自分を知っているか!?『知足たる人生:執着を手放して、賢くシンプルに生きる 幸せな生き方』谷崎玄明

『知足たる人生:執着を手放して、賢くシンプルに生きる 幸せな生き方』谷崎玄明の書影と手描きアイキャッチ

この記事を書いた人:増田 浩一(増田みはらし書店 店主/中小企業診断士)プロフィール

  • あなたは自分にとって「十分」がどこなのか、はっきり言えますか?
  • 実は、多くの人が「もっと、もっと」と求め続けてしまうのは、自分にとっての「足る」がわからないからなんです。
  • なぜなら、基準が曖昧なまま生きていると、人間は無尽蔵に欲しがる生き物だからです。
  • 本書は、仏教の「知足」思想を通じて、現代人が見失っている「足りていることを知る」生き方を解き明かします。
  • 本書を通じて、我慢ではなく真の満足を得る方法、そして「なりたい自分」ではなく「ありたい自分」で生きる道が見えてくるんです。

著者の谷崎玄明さんは、公認会計士という顔と僧侶という顔を持つ、異色の経歴の持ち主です。

かつては月100時間を超える残業をこなし、繁忙期の残業代でたくさんのお金を稼いでいました。しかし「心を亡くす」と書いて忙しいと読むように、まさしく心を亡くしながらお金を稼いでいたことに気づいたそうです。

「本当にこれだけの時間を働く必要があるのだろうか?」という問いから、谷崎さんは知足の考え方を取り入れ、「お金」ではなく「時間」に目を向ける生き方へと転換しました。

この実体験をもとに、仏教の原始経典から現代の心理学まで幅広く学び、単なる精神論ではない、実践可能な知足の生き方を提示しています。

自らを「修行僧(比丘、雲水)のようでありたい」と定義し、一心不乱に作務に徹しながら心穏やかに生きる道を歩んでいる方です。

「足るを知る」の正体——我慢との決定的な違い

「足るを知る」という言葉を聞いて、あなたは何を思い浮かべますか?

多くの人が「我慢すること」だと勘違いしているんです。でもこれは大きな間違いなんですね。

本書で著者が指摘しているのは、我慢と知足は正反対の概念だということです。我慢というのは、実はサンスクリット語の「mana(マーナ)」の漢訳で、その本来の意味は「わたしはこれで満足していますよ、と嘘をついて強がること」なんです。

つまり我慢とは、本当は満足していないのに満足しているフリをすることです。これは知足ではありません。

知足の意味を分解すると「足りている」+「知っている」=「足りていることを知っている」となります。

では「足りている」とは何か。ここが最も難しいところなんです。

一般的には「足りている」の基準が存在していないとされています。足りているかどうかの基準は「人それぞれである」と。しかし、これでは結局、自分が足りているのかどうかわからないまま、永遠に「もっと」を求め続けることになってしまいます。

著者が提示するのは、具体的な確認方法です。

原始仏典では「借金なし、病気なし、拘束なし、隷属なし、命の危険なし」という5つの条件が示されています。しかし、ただこれを確認するだけでは不十分なんです。

実は「足りている」のかどうかを確認し、そしてそれを実感するためには「借金なし、病気なし、拘束なし、隷属なし、命の危険なし」を次のように変換する必要があります。

「かつては借金があったけど、今は財産すらある。かつては病気になっていたけど(風邪を引いていたけど)、今は健康である。かつては行動の自由が制限されていたけど、今は思いのままに外出することができる。かつては親の命令のままに従っていたけど、今ではその必要もない。かつては天災の危険に怯えていたけど、今では安全な地域に引っ越してそこまでの心配は必要なくなった」

この「かつては〜、今は〜」という比較こそが重要なんです。

過去の自分と比べることで、今の自分がいかに恵まれているかを実感できます。他人と比べるのではなく、過去の自分と比べる。これが知足の出発点なんですね。

そしてもう一つ重要なのが、「知っている」という言葉の意味です。

知足における「知っている」とはその先、実践していて習慣として身についていればなお良いでしょう。いわば、頭で知っているのではなく身体で知っている状態こそ本当の意味で「知っている」と言えるでしょう。

