- 世界的なパンデミックや毎年のように繰り返される災害、そして戦争を目の当たりにする中で、国家が万能ではないと突きつけられる感覚を持つ人も少なくないと思います。
- 実は、国家だけを頼る先に、私たちの真に豊かな生活はもたらされないかもしれません。
- なぜなら、実は、国家というコンセプト自体はその成り立ちからすると、人々から富や労力を吸い取る力学のもと成り立っているのです。また、昨今の政治を見ても、まるで民意が反映されているとは言い難いものです。
- 本書では、国家なき状態を目指したアナキズムという考えを、人類学という切り口から松村氏が語ります。
- 本書を読み終えると、これまで当たり前のように存在していた国家が、ある状態を意識でき、また、自分の暮らしをいかにより良いものにするか、そのための自助努力はどうあるべきかについてヒントを貰えます。
そもそも、国家とは何か?
今、国家を考える意味は、みんながとらわれている常識的な前提を根底から考えなおすことにある。このどこか壊れかけている世界が、なぜこうなってしまったのか。いまここで立ち止まって考えなければいけない時代をぼくらは生きている。
はじめてのアナキズム――いま国家を考える意味
世界的パンデミックや毎年のように繰り返される災害の中で、どうも、社会が壊れていくような感覚があります。
そして、また戦争が起きてしまいました。ロシアのウクライナ進行は、日に日に激しさを増していると言います。今日(2022年3月23日18:00~)には、ゼレンスキー大統領が日本の国会でも演説をするそうです。
これまで、私たちが作ってきた(というか生まれたときからそこにあった)社会=国という存在が、本当により良い未来のために機能しているのか?という疑問さえ感じることがあります。
水や空気のように国家がある現代ですが、人類の歴史上、国家が私たちを「支配している」期間はそう長くはないのです。
国家は、人々から富と労力を吸いとる機会として誕生した。当然、人びとからしてみれば、そこからいかに逃れて生きるかが生存を左右する問題だった。
もともと、国家は、自由に生きる民を土地に縛り付け、そこから年貢や労働を回収する仕組みとして成り立ったそうです。なんとあのメソポタミア文明の楔形文字は、統計や会計をするために有用だったとのこと。ハンムラビ法典が有名ですが、もともと、どれだけの石高を上げられたのかの記録に用いられてたというから驚きです。
当然、国家という支配が広がる中で、自由を求めて逃げた民族がありました。
日本でも、東北や北海道に棲んでいた人はそうであったとも考えられます。
しかし、国家は、自らを正当化するために、辻褄のあう歴史編纂を好みました。国家 vs 地方の暮らしの対比の中で、地方は未開の地とされ、文明の光が届かないと一方的に決められてきました。
国家に所属しない民族は、「未開」であったのか?
それが冒頭の「同意」の問題につながる。レヴィ=ストロースは、「同意」こそが権力の源であると同時に、その権力を制限するものだといった。それは明らかに民主主義の理念そのものだ。
だれのための政治のリーダーなのか
南米先住民、ミラネシア、アフリカなどの先住民のリーダーに共通することとして、率先して部族の皆に奉仕をする態度と行動があるといいます。
権力を持っているからと言って服従させ、従わせるようなリーダー像とは程遠く、まるで奉仕を報酬として受け取り、それを率先して引き受けるのです。
では、何が彼らをリーダーとさせるか、それこそが部族みなからの「同意」だそうです。この「同意」を取り付けられるかどうかのために、リーダーはさまざまな工夫や下地づくりを行います。
時に粘り強く語り合い、時に食料を分け与え、時に楽しい気持ちになってもらうために歌う。こうして「同意」を得ることによって、はじめてリーダーになるのです。
一方で、現代の国家のリーダーといえば、選挙で一定の得票率を得られれば、それがリーダーであり、選挙で投票を得られなかった民意の同意・不同意とは無関係に、政が行われていきます。
はたして、どちらが、本当の民主主義なのかと、松村氏は問いかけます。
私たちはどうするべきか?
だれかが決めた規則や理念に無批判に従うことと、大きな仕組みや制度に自分たちの生活をゆだねて他人まかせにしてしまうことはつながっている。アナキズムは、そこで立ち止まって考えることを求める。
力は自分たちのなかにある
強烈な言葉です。
そして、毎日の生活でこれほどまでの意識を持てているのか、改めて、戦慄します。
毎日、なぜか決まった方法でゴミをだし、決められた方法で仕事に行き、そして決められた方法で、納税し、決められた方法で選挙をする・・・すべて実は、誰かが決めたことであるとも言えるのです。
国家に主導権を渡すのではなく、私たちの暮らしを創るのは私たちなのだという意識のもと、解像度高く暮らしを注意深く観察して、自分たちで手触りのある暮らしを取り戻していく必要があるのです。
その時に、大切になる心構えが、「不完全」であることを互いに認め、そして、その「不完全」さを自分や家族の外(コミュニティ)へもれださせること・はみださせることだと言います。互いにその不完全さをキャッチして、支え合う気持ちが大切です。
流れに抗うには、身体を支え、手をさしのべあう仲間がいる。「異なる人々や空間、場所を架橋したがいに結びつける」。そんな異質な他者とのコンヴィヴィアル(共生的実践)な交わりが予想外の流れの渦を生み、ノイズを増大させ、システムの暴走に歯止めをかける。
よりよきにむけて抵抗する
コンヴィヴィアルとは、共生的実践と訳されます。そこには、寛容、包摂、相互依存、協調、饗宴などの意味が含まれて、親しみと疎遠の緊張関係の中でつながりあうこととされます。
そこにあるのは、「強制」や「支配」ではなく、「対話」であるというのもポイントでしょう。互いを不完全なものであるということを認めつつ、対話を繰り返し、互いのより良い暮らしのために共生する暮らしの取り戻し方を、模索したいものです。
まとめ
- そもそも、国家とは何か?――国家は搾取するために生まれました。何も、私たちを助けてくれる純粋なコンセプトを持つものではないのです。当たり前の存在を疑いましょう。
- 国家に所属しない民族は、「未開」であったのか?――部族のリーダーに共通することとして、自ら奉仕をかって出て「同意」を得る点にあります。むしろ、国家のリーダーを選ぶ選挙とは相反する、民主主義の本質を見ます。
- 私たちはどうするべきか?――自分の暮らしを自ら考えていくこと、対話を通じて人とつながること、私たちには私たちの暮らしを取り戻し変えていく力があるのだと信じることです。
国家という水のような存在を改めて考えるとそこには、私たちの生活を一見支えながらも、搾取する暴走するシステムが見えてきました。暮らしを考えるきっかけをどんどん失い、地縁やむらを亡くしてきた私たちは、どうしたらいいのでしょう。2022年3月23日、ロシアが、ウクライナに進行して1ヶ月が経とうとしています。国家というコンセプト同士が火花を散らす中、罪なき市民の暮らしが犠牲になっています。