凡庸な日常こそが、幸せのあるべき“カタチ”!?『愛すべき凡庸な日常』守田樹

『愛すべき凡庸な日常』守田樹の書影と手描きアイキャッチ
  • 毎日の生活の中で「今日も何もない一日だった」と感じることはありませんか?
  • 実は、私自身もそんな風に思うことが多くなっていました。
  • なぜなら、仕事や家事に追われる中で、日常の小さな出来事に心を向ける余裕を失っていたからです。
  • 本書は、そんな私に「凡庸な日常」こそが愛おしく、かけがえのないものだということを気づかせてくれました。
  • 本書を通じて、小説家・守田樹さんの繊細な観察眼と温かい眼差しに触れ、普通に見える毎日の中にも無数の奇跡や豊かさが潜んでいることを学んだんです。

守田樹さんは、日常の機微を丁寧に掬い取ることで定評のある小説家です。これまで数々の作品で、私たちが見過ごしがちな日常の一コマ一コマに潜む美しさや深みを描き続けてきました。

本書『愛すべき凡庸な日常』は、守田さんにとって初のエッセイ集となります。小説家としての鋭い観察眼を日常生活に向けることで、何気ない瞬間に宿る豊かさを言葉にした一冊です。

「凡庸」という言葉を敢えてタイトルに掲げたのは、特別ではない普通の日々にこそ、実は計り知れない価値があることを伝えたいからだと、あとがきで述べています。小説家ならではの繊細な感性で、私たちの毎日を新しい光で照らしてくれる、温かな一冊となっています。

小説家の解像度で捉える日常の奇跡

守田さんの文章を読んでいて最初に驚くのは、その解像度の高さなんです。

同じ日常を送っていても、小説家の目を通すと、こんなにも鮮やかで立体的な世界が見えてくるのかと。どんなタイミングで、どんなことを見て、感じて、そして何を考えたのか。その一連の流れが、まるで映像を見ているかのように丁寧に描写されています。

たとえば些細な思考の流れでも、小説家としての言葉選びによって、私たちの内面の複雑さや曖昧さが見事に表現されています。

日常というのは、ともすると過去の延長線上のように感じられてしまいがちです。昨日と同じような今日、今日と同じような明日。でも守田さんの文章を読んでいると、それぞれの瞬間が実はかけがえのない一回性を持っていることに気づかされるんです。

朝起きて、コーヒーを淹れて、窓の外を眺める。そんな何でもない時間でも、小説家の解像度で見つめ直すと、そこには無数の発見や気づきが潜んでいる。私たちが普段見落としている日常の豊かさを、守田さんは丁寧に言葉にしてくれています。

これは事実として奇跡なんですよね。今日という日は2度と来ないし、今この瞬間の自分の感情や思考も、まったく同じものは2度と現れない。そう考えると、凡庸に見える日常も、実は奇跡の連続でできている。

守田さんの文章を読んでいると、そんな当たり前だけれど忘れがちな真実を、優しく思い出させてくれるんです。

プリミティブな営みに宿る生命力

この本で特に印象的だったのが、人間の根本的な営み―食べること、呼吸すること、読むこと―への眼差しです。

「ストレス発散丼」のエピソードは、本当に心を揺さぶられました。

肉を食らう、米を食らう、この瞬間僕は、生きていると感じる。一心不乱に肉と米を掻き込む。うまい、と声が漏れる

「食らう」という動詞の選択が絶妙です。「食べる」でも「摂取する」でもない。もっと根源的で、野性的で、生命力に満ちた表現。そして「この瞬間僕は、生きていると感じる」という部分に、ハッとさせられました。

普段はどこか麻痺してしまっている「生きている実感」を、こんなにシンプルな行為で取り戻している。

千円のステーキ肉をアルミホイルに包んで、火を感じながら20分間待つ。

その過程も含めて、現代人が忘れがちなプリミティブな営みの価値を守田さんは教えてくれます。

呼吸についての章も、詩的で美しかったです。

お腹だての音椅子に座り、耳を澄ませる。四方からやってくる音を聞く。ゆっくりとを聞く。大切なのは、しっかりと吐き出すこと。うまく良が吸えてくる?