つまり、頭で理解しているだけではダメで、実際に生活の中で実践し、身体で覚えている状態が真の「知足」なんです。

実践としての知足——掃除と放下著が教えるもの

では、どうやって知足を身体で知る状態にまで持っていくのか。

著者が提案するのは、極めて具体的な実践方法です。その一つが「朝の掃除」なんですね。

朝に掃除をすることによって、その後の一日は、部屋や机の上を散らかさないように「気をつけて」生活するようになります。朝に掃除して心地良い感じを覚え、その後一日中それを維持するための行動を心がける。そのために、朝、掃除をするのです。掃除するなら昼でも夜でもなく、朝なのです。

掃除は一日のどのタイミングでもできます。しかし、朝に掃除をすることによって、その日一日、気をつけて過ごすことができる。汚い部屋を綺麗に扱おうとは通常思えませんが、綺麗な部屋は往々にして綺麗に使おうと思います。

これは掃除の上手・下手は関係なく、そうなるはずです。

そしてもう一つ、著者が強調するのが「放下著(ほうげじゃく)」という考え方です。

断捨離という言葉は有名ですが、放下著はそれよりも大きな意味を持っています。断捨離では「もの」を捨てることに着目しがちですが、放下著ではものだけではなく「こと」にも目を向けます。

つまり、放下著ではものだけではなく肩書き、経歴、地位、わだかまり、心の囚われ、偏見、妄想、執着、怒り、そのすべてを捨てます。いわば「素の自分」に戻ってみます。

著者自身、この実践を通じて大きな変化を経験しています。

月100時間を超える残業をしていた頃、繁忙期の残業代でたくさんのお金を頂いていました。でも忙しかった。心を亡くすと書いて忙しいと読みますが、まさしく心を亡くしながらお金を稼いでいたことに気がついたんです。

「本当にこれだけの時間を働く必要があるのだろうか?」と思った著者は、知足の考え方を取り入れました。つまり「お金」ではなく、「時間」に目を向けることにしたんです。

そして著者は、仕事に対する考え方についても問いかけます。

仕事に人生の意義を求めすぎていないでしょうか。

「もし一日のほぼ半分を占める働く時間を楽しく過ごすことができたのであれば、人生すべてが楽しくなるだろう」という壮大な勘違いをしていた時期すらあったと著者は振り返ります。

でも、本当にそうでしょうか。仕事が楽しければ人生すべてが楽しくなるのでしょうか。仕事をしていないときは楽しくないのでしょうか。仕事をしていないと生きてはいけないのでしょうか。

「知足と仕事」はこれにて終わりとなりますが、まとめると「人生に占める不要な時間を捨てる」ことと「仕事に対する偏った価値観を捨てる」です。

これが放下著の実践なんですね。物理的なモノだけでなく、心の中の執着や偏った価値観も捨てていく。そこから本当の知足が始まるんです。

「なりたい」から「ありたい」へ——足元に湧く泉

知足を実践していくと、人生に対する根本的な問いが変わってきます。

それが「なりたい」から「ありたい」への転換なんです。

多くの人は「将来、こんな人になりたい」と考えます。でも、この「なりたい」という問いには、実は大きな落とし穴があるんですね。

前者と後者、すなわち「なりたい」と「ありたい」のそれぞれの問いに対する答えの差は、時間によって区別されます。つまり「なりたい」質問に対する答えは通常、未来的・将来的であるのに対し、「ありたい」質問に対する答えは通常、現在に着目する傾向にあります。

現在に着目するということは、今ここから実践可能であることを意味します。

また、「なりたい」の場合は「自分ではない誰かになりたい」という意味も内包されているため、それが自己否定に繋がってしまう危険性すら含んでいます。「ありたい」の場合は、「自分はこうでありたい」と、すべて自分目線となるので、自分を大切にする生き方へと繋がってくるんです。

