【わたしを決めつけないで生きるには?】はみだしの人類学|松村圭一郎

はみだしの人類学
  • 「妻・夫としてかくあるべき!」「社会人としてもっとこうしないと!」みたいに自分を画一的に決めつけてしまうことってありませんか。
  • 実は、それって、ちょっともったいない生き方かも。
  • なぜなら、人類学的に人を捉えると、もっと「わたし」という存在は柔軟で、他者との交わりの中で変化していくものだからです。
  • 本書では、人類学者である松村さんが、人類学の歴史を振り返りながら、人類学がどのように文化や人を捉えてきたのか?そして今、その捉え方はどの様になっているのかを紐解きます。
  • 本書を読み終えると、過度な繋がりの中で、多様なひとと交わってしまう現代における生き方のヒントにふれることができます。
松村圭一郎
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分断はつながりが生んでいる。つながり時代に求められる文化人類学。

「分断」は、かならずしも「つながり」が失われた状態ではない。激しく対立し、分断しているように見えるのは、むしろ両者がつながっているからかもしれない。そう考えると、世の中が少し違って見えるはずです。

第1章 「つながり」と「はみだし」

「分断」という言葉をきくことが増えました。

コロナ禍を通じて、さらに増えたと思います。

著者は、「分断」していると感じるのは、つながりがあるからだと言います。

情報化社会で、過剰につながることのできる世の中になったからこそ、互いの差異を認識する機会を得て、分断していると最終的にわたしたちはとらえていると言うのです。

たしかに、コロナの社会になって、もともとつながっていたもの(例えば、打合せや会合など)が、なくなってから分断を感じるようになりました。

実は、文化人類学もこの比較視点を駆使しながら研究をすすめる学問です。

「わたし」がひらいている状態を知る。

文化人類学が大切な手法としている「比較」には、二つの種類があります。ある集団と別の集団をその境界に沿って別のものとして差異を強調するような比較(日本とニューギニアはこんなに違う!近代社会と近代以前の社会には大きな溝がある!)と、その境界線の引き方や差異を疑うような比較(日本人とニューギニア人ってまったく違うと言えるのか?近代化しても変わらない普遍性があるのではないか?)です。

第1章 「つながり」と「はみだし」

実は、比較には2つの側面があるといいます。

全く別物としてとらえる場合と、実は根底には同じものがあり、線引がさらに比較対象の外側にあるのではないか?ととらえる方法です。

「認識の枠組みを根底から揺さぶること」で、新しい可能性が見えてきます。

前段で、触れられている「分断」についても、分かれ対立しているとも捉えられるが、一方で、つながっているからこそ認識されるものとしてとらえることができます。

「わたし」と他者を隔てるものは果たして何なのか?を見つけるヒントを文化人類学的観点から著者は触れていきます。

他者との「つながり」によって「わたし」の輪郭がつくりだされ、同時にその輪郭から「はみだす」動きが変化へと導いていく。だとしたら、どんな他者と出会うかが重要な鍵になる。「わたし」をつくりあげている輪郭は、やわらかな膜のようなもので、他者との交わりのなかで互いにはみだしながら、浸透しあう柔軟なもの。そうとらえると、少し気が楽になりませんか?

第3章 ほんとうの「わたし」とは?

確固たる「わたし」や、本質的な「わたし」というのは本当に存在するのでしょうか?

「わたし」というのは、多面的な顔を持ちます。

妻、親、子、教師、などなど、人は1日の時間のなかでも、数多くの「わたし」を演じています。

そして、この数多くの「わたし」が引き出されるのは、あくまで他者との関係性の中です。夫、子、親、生徒がいなければ、「妻、親、子、教師」にはならないからです。

著者は、他者との関係性がゼロになり、閉じこもった状態の「わたし」を見つけることにどんな意味があるのか?とも問います。

「わたし」は他者との関係性の中で、育まれ、生きるのです。だからこそ、どんな他者と出会って、「わたし」を形成するか?という視点で、人生を歩むという考え方を見つけることができます。

この差異で溢れた世界を生きるには?

いまの世の中をみていると、「わたし」や「わたしたち」という檻に閉じ込められて苦しむ人が少なくないように思います。そんな息苦しさを感じる状況に陥ったとき、そうではない複数の「わたし」や「わたしたち」の可能性はひとつの希望になります。

第4章 差異とともに生きる

「わたし」を決めつけない。一義的に「わたし」は決まるものでもないし、そして、変化しないわけがない。そう思って、毎日を過ごしてみると、すこし視野が広がるかもしれません。

周囲の変化に身体を開き、その外側に広がる際に満ちた世界と交わりながら、みずからが変化することを楽しむ。いきあたりばったりの歩みのなかで「わたし」に起きる変化を肯定的にとらえる。そういう姿勢は、まさにさまざまなに異なる他者と共に生きる方法です。

第4章 差異とともに生きる

ちょっと、みちくさをしてうろうろしてみるように、そのみちくさの中で小さな花を見つけて、その目線の先に懸命に生きる虫に目が留まるように、さまざまな差異との出会いを通じて、「わたし」を育んでいけばいい。

そんなふうな柔軟な生き方で、「わたし」の変化を楽しんでいくことが生きる秘訣なのではないか、と著者は語ります。

まとめ

  • 分断はつながりが生んでいる。つながり時代に求められる文化人類学。――「分断」が生まれるのは過剰なつながりがあるから。多くの差異を認識しなければならない時代に私たちは生きています。差異に反抗・抵抗するだけでは、生きづらい時代でもあるのです。
  • 「わたし」がひらいている状態を知る。――本質的な「わたし」や確固たる「わたし」は独りの状態では存在しえません。その本質は、他者とのつながりの時にだけあるのです。だから、他者との中にあり、引き出される「わたし」のあり方を全て肯定してあげましょう。
  • この差異で溢れた世界を生きるには?――さまざまな差異を持つ他者との関係の中で「わたし」に訪れる変化を楽しみながら、暮らしていきましょう。

わたし自身、会社の中だけで仕事をしているよりも、診断士として社会の中で仕事をしだしたほうが、様々な出会いを通じて、「わたし」の可能性がひらいていく感覚を得ることができました。また同時に、会社員であるわたしとはどんな存在であるのか?についても考える機会が多くなったように思います。わたしが壊れていくような、でも、残念ではなくどこか清々しい気持ちになれるような・・そんな体験を繰り返しています。

松村圭一郎
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