【永遠の現在をいかに生きるべきか!?】はじめてのウィトゲンシュタイン|古田徹也

はじめてのウィトゲンシュタイン
  • この世界をどのように理解することができるでしょうか!?
  • 実は、「現在」の状態をいかに考えるかが大切かも。
  • なぜなら、絶えず変化し続け、因果もない、現象かも。
  • 本書は、ウィトゲンシュタインの『論考』と彼の人生を追走する1冊です。
  • 本書を通じて、世界に対する新しい見立てを得ることができるでしょう。
古田徹也
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言葉は有能か!?

ウィトゲンシュタインの哲学は、この世界について展望を開くための哲学です。この世界をあるがままに捉えて、その中で生きるための哲学といってもよいでしょう。

吹き荒れる嵐。それは、この世界の現実だ。

序章 嵐のなかの道標

ウィトゲンシュタインにとって、世界というのは、視界不良の嵐のただなかにあるようなものです。絶えず変化し続け、予測不能であり、ましてや因果の法則もない・・・そうした世界観を提示してくれます。

ウィトゲンシュタインは、私たちに、「世界とはこうだ」と答えを提示するのではなく、こうして捉えてみたら、「あなたであれば、どのように考えるか?」という高度な問いを投げかけてくれるものです。それはまさに彼の生き様にも照らされるような示唆です。ウィトゲンシュタインは、1922年に著書『論理哲学論考』を書き上げ、小学校教師を経て、再度、哲学の思索の世界に踏み入れ、生涯を全うしました。

絶えず考え続け、また、人の思考についても向き合い続けたような鬼才の世界の見立てに、刺激を受けて、私たちの思考が促されていきます。

ウィトゲンシュタインが、先の『論考』を書き上げた目的というのは、「意味を持って語れること」と「意味をもって語れないこと=語ろうとしても無意味になってしまうこと」との間に境界線を引くことでした。

また、哲学で扱われている問題のほとんどが、後者の領域にあることを証明しようとしていました。

つまり、人々が哲学的な問題を扱う際には、何か意味あることを語っているように思っているけれども、実はそうでないということ――その意味で、哲学の問題の大半が擬似問題であること――を明らかにしようとするのである。

第1章 沈黙への軌跡

真理は実在するか!?

意味のあること、ないことの解像度を上げてみましょう。昔から人々は、哲学やその一部門としての論理学や美学、形而上学という名のもとで、経験的な内容(=私たちが生きる中で経験する、そのつどの個別的で具体的な世界)を超えた、世界の本質や原理について問うてきました。

  • なぜ世界は存在するのか。
  • 世界は私の内面にあらわれている観念なのか、それとも私の外側に実在するものなのか。
  • 人の生きる意味は何か。
  • 普遍的な倫理や美とはどのようなものか。
  • 人間は自由なのか、それとも、世界に起こることはすべて自然法則や加味などによって決定されるのか。

人々は、上記のような「問題」に対して、答えを提示することを挑戦してきました。

これに対して、ウィトゲンシュタインは、こうした問題は、すべて、人々の言語使用の混乱から生じた、全く無意味の問いと答えの応酬にすぎないということを説いたのです。

『論考』はこのように語れることの限界を示し、哲学の限界を提示することを目的とした1冊でした。ある意味、とても野心的な1冊であったと言っても過言ではないでしょう。

彼がこの書物で想定しているのは、世界に起こりうる事態の一切を漏らさず表現できるだけの言語と構造を定義上備えた言語――言うなれば、<究極の言語>――である。

第1章 沈黙への軌跡

そのうえで、<究極の言語>も持ってしても語れないことがあることを、彼は証明しようとします。そしてそれにふくまれるものごとの中に、経験を超えた内容についてなにごとか、真理について語ろうと主張するすべても含まれるとしました。

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偶然の連続!?

このように、真理(自然法則、神、自由意志の存在)について、語ることがそもそも言語をもって語ることが難しいと考えた彼の世界観の中には、「因果」がなくなります。Aという状態があるならば、Bという状況が起こるはずだ。という関連性を想定することができなくなるからです。

すると、「永遠の今」がただただその場にたまたま存在する世界となり、何かのアクションがその先を見出すとか、そうした因果応報のつながりのある世界というよりも、いまここにフォーカスされる世界観を育むことができます。

  • かくかくの法則にしたがってしかじかの加速度で石が落下した
  • 神が雷を落とした
  • 手を上げようと意志したから手が上がった

これらの記述について、意味を語ることができなくなるのです。

つまり、因果からものごとが解放されることで、「価値」が消失するということになります。永遠の価値の消失によって、世界は、次に何が起こり得るか、まったく予想されない、まるで嵐のような状況下になります。

価値と呼べるものがあるとすれば、それは生起することども、あるいはかくあることどもすべての外になければならないということになります。私たちが生きる世界は、偶然の産物の連続でしかなく、そうした気まぐれを引き起こしている(それらを非偶然だと定義できる)ものは、世界の外になければならないということになるのです。

偶然によってもたらされる「永遠のいまここ」を生きるということは、ずっと続きます。死を体験することがない私たちは、その永遠が途切れることを知りません。だから、本当に永遠にいまここは続いていくというのが、ウィトゲンシュタインの見立てになります。

この状態について恐れることも希望することはないのです。終わりのない意識の生を送るからです。損なわれる可能性もないし、満たされる可能性もない。

こうした視点は、ウィトゲンシュタインにとって見出された、人間にとっての極限的な幸福、救いの可能性であると言っても過言ではないでしょう。

我々の生には終わりがない。我々の視野に限界がないのと同様に。

第1章 沈黙への軌跡

ウィトゲンシュタインの言葉については、こちらの投稿「【現実とは、誰かの想像でしかない!?】ヴィトゲンシュタイン 世界が変わる言葉|白取春彦」「【世界は、自ら変えられる!?】ヴィトゲンシュタイン 世界が変わる言葉|白取春彦」もぜひご覧下さい!生き方を考えるうえで、世界の認識を新たにする1冊として、おすすめです。

<究極の言語>がないということは、私たちの経験を俯瞰する視点を持ちえない、あるいは、描写するすべがないということに、具体と抽象の考え方がリンクします。私たちの経験というのが、具体であるとすれば、それに線引をしてまとめていくのが抽象となります。ウィトゲンシュタインによると、さらにそうした抽象の上位にある真理は、それに適した言語(=<究極の言語>)がなければ、記述できないということでしょう。

具体と抽象については、こちらの1冊「【具体と抽象の間で仕事が生まれる!?】具体と抽象が、ビジネスを10割解決する。|谷川祐基」もぜひご覧ください。

まとめ

  • 言葉は有能か!?――言葉は、真理を捉えることが不可能です。
  • 真理は実在するか!?――結果、真理さえも否定されるため、事態は偶然によってのみ引き起こされるということになります。
  • 偶然の連続!?――法則も神もない中、偶然の連続を私たちは生きて生きます。
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