- 仕事や暮らしに忙殺されるなかで、本当に生きるってなんだろうってふと思うことはありませんか?
- 実は、人として生きるを突き詰めた芸術家が岡本太郎なのです。
- なぜなら、太郎は自分の本職を、絵描きとしてなのらず、むしろ人間と答えたほどです。
- 本書では、太郎が生前残した数多くの文章から、人間岡本太郎の思想を垣間見ることができます。
- 本書を読み終えると、自分の生きる力を見つめ直すきっかけを得られるでしょう。
人として生き抜くことは、怒ること。
憤り、己をつらぬき、表現することこそ、最も純粋な人間の証である。
はじめに
太郎は、この怒りを繰り返し語っています。人として生き抜くためには、怒りが必要だといいます。
怒りと言っても、日頃の社会や会社に対するうっぷんとかそういう怒りではなく、人間としてあたりまえに持っているべき人間に対する憤りのことです。
例えば、太郎は私たち人間の成り立ちは、憤りだというのです。
むかしむかし、アフリカで、気に登ることに憤りを感じたのが、私たちの祖先だという説を語ります。これは純粋で、強烈な憤りの中で、展開されて、祖先はサバンナの中に賭けに出て、見事に生き抜くことに至った。
だから、私たちも人間であることを憤りながら、毎日毎日自分を疑いながら、新しい瞬間を生きろというメッセージだと思います。
色について。
日本には美の伝統がある――誰でもそう思い込んでいる。事実、奇妙に心得ている。だから趣味的になる。それは必然的に狭い。近寄って、仔細に見れば、なるほど、ねらいは解るのだが、遠くから全体を見渡すと、そんな小細工はケシとんでしまう。
色オンチ
色の使い方がひどく控え目、臆病といえるほど。そのくせ、バラバラで、互いに殺しあっているのだ。
日本の古都や文化の色をイメージすると、わびさびのようなアンニュイな色使いを想像します。
でも太郎は、それを互いが喧嘩しているような色で、全体としてバラバラだと独自の感性で指摘します。
たとえば、着物。着物を着た女性が並んだ様は、まるで、バラバラで互いに殺し合ってしまっていると言うのです。
一方で、太郎が好むのは原色です。それは、互いの個性が「楽しくぶつかり合うこと」で、逆に全体にハーモニーが浮かび上がってくるという考えだそうです。
たしかに、個性豊かな南米の街並みや、ラスタカラーのレゲエシーン、あるいは、アフリカマサイの衣装などは、いずれも原色を鮮やかに使いながらも、不思議なエネルギッシュな調和を感じます。
もっと、怒り、ぶつかり合い、そして、力強い調和を迎える先に、なにか新しい可能性が見えるのかもしれません。
日本の社会は、集団としての和を大切にするがあまり(これについても疑わしいけど)、ひとりひとりが際立っていない!怒るんだ!という比喩を見ます。
子供の絵について。
子供の絵こそ、「絵」「作品」であるというよりも、生活のそのものなのである。
子供の絵
大人になるとどうしても目的的に生きてしまいます。仕事のため、家族のため、余暇のため、趣味のため、・・・時間の使い方が目的的で、心が解放される瞬間がありません。
ふとした暇の時間には、スマホを無目的にいじってしまったり、そんな、暇でもあり、退屈でもある、なんとも非力な時間の使い方をしてしまっているようです。
太郎は子どもが絵を描くということは、それこそが、生きることであるといいます。
たしかに、子どもは全身を使って、好きな色で、好きなものを、気の向くままに描き、完成されることはありません。
生命の衝動、情熱、無目的な行動というのが、極端に減っていくことは、豊かなことなのか。そもそも、目的的というが、何を目指しているのだろうか、、・・・そんな気持ちになります。
岡本太郎の力強い生きる言葉にもっとふれたい方は、こちらの過去投稿「【自分の人生を引き受ける覚悟はあるか?】自分の中に毒を持て|岡本太郎」も、おすすめです!
まとめ
- 人として生き抜くことは、怒ること。――人として本質的なことに、憤りを覚えながら、本当の意味で生きよう。命を燃やそう。
- 色について。――自分の色をはっきり出そう、ぶつかりあってもいい、怖がらないで。そこからが、全体として逆に力強い調和、ハーモニーを生み出そう。
- 子供の絵について。――子どもが絵を描くように、無目的的に、生命の衝動や情熱を燃やす瞬間を持ってみよう。
4月の新年度1冊目、岡本太郎を選びました。彼の鋭い人間への眼差しと、力強い闘う姿勢、そして、どこか子供心がありながらも紳士的な心を感じながら、今年度も、命を燃やせた!と思う瞬間瞬間をひらいていきたいのです。