【ビジネスエリートはなぜ落語をきくのか?】教養としての落語|立川談慶

教養としての落語
  • 落語とビジネス?!それって関わりあるの?て思いませんか?
  • 実は、ビジネスパーソンとして身につけておきたい、人間感、社会感を考えるぴったりな芸能なのです。戦後復興を支えたあの吉田茂首相、小泉進次郎氏、渋沢栄一氏など一線で活躍する多くの政治家、経営者も落語を愛しました。
  • なぜなら、落語には人間らしさの肯定をするふくよかな思想による普遍的なおもしろみがあるからです。
  • 本書は、立川談志一門で、元ワコール正社員の異色の噺家 立川談慶さんが、落語の世界を丁寧にひもときます。
  • 本書を読み終えると、落語のこれまでの系譜や今はなき師匠連の存在、極めて端的に記された演目の概要から、奥深い落語の世界の入り口に立てるでしょう。

落語は、「どうしようもない」人間性を肯定している。

私の師匠だった故・立川談志(七代目)は「落語とは人間の業の肯定だ」と看破しました。

落語は人間の失敗図鑑

落語は人間って、本来ダメなものだし、ダメでいいんだよと問いてくれるものです。

事実、落語にはお話に共通して登場する役回りがあるのですが、その中でも、与太郎(よたろう)という役は、どうしようもない。

ちょっと抜けてて、定職につかずフラフラしてて、でも、誰からも疎んじられることなく、いきいきと、ひょうひょうと暮らしている人物です。

しかし、時たま見せる哲学的側面にハッとさせられます。

たとえば、「かぼちゃ屋」では、「世の中、売るやつが利口で。買うやつがバカなんだなあ」と経済の考えに触れたり、「道具屋」では、壊れた時計を買わされそうになった客が「いらねえよ、こんな無駄なもの」と拒むのを聞いて、「そんなことないよ。壊れた時計だって1日に2度は合う」というようなセリフを吐きます。

こうしたふと垣間見られる、「深み」も落語の魅力のひとつなのですね。

落語と講談のちがい。

ルーツをたどると、落語は1章でもお話した通り、庶民に仏教の教えを滑稽にわかりやすく伝えることを目的にしていました。それに対し講談は、支配階級にあった武士に、武士の歴史や作法を伝える講義がルーツになっていると言われています。釈台に本を置き、歴史物語を読み聞かせるように武士に授業していたのが「講談」だったのです。

落語は”庶民の娯楽”、講談は”武士の講義”

落語の噺家、講談の講談師、ともに着物を来て、座布団の上に座って、聴衆にむかって話をします。見た目の違いは、講談師の前には釈台と呼ばれる机があるかどうかです。

でも、見た目はそっくりでもその成り立ちと、内容は全く異なるのです。

落語は、庶民の娯楽として発達したもので、人間がんばれって言われても、サボっちゃうものだよね、という業の肯定をし、だれもが楽しめるお話であるのに対して、講談は集中して行えば、成せないことはない!という精神で、武士としてのあるべき論を説き、人間を啓蒙し、鼓舞してくれる演芸です。

だから、講談にはあって、落語にないお話が「忠臣蔵」だそうです。

立川談志は、落語的に「忠臣蔵」を解釈した自説を語っていたと言います。

『討ち入り?面倒くせえよ』『俺は行きたくねえよ』『仮病使ってトンズラするか』……。そんな”忠臣”じゃないやつにもスポットを当てるのが、落語なんじゃねえのか

古典落語に「忠臣蔵」がないワケ

落語の笑いとは。

「落語の笑い」とは、「日本人が叡智をかけて積み上げてきた、国民共通の笑い」であります。誰にもぴったりハマる笑いだからこそ、江戸時代以降、約400年間も日本人を楽しませてきました。人々は笑いながら、「ああ、こういうことをすると人は失敗するんだな」とか、逆に「なるほど、そんな上手い物言いだと怒られないんだな」という処世術を身につけてきました。

おわりに

落語のおはなしの多くは、上手に負けることや、結局引き分けることで結末するそうです。これはまるで、人生というか、日常生活のままだと私は思います。

縁が切れて、それをさらに切っていく、「忠臣蔵」のような場面は、人生でそうそうあるものではありません。むしろそんな日常生活だったら、命がいくつあっても足りません。だからこそ、「忠臣蔵」が永く語られる魅力や秘密があるのも確かですが、落語とは一線を画します。

落語は、むしろ徹底的に日常を描きます。辛くも小さな喜びを見つけながら、生きなくてはならない人間の日常に寄り添うことで、多くの人を惹きつけます。

江戸時代には、驚くべきことに、現在の皇居近辺に100万人を超える人々が住んでいたといいます。互いに肩を寄せ合いながら暮らしていかなければならない状況で、互いの距離感を見事にはかりながら、共同体を作らなくてはなりません。

「避け方」「逃げ方」「かわし方」が徹底していたのではないかと著者は指摘します。その背景に人ってこんなもんだよ、と教えてくれる落語があったと・・。

同時になんと江戸時代は、享保から開国までの130年間、ゼロ成長時代だったとも言います。今、世界が循環型社会を目指す今般において、改めて、人間としての生き方とは何かを、落語を通じて考えたいものです。

過去の投稿で取り上げた「思いがけず利他|中島岳志」でも、中島氏は立川談志の演目「文七元結」を取り上げ、利他を考えるきっかけを得ていました。業ということに向き合うことで、現代における生き方が見えてきそうです。

まとめ

  • 落語は、「どうしようもない」人間性を肯定している。――落語は、人の業を肯定する庶民が親しみ続けている演芸です。その笑いは万国共通のおもしろみを含みます。
  • 落語と講談のちがい。――講談は、「為せば成る!」と人々を啓蒙鼓舞する演芸であり、落語とは一線を画します。比較することで、それぞれの魅力がより際立ちます。
  • 落語の笑いとは。――江戸時代、庶民は落語を通じて、人としての所作振る舞いなどを学びながら、生き方についても考えていたのではないでしょうか。今、定常社会が叫ばれる中で、改めて落語を聞いて、人らしい生き方について考えたいものです。

コンサルタントとして支援させていただいている日本酒居酒屋の社長が、お店を貸切にして高座を企画しています。はじめは、日本酒と落語がつながらなかったのですが、社長が「芝浜」を好きだと聞いて、納得しました。落語にはお酒のお話もたくさんあります。お酒は飲まれてしまうもの、そんな人間のどうしようもない側面を切り取ってくれていて、なぜか安心感さえも覚えてしまうお話が多いです。

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