなさんもご一読ください。今回取り上げる本もとても深く考えるきっかけをいただける内容です。

まず、私たちの思考のワナを知ろう!
私たちは、どうしても「正解」を求めてしまう傾向にあります。それは常に問題を与えられて、答えを求めてきたためです。でも世の中には、答えが用意されている問題はそうそうありません。もっというと、問題提起こそが重要だったりします。それなのに、私たちはなお、絶対的な答えを求めてしまいがちです。苫野一徳さんは2つの思考のワナを語ります。
「一般化のワナ」も「問い方のマジック」も、まさにわたしたちに正解を求めてしまう傾向があるから陥ってしまう問題です。自分の経験こそが正解なのだと「一般化のワナ」にひっかかり、「あちらとこちら、どちらかが正解に違いない」と、「問い方のマジック」にひっかかってしまうのです。
ニヒリズムという”どん詰まり”
「一般化のワナ」は、自分の経験がすべてに当てはまるように考えてしまう傾向です。例えば、むっちゃくちゃ厳しい体罰が許されながら、全国制覇を果たした部活では、その後も体罰=全国制覇のように語られるようになることがあります。
「問い方のマジック」は、A or Bでなぜか最初から二者択一担っている問いです。例えば、体罰は正しいのか、そうでないのか、という問い掛けのことです。
いずれも、正解を求めるように私たちを誘導します。でも、これがワナであるということにまず気づかなければなりません。絶対的な答えというものは、そうそうありません。こういう場合には、こういう答えのほうが適切だ、くらいまでは言い切れても、いつなんどきも、フィットする答えがあることを信じるのは、危険です。
では、どういうスタンスを持てば良いのか?
「絶対解」ではなく、「個別解」そして、「納得解」で世の中を見る!
大切なのは、全体としての絶対的な答えを見つけにいくのではなく、自分にとっての答えを感じるということです。
「答え」は一つじゃないのです。人によって、また時と場合によって、勉強する意味や理由はさまざまに変わるし、またいくつもあっていいのです。
「納得解」を見つけよう
まず、自分にとって、勉強はどんな意味を持つものかを考えてみることが大切なのだと、苫野一徳さんは言います。そしてこのように問いかけを変えることに、意味を見出します。
Q)勉強はなぜしないといけないの?
↓
Q)自分が勉強の意味を感じたのはどんなときだった?
こうすることで、勉強する vs しないという二項対立を避けながら、勉強することの意味を見出し、それを交換する新しい局面をひらく、きっかけを得られるようになります。
地味なようでいて、実はとても大きな「問いの立て方」の変更でした。
「問いの立て方」を変える
絶対的な生きる意味を見つけようとするんじゃなくて、自分にとっての生きる意味を見つけよう。
そして、自分自身の「個別解」が見つかった先に、きっとみんなに共通する「納得解」のようなものが対話できる素地ができるのではないか、と、苫野一徳さんは論を進めます。
「勉強」の意味(「納得解」)は、どこにある!?
――ズバリ「答え」をいってしまいます。
「生きたいように生きる」には
それは<自由>になるためです。
これまでの人類の歴史は、争いの絶えないものでした。そしてなぜ、これほどまでに争うかというと、自分の思い通りに生きる自由を得たいがためです。たとえ、負けて死ぬことがわかっていても、隷属させられている人は、支配者に勝負を挑みます。これは他の動物には見られない、人ならではの意識です。<自由>を奪われてまで、人は、生きられない。
そして、<自由>に生きるためには、力が必要です。知識や技能が、なくては、自分の思うように生きることが難しいのです。人は、社会に出ていろいろな場面でいろいろな問題を提起し、解決していかなければなりません。そんな時に、<自由>に生きる力を発揮するために、学んでいるのです。そして、もっというと、「学び方」を学んでいることが勉強です。苫野一徳さんは、このように<自由>を人の欲求・関心事の根底においた論を展開しています。
わたしたちには学校というところが必要なのです。それは、すべての子ども達が<自由>になれるよう、さまざまな知識・技能をはぐくみ、そしてまた、<自由の相互承認>の”感度”をはぐくむための場所なのです。
”感度”をはぐくむ
法律が、どれだけ生命の自由や言論の自由、職業選択の自由を保証しても、私たちに生きる力がそなわっていなければ、意味がありません。また、いくら生きる力が身についていたとしても、互いの<自由>を侵害してれば、互いの深い欲求・関心事である<自由>を認めあえる、よりよい社会は作っていけません。その技能習得、感性を育むために、学校・教育は存在するのです。
大人の学び方としては、苫野一徳さんの提唱する基礎的な考え方を持ちながら、越境していくことも良いきっかけになります。越境学習については、こちらの投稿「【越境人材は、2度死ぬから、生きる!?】越境学習入門|石山恒貴,伊達洋駆」をご覧ください!

まとめ
- まず、私たちの思考のワナを知ろう!――絶対解があることに慣れすぎています。社会はそうじゃないのに。
- 「絶対解」ではなく、「個別解」そして、「納得解」で世の中を見る!――まず自分にとってどんな意味があるのかを考えてみましょう。
- 「勉強」の意味(「納得解」)は、どこにある!?――<自由>を得るための力にあります。学校では、その方法を教えてくれるのと、<自由>を互いに認めあえる感度を学びます。
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