【生きるに役立つ哲学とは!?】子どもの頃から哲学者|苫野一徳

子どもの頃から哲学者
  • 自分の生き方や社会のあり方について、みんなが考えている時代に、活きる学問は何でしょうか。
  • 実は、それこそ、哲学なのです。
  • なぜなら、哲学は、人や意識の存在を説くからです。
  • 本書は、哲学者でもあり、教育者でもある苫野一徳さんが、その悩み苦しんだ半生と、その中で見出した哲学の見解について、独特の筆致で語ってくれます。
  • 本書を通じて、哲学2500年の叡智から、他者とともに生きるヒントを得られるでしょう。

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哲学を求める時代に!

でも時代は変わった。僕はそう思う。

第6章 哲学の使い方 欲望と承認 ――自由に生きる

苫野一徳さんは、1980年関西に生まれ、早稲田で哲学を学びます。その半生は、壮絶です。ぜひ、くわしくは本書をお手にとってみていただきたいです。壮絶な半生の中で、苫野一徳さんが生きるヒントを得たのが哲学でした。いま、多くの人が生き方や働き方、あるいは、社会について考えている中、思考に補助線を引いてくれるのは、間違いなく哲学です。でも、哲学は難しいイメージがつきまといます。

なぜなら、苫野一徳さんは、このように分析します。

1)哲学は、新しい価値観や概念を提示するものであるので、どうしても言葉遣いが難しくなってしまう。
(そもそも、言葉というのは、一種の共通了解の中でつかわれるものであるため)

2)哲学者は、哲学者にだけ通じる言葉でかければOKだった。
(そもそも、哲学する人は、稀有だった・・)

でも、今は、みんなに哲学が必要な社会です。苫野一徳さんによる翻訳を読んで見る中で、私たちがいかに考えていくべきかのヒントを得て、あるいは、哲学への道がひらかれるきっかけを得ましょう。

哲学2500年の叡智を俯瞰させて頂く・・!

哲学が2500年にわたって積み上げてきた知恵、それは、「絶対」を掲げて争い合うことなく、僕たちがどうすれば”共通了解”にたどり着けるかについての知恵なのだ。

第2章 哲学にぶっ飛ばされる――デカルト、カント、フッサール

苫野一徳さんが、レビューしてくれているので、詳しくは、これまた本書を読んでいただくとして、私が読み取れたこれまでの哲学の歴史はこんなものでした。

17世紀 フランス ルネ・デカルト
デカルトは、世界を旅して、世界中に自分の狭い世界の中だけで考えて、自分の考えが正しいんだ!と主張している人たちの浅はかさを痛感しました。(この問題提起は、多様化叫ばれる現代でも、あることかもしれないですね)そして、「この世のあらゆること(井の中の蛙の主張も含む)は、疑えるけれど、わたし自身は疑えない」という考えを発見します。

18世紀 ドイツ エマヌエル・カント
そして、デカルトから時代が下り、カントが「絶対の真理」などないという主張を重ねます。だって、空の青をひとつとっても、みんなその青の見え方は、別々のものだから。絶対などないのだという考えをもたらします。

19~20世紀 ドイツ フッサール
デカルトは、わたし自身は疑えないって言ったけど、もしかしたら、わたし自身でさえ疑えるかもしれない。でも、疑いようのないこととして、「わたしたちが見えちゃっていること、感じていること、思っていること」は疑いようない。

20世紀 ポストモダニズム
2回の世界大戦、民族戦争があり、またもや絶対的な真理が語られて、世界が疲弊した中で、もう一度、真理などないという主張が語られます。フーコーによる「見えない権力」、デリタによる「脱構造」、ドールーズらによる「資本主義システム」などが、世の中を操っているという主張です。

20~21世紀 日本 竹田青嗣
そんななか、苫野一徳さんの師匠である竹田青嗣さんが、私たちのものの見え方について、このような見解をもたらします。

竹田の哲学は、「欲望論」の哲学と呼ばれている。それはつまり、僕たちは世界のいっさいを、自分の「欲望」に応じて見てしまっているということだ。

第2章 哲学にぶっ飛ばされる――デカルト、カント、フッサール

私のこのサマリーが正しく記述されているか、わかりません。あまりに哲学に触れたことがなかったので、読み違いをしていたら申し訳ありません。先に謝るスタイルで恐縮です。

でも、たしかに読み取れたこととして、人は、「絶対的な思想」を常に求めていたのだと、いうことです。そもそも宗教の誕生が、この「絶対的な思想」を追求するものでした。皆に一様に訪れる死という苦しみから、どうしたら逃れられるのか、を考えた末に、人は物語を創り出しました。

時代が下り、宗教から、哲学と科学が生み出される中で、哲学者が誕生し、思考が重ねられてきました。そして、そのテーマも、絶対的な真理が、あるのか、ないのか、だったのです。

2500年の哲学者の知見から私たちが受け取れることは?

現代社会では、だれもが多かれ少なかれ、自分のことに思い悩んだり、また社会の問題を考えたりしているからだ。
哲学は、そのためのとても役立つ思考のちずになる。だから、僕は哲学をもっともっと一般の人たちに”アクセス可能”なものにしていきたい。哲学はやっぱり、ちょっと不当なまでにむずかしすぎる。この難解さから、僕は哲学を解き放ちたい。

第6章 哲学の使い方 欲望と承認 ――自由に生きる

苫野一徳さんは、竹田青嗣さんの「欲望論」の肩に立ち、次の2つを検討してみようと言います。

1)相手の欲望の次元にまで、お互いにさかのぼり合うこと。
互いが信じる信念や価値観をおしつけては、それはつまり対立構造を生みがちです。そうではなくて、その根源には欲望や関心事があることを認め、そのレベルにまで互いが掘り下げて、了解をすることで、共通了解の可能性が得られるといいます。

2)互いの自由のために、相互承認の感度を持つこと。
人の歴史は<自由>獲得の歴史でした。人は<自由>を失ってまで、生きられないのです。そうして戦争や殺戮を繰り返してきました。だから、この人として生きるための<自由>が互いに持っていることを認めることが大切です。もちろん自分や人を傷つけないことが前提となります。互いの<自由>の存在に気づくことができる、感度が重要です。

苫野一徳さんは、ご自身がおっしゃるように、哲学2500年の歴史を極めて明快に、語ってくださっています。ぜひ、本書を手にとって、ご自身の考えの検討に「役立てて」は、いかがでしょうか。

苫野一徳さんの書籍はこちらもおすすめです。「【わかりあえない時代の対話手法とは!?】はじめての哲学的思考|苫野一徳」。

まとめ

  • 哲学を求める時代に!――生き方、社会を多くの人が考える時代、哲学的思考が参考になります。
  • 哲学2500年の叡智を俯瞰させて頂く・・!――本書の中で、苫野一徳さんが、2500年を俯瞰してくれています。
  • 2500年の哲学者の知見から私たちが受け取れることは?――「欲望論」の肩に立ち、1)互いに欲望・関心事のレベルにまで対話を深めること、2)互いに<自由>の追求の権利があることを相互理解することです。

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