【人との出会いを大切に!?】はじめて考えるときのように 「わかる」ための哲学的道案内|野矢茂樹,植田真

はじめて考えるときのように 「わかる」ための哲学的道案内
  • 「本当に考える」とは、どういうことでしょうか!?
  • 実は、目的に意識を向けることかもしれません。
  • なぜなら、目的がなければ、要素を選び、文脈を作ることが困難だからです。
  • 本書は、考えるを俯瞰する1冊です。
  • 本書を通じて、考えるについて、新しい考えの視点を得られます。

「解答」に騙されないように!?

前回の投稿「【考えるとは何か?】はじめて考えるときのように 「わかる」ための哲学的道案内|野矢茂樹,植田真」に続き今回もこちらの1冊『はじめて考えるときのように 「わかる」ための哲学的道案内』をご紹介していきたいと思います。

考えることについて、考えていく時、問題と答えのあり方にいきつきます。

出来上がった解答を読んでいくと、いかにも理路整然としていて、たしからしさを感じます。作られた問題について、唯一の答えが導き出されているようにも感じます。

でも、それにだまされちゃいけない。

考えることの論理と非論理

論理的な推論や計算は、それ自体は考えることではありません。

考えるというのは、そうした推論や計算、あるいはさまざまな観察を、問題解決のもとに取捨選択をしてうまくつなげることだ。

考えることの論理と非論理

コンピューターがかなり正確に大量に計算ができたとしても、いくらロジックが正しかったと言っても、そこに目的や意志がなければ、考えるということにはなりません。「何のために」それをしているのかということを文脈として理解することができなければ、ならないのです。

こうした考えとリンクするのが、最近のパーパスについての議論です。パーパスとは、目的とか存在意義とかの訳ですが、特に企業や組織の存在意義として語られることが増えてきました。社会が変わっていく中で、これまで当たり前だと捉えられていた企業のあり方を、もう一度見つめ直さなくては、変化していく時代の中で自分たちの行く末を見いだすことが難しくなっています。

まさに、「何のために」を重視する時代、考える時代とも捉えられるのかもしれません。

パーパスについては、こちらの1冊「【あなたのパーパスは、なんですか?】パーパス・ドリブンな組織のつくり方|永井恒男,後藤照典」もぜひご覧ください。

考えるのは頭ではない!?

自分の頭で考えよう!というふうに、いろいろなところで聞こえてくることがあるでしょう。しかしこれは、2つの観点で間違っていると野矢茂樹さんは言います。

1)考えるのは、頭じゃない!?

実は頭とか脳とかで、人間は考えていません。実は、手で考えたり、身体を使っていることが多いです。紙の上で考えたり、隷属の中身を手に持ってみたり、そうしたフィジカルな刺激の中で、自らの思考を結果的に巡らせている生き物であるのです。

2)自分一人で考えるものでもない!?

また、一人で考えることも、異議を唱えます。自分が社会の中で繋がって生きているのと同じように、考えるときも常に他者とともにあるはずです。

たとえ自分ひとりでなんとかやっているときでも、そこには多くのひとたちの声や、声にならないことばや、ことばにならない力が働いているし、じっさい、考えるとってもすごくだいじなことが、ひととの出会いにある。

自分の頭で考える?

前回の投稿「【考えるとは何か?】はじめて考えるときのように 「わかる」ための哲学的道案内|野矢茂樹,植田真」でも問いとは、長い時間をかけて導き出されるとありました。世の中の法則が見出されて、そしてそこから外れ値を発見した時、はじめて問いが生まれます。外れ値が外れ値であるためには、フェアウェイが規定されていないといけないのです。

その時、過去の人や社会が作ってきた文脈とともに考えるということになります。

私たちが考えられるのは、他者があるからであるとも言うことができるかもしれません。人との関係性の中に、あって、初めて考えることができるという視点は、非常に興味深いものです。

見えない枠を超えて!?

ぼくらは見えない枠にしばられている。

自分ひとりで考えるのではない

無数の見えない枠組みがなければ、生活ができないのも事実です。社会、政治、経済とか、会社とか組織とか、そうした枠組みがなければ、生活が円滑にできない・・。でも、その枠にハマり続けることが良いことなのか、ということも問いとして持ってしまいます。

まさに、外れ値を検討する、考えるということに繋がっていきます。

見えない枠を認識したり、自分が常識だと思っていたものが、そうでもないことに気づいたり、実はその先入観が敵なのかもしれないと認識するためには、人との出会いが重要です。

自分が常識と思っていたこと、そうして見えない枠として自分をしばっていたこと、それを共有しないひとが現れる。

自分ひとりで考えるのではない

最初、それは非常識なひと、変なひととして思えるかもしれません。でも、それが変だと感じることで、はじめて、自分が当たり前だと思っていたことを自覚することができます。見えない枠を定義して、それを疑い、外に飛び出してみる挑戦へといざないます。

よりよく人と出会い、そして問題のまなざしをもって、よく観察することです。そして、実際に身体を使って、作業をすること。それが、考えるということです。

必ずしも竹を割ったような答えが出ないかもしれない。でもその過程自体に意味を見いだすことが大切なのかもしれません。

こうしたスタンスにエールをくれる1冊としてこちら「【私たちは、二者択一にとらわれている!?】両立思考|ウェンディ・スミス,マリアンヌ・ルイス」をおすすめします。

まとめ

  • 「解答」に騙されないように!?――結果だけをみて、考えるとは何かを定義することは危険です。
  • 考えるのは頭ではない!?――もっとフィジカルな行動です。
  • 見えない枠を超えて!?――見えない枠を認識するために、人と出会いましょう。
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