- 生きる力を自分自身を社会の型に当てはめるがあまり、無防備に手放していませんか?
- 芸術家岡本太郎さんは、自分を殺せ、毒を持てと言います。
- なぜなら、死と直面し続けていることこそが、自分自身をほんとうに生きる炎をたぎらせることになるからです。
- 本書では、岡本太郎さんの半生とともに、どのような葛藤の中で、自身の生き方、あるいは人としての生き方を見つけたのか、そして、考えなく既存の生き方の型にハマる現代人に対して警鐘を鳴らします。
- 本書を読み終えると、子どもから大人になるにつれて、しらずしらずのうちに当たり前になっていた当たり前じゃないことをまざまざと突きつけられて、今、この瞬間の自分に死がもたらされるでしょう。アデュー。
本当に、自分を生きているか?
誰だって、つい周囲の状況に甘えて生きていく方が楽だから、きびしさを避けて楽な方の生き方をしようとする。本当の人生を歩むかどうかの境目はこのときなのだ。安易な生き方をしたいときは、そんな自分を敵だと思って闘うんだ。たとえ、結果が思うようにいかなくてっていい。結果が悪くても、自分は筋を貫いたんだと思えば、これほど爽やかなことはない。
自分の大間違い
岡本太郎さんは、とても素直な人だと思いました。
自分の葛藤を素直に表現してくれている。
だから、彼の言葉は、まっすぐ私たちの心に届くのだと思います。
「芸術は、爆発だ!」という言葉が一人歩きをして、情熱的で型破りな一方的な人物像で見られがちですが、そうではない、極めて繊細で、思慮深く、素直に「人間の生き方」を見すえた人だと思いました。
社会の分業化された狭いシステムの中に自分をとじ込め、安全に、間違いない生き方をすることがほんとうであるのかどうか、若いぼくの心につきつきられた強烈な疑問だった。
自分の大間違い
十八歳で単身パリで絵画の修行をした岡本太郎さんは、「絵描きは絵の技術だけ、腕をみがけばいい」という一般的な考え方に納得できなかったと語ります。しかし、それは芸術の既存の枠組みの中では、死を意味します。
ですが、彼は、ぬるい「生」を選ばなかったのです。むしろ、「死」を受け入れることで、自分の中の小さな炎を、小さなころから灯し続けてきた、「ほんとうの生きる力の炎」をさらに燃やすことを選びました。
岡本太郎さんは、芸術家だからこんな考えを持てたか?か、というとそうではないとわたしは思います。
きっと人間誰しもが、自分と向き合う権利があって、その先に、先人が作ったものに対する生きづらさや葛藤を持ってしまうものであるはずなのです。
なぜなら、人はみな違うからです。
でも、私たちはそれをできない。気がついていても、そういう抵抗力を持つことを諦めていると思うのです。
あなたの人生は「世渡り」か、それとも「ほんとうに生き抜く道」か?
今日の社会では、進歩だとか福祉だとかいって、誰もがその状況に甘えてしまっている。システムの中で安全に生活することばかり考え、危険に体当りして生きがいを貫こうとすることは稀である。自分を大事にしようとするから、逆に生きがいを失ってしまうのだ。
”モノマネ”人間には何も見えない
決められたレールを生きていることは、一定の成功をおさめていると社会から認識されるに違いないです。お金はないよりあったほうがいいし、仕事だって役持ちになって人を従えるのがいいし、不動産をもって究極的には不労所得なんか得てしまった際には有頂天、かもしれません。
でも、そんな前提は、前提でしかなくて、先人が経済活動の中でつくった幻想であるとも捉えられるんです。
なぜ、生き方を他者に引き受けてもらわなければならないのでしょうか。
たしかに、社会システムは、私たちが、人として尊厳のある最低限の生活をするために必要です。しかし、それが目的的になって、社会と人生の主従を置き換えてまで、服従することはないのです。
私たちは、私たちの人生を生きる権利を生まれながらにして、持っているはずなのに、それを大人になるにつれて放棄していることに気づかないです。
捨てて、捨てて、己を殺し続けた先に、自分の人生がある。
人生は積み重ねだと誰でも思っているようだ。ぼくは逆に、積みへらすべきだと思う。財産も知識も、蓄えれば蓄えるほど、かえって人間は自在さを失ってしまう。過去の蓄積にこだわると、いつの間にか堆積物に埋もれて身動きができなくなる。
自分の大間違い
人の決めた、前提条件を捨てることで、自分とはじめて向き合うことができます。
他人との比較だけではなく、それは過去の自分との比較も含みます。
常に、数秒前の己を殺し続けて、新しい自分になり続けていくこと。
死に直面した切羽詰まった状況こそが、なりふり構わず自分を生きることに直結します。
過去の自分でさえ他者であるのです。
人生に挑み、ほんとうに生きるには、瞬間瞬間に新しく生まれかわって運命をひらくのだ。それには心身ともに無一物、無条件でなければならない。捨てれば捨てるほど、いのちは分厚く、純粋にふくらんでいる。
自分の大間違い
この心構えを前に、「プライド」は、比較論ではなく、絶対感です。
未熟だと言って、閉じこもることなく、未熟な自分を受け入れて、そして、楽しく明るくユニークに下手さを押し出せば、逆に生きてくるのです。人も魅力を感じてくれます。
上手な人というのは、自分を他者と比べていがちです。だから、自分は下手だけど、それも認めて、自分をひらくひとには敵わないのです。
もっと極端なことを言えば、強くならなくていいんだと思って、ありのままの姿勢を貫いていけば、それが強さになると思う。
好かれるヤツほどダメになる
生きるということを真剣に考えれば、考えるほど、内向的にならざるを得ません。自分を形作るものと向き合うことになるから、当然のことだと言えます。
だから、自分は内向的で「駄目だ」という前提から開放されて、自分を認めてあげることです。
内向的であること自体が、外交的になることさえあります。それこそ、岡本太郎さん本人なのかもしれません。
この本が書かれたのは90年代ですが、その頃よりもさらに、私たちは、自分の内向性と向き合う時間を減らし続けています。スマホを眺めていても、そこに自分はいませんね。当たり前ですけど。自分があるのは、自分の中なのだから。
本書は、過去の投稿「【2年後の働き方考えてる?】組織にいながら、自由に働く。|仲山進也」にて取り上げられていました。こちらもおすすめです。
まとめ
- 本当に、自分を生きているか?――人間らしくいきるとはどういうことか?考えたことがありますか?社会の中で失った自分の人生を取り戻しましょう。
- あなたの人生は「世渡り」か、それとも「ほんとうに生き抜く道」か?――社会システムの中で、既存の人生モデルが目的的になり、自分の人生をほんとうに生きることが見えていません。
- 捨てて、捨てて、己を殺し続けた先に、自分の人生がある。――他者の作った基準や概念、さらに過去の自分さえ否定して、殺して、切羽詰まった状況に身を置くことが、自分をほんとうに生きることになるのです。下手を認めた上で、ユニークな下手さを押し出せば、きっとそれがあなたの魅力なのです。
自分の人生を他者にいかにゆだねているかを思い知りました。本当に生きている状態から遠ざかってしまう。自分の中に理由をもって、人生を引き受ける(責任)を持つ状態をつくって、瞬間瞬間、その責任を引き受け続けることが、自分の人生を生きるということなのだと、強烈な光を浴びました。