これを読んだとき、インプットとアウトプット受容と表現日常の中の循環――人生そのものの縮図を、呼吸という身近な行為に見出していることに気づいたんです。

私たちの生は、こうした循環の繰り返しでできている。食べることと出すこと、考えることと表現すること。その当たり前すぎて意識しない営みの中に、実は生命の本質が宿っているのかもしれません。

読書についての記述も心に残りました。

とりあえずゆっくりと座ると最近は、読書が楽しい。毎日思えるようになってきている。良い兆候だ。本を読んでいる瞬間は、なんともこの現実と違う世界にいられるのだ。そのときは、本の住人になっている

「読書が楽しい」と感じられることを「良い兆候だ」と表現するのが印象的でした。忙しい日常の中で本を開く余裕があること、「本の住人になる」感覚を取り戻せることの大切さ。

本に触れていると、心が凪ぐんです。肉を食らうことで身体が満たされ、深く呼吸することで生命力が巡り、読書することで心が静まる。こうしたプリミティブな営みこそが、現代人が求めている本当の豊かさなのかもしれません。

ぜひ、本書を一度お手にとっていただき、これらの日常の“凡庸な”ストーリーの温かさに触れてください。

「ほのぼの」という幸福論

守田さんが「ほのぼの」という言葉について考察している部分に、深く共感しました。

ほのぼのとは、思考よりもかなり身体的であることだった。そして、その心地よい環境を整分に整理すること

「ほのぼの」は感情や思考の領域ではなく、もっと身体的な感覚だという視点。これは現代社会への重要な問いかけだと思うんです。

私たちは常に生産性や効率を求められる世界に生きています。何かを達成し、前進し、成長し続けることが良いことだとされている。でもそんな中で、何もしないでいることへの罪悪感を感じてしまう人も多いのではないでしょうか。

でも本来、ぼーっとできる環境や時間こそが、人間らしい豊かさなのかもしれません。

守田さんの文章を読んでいると、ぼーっとしても安心できる世界を生きられることが、実は人間としての幸せの基盤なんじゃないかと思えてくるんです。

特別なことをしなくても、ただそこにいることを許されている感覚。誰からも責められることなく、自分のペースで呼吸できる時間

「愛すべき凡庸な日常」というタイトルの真意も、ここにあるのでしょう。

派手な出来事や劇的な変化ではなく、淡々と続く日常の中にこそ、私たちが本当に求めている幸福がある。朝起きて、ご飯を食べて、本を読んで、ぼーっとして、また眠る。そんな繰り返しの中に、実は計り知れない価値が詰まっている。

守田さんは、そうした凡庸さの中にある幸福を見つけ出していこうと提案してくれています。特別になろうと焦らなくても、今ある日常をそっと抱きしめることから、本当の豊かさは始まるのかもしれません。

この本を読み終えて思うのは、幸福は意外と身近なところにあるということです。

小説家の解像度で日常を見つめ直し、プリミティブな営みに生命力を見出し、ほのぼのとした時間を大切にする。そんなシンプルだけれど奥深い生き方を、守田さんは優しい言葉で教えてくれました。

毎日を生きていく中で迷いを感じたとき、この本のことを思い出したいと思います。きっと、今この瞬間にも愛すべき何かが、すぐそばに転がっているはずだから。

日常の中の幸福については、こちらの1冊「【掃除とは、日常の修行である!?】人生を好転させる掃除道|枡野俊明」についてもぜひご覧ください。禅マインドを活用しながら、日常の当たり前を深堀りすることが可能になるでしょう。

まとめ

  • 小説家の解像度で捉える日常の奇跡――凡庸で当たり前の中に、日常を言語化していくことが幸福を実感する活動となります。
  • プリミティブな営みに宿る生命力――呼吸する、食べる、そうしたプリミティブな身体性によって人としての感性が呼び起こされます。
  • 「ほのぼの」という幸福論――凡庸さの中に、幸福を実感することが、ほのぼのの要素なのかもしれません。
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