- コロナを経て、人が分断をしていると言われています。これまで当たり前に所属していた組織と隔たりを感じ、孤独あるいは漠然とした不安を覚えることが増えた人もあるのではないでしょうか。
- 実は、人間が最も人間的であるのは、孤独を抱えるときだと、岡本太郎はいいます。
- なぜなら、孤独に生きるほど、惰性的に生きることと遠ざかり、自分を出し切ることに繋がるからです。
- 本書では、今はなき、岡本太郎のほとばしる文章から、私たちがいかに社会の中で本当の生きるから遠ざかっているかを問います。
- 本書を読み終えると、人間としていかに生をまっとうするか、否か、その選択を見せつけられるでしょう。
人間の本質は孤独にある。
人間は、孤独になればなるほど人間全体の運命を考えるし、人間の運命を考えた途端に孤独になる。
第一章 人生のドラマは、いつだって自分が中心だ
岡本太郎は、人の本質は、孤独であることだと言います。
人はだれもが、社会、集団の中に生まれて、社会的存在として生きていますが、けれども同時に、徹底的に孤独だと。
それは社会的な面が当たり前に際立ちすぎたあまり、その反動として孤独に強烈な焦点が当たるという対比を見せます。
孤独は逃げずに闘うこと、一方、単独はそこから逃げてしまうことだとも言います。そして、孤独とは悲しいことではないとも付け加えます。
岡本太郎が考える孤独とは、「惰性的に生きることではなく、自分を負って生きること」だと私はとらえました。
自分を引き受けた時、さまざまな闘いがうまれます。葛藤と言ってもいいかもしれません。
一般的だと言われること、社会通念、体制、そういったものと孤独に対峙し、自らの生き方を模索せねばならないからです。
生きるということは、闘いなのです。
未熟は、可能性。孤独は、寂しいものでない。
でもその美しさは、ちょうど三日月の鋭い輝きのようなものだ。三日月は、それが負っている影の部分の実態をかかえている。欠けてはいても、その全体を予感させて、若いままに充実している。
第二章「挑み」をやめた瞬間から老人になる
岡本太郎は、老いについても言及します。年を重ねるからではなく、挑戦をしなくなったら、それが老いであると言います。
おそらく、この挑戦とは孤独に闘うこととイコールでしょう。闘うことを辞めて、体制に飲み込まれれば、それこそが、老いであると彼は言っているのだと思います。
そして、未熟さを恥じることなく、まだ見えぬ可能性を予感させよと若さへエールを送ります。
政治―経済―芸術(人間)、この3つがこれからの社会に必要な三権分立だ。
ひたらすら人間的に生きる。それが本当の芸術だ
第五章 創造すること、それは人間の本能的な衝動だ
つくること、それは人間本来の欲望であり、生活そのものだ。
第五章 創造すること、それは人間の本能的な衝動だ
うまくなくても、きれいでなくても、そういうものが生活のなかに入ってくれば、それは豊かなふくらみとなり、生きがいを感じさせずにはおかないものなんだよ。
第五章 創造すること、それは人間の本能的な衝動だ
人間的に孤独と抱えながら生きていく先に、創造性が見えます。
芸術とは、そもそも絵を描くことも、歌を歌うことも、必要ありません。
ただひたすらに人間的に生きることが、芸術なのであると彼は言います。
人間即芸術、芸術即人間。強烈に生きることが人間が芸術なのだと。
たとえば、生活の中が既製品だらけで埋め尽くされています。そうではなくて、うまくなくても、うつくしくなくてもいいから、自分で作って生活をしていく、それが、人生に豊かな膨らみを与えると、象徴的に彼は語ります。
まとめ
- 人間の本質は孤独にある。――孤独であることを認め、そこからスタートしよう。
- 未熟は、可能性。孤独は、寂しいものでない。――孤独は闘いではあるが、決して寂しいものでも、卑しいものでもありません。恐れることなく、人間本来の思考を取り戻そう。
- 政治―経済―芸術(人間)、この3つがこれからの社会に必要な三権分立だ。――当たり前と思われがちの日常性や社会的基準を疑おう。ひとりの孤独な人間として、創造しつづけよう。
人間を何十年も続けています。もうすっかり「大人」である時間が長くなりました。そうした中で、システムの中に組み込まれている感覚を覚えないこともありません。これでよいのか?と、ふと立ち止まる時、岡本太郎という人間による「人生というのは可能性だ」というエールが聞こえます。