ヘルマン・ヘッセの言葉が、これを見事に表現しています。

憧れている人のようになりたいという気持ちはよくわかる。多くの人がそうなのだ。今の自分からまったく別の人間になりたいと思い、また実際にそうなろうとしてもがき、さまざまな失敗や落胆をくり返しているのはあなただけではないのです。けれども、よく考えてごらんなさい。誰かのようになりたいというあなたは今の自分自身を否定しているのですよ。だから、そんなに苦しい思いをするのではないですか。ですから、あなたにふさわしいものを求めなさい。

ニーチェも同様のことを言っています。

きみの立っている場所を深く掘り下げてみよ。泉はその足下にある。ここではない何処か遠くの場所に、見知らぬ異国の土地に、自分の探しているもの、自分に最も合ったものを探そうとする若者のなんと多いことか。実は、自分の視線が一度も向けられたことのない自分の足の下にこそ、汲めども尽きせぬ泉がある。

遠くを見るのではなく、今、自分の足元を深く掘る。そこに本当の豊かさがあるんです。

そして著者は問いかけます。

あなたはあなた自身に問います。「どんな人間でありたいですか?」と。この問いに対する答えこそ、あなたが知足の実践に当たり心掛けておきたい「方向性」です。

ちなみに著者の場合、この問いに対して「修行僧(比丘、雲水)のようでありたい」と答えました。一心不乱に作務(修行)に徹し、一切の手を抜かず、それでいて心が穏やかな人。誰に何と言われようとも「これが真理である」と分かっているから、周りの意見にも流されることなく、悪口も決して受け取ることがない人。そんな人で「ありたい」と思ったんです。

ここで重要なのは、最新のポジティブ心理学も同じことを言っているという点です。

今日心理学の世界においても、同様の根本的な変化が起こりつつある。私たちはずっと昔から、幸せが成功の周りを回っていると信じ込まされてきた。つまり懸命に働けば成功する、成功してはじめて幸せが訪れる、と教えられてきたのである。(中略)しかしいま、新しいポジティブ心理学の飛躍的進展によって、真実はその正反対であるということが分かってきた。人は幸福感を覚えているとき、つまり心のあり方や気分がポジティブであるときに、頭もよく働き、やる気も生じ、結果的にものごとがうまくいく。幸せが中心にあって、成功はその周りを回っている。

成功すれば幸せになるのではなく、幸せだから成功する。

これは知足の教えそのものなんですね。

不足しているから努力精進できるのではなく、満ち足りているからこそ努力精進できるのです。

足りていることを知り、今の自分を肯定し、「ありたい自分」で生きる。

そこから本当の幸せと成功が始まるんです。

仏教の考え方を学ぶには、こちらの1冊「仏教は超ロジカル!?『ビジネスシーンを生き抜くための仏教思考』松波龍源,野村高文」「私たちは、常に可能性である!?『ビジネスシーンを生き抜くための仏教思考』松波龍源,野村高文」もおすすめです。

まとめ

  • 「足るを知る」の正体——我慢との決定的な違い――知足とは我慢ではなく、過去の自分と比較して「今、足りている」ことを実感することです。頭で知るだけでなく、身体で知る状態にまで実践を深めることが重要なんです。
  • 実践としての知足——掃除と放下著が教えるもの――朝の掃除で一日を「気をつけて」過ごし、放下著でモノだけでなく肩書きや執着も手放す。著者自身、お金から時間へ、仕事への偏った価値観を捨てることで、本当の豊かさを手に入れました。
  • 「なりたい」から「ありたい」へ——足元に湧く泉――誰かになろうとする自己否定ではなく、自分がどうありたいかを問うこと。足元を深く掘れば、そこに汲めども尽きせぬ泉があります。幸せが先、成功は後。満ち足りているからこそ、努力できるんです。

この記事を書いた人:増田 浩一(増田みはらし書店 店主/中小企業診断士)プロフィール
ビジョン思考・組織・ブランド・生き方について、良書とともに探究しています。

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