【愛だろ?愛。】自分のための人生を生きているか~「勝ち負け」で考えない心理学|加藤諦三

自分のための人生を生きているか~「勝ち負け」で考えない心理学
  • どうしたら限られた生命を、活かすことができるでしょう。
  • 実は、ありのままの自分をまず見つめてあげることです。
  • なぜなら、それが愛の起点になるからです。
  • 本書は、自分と他者とそれらの人生を見つめる1冊です。
  • 本書を通じて、生き方に関してのヒントを得ることができます。

過程に目を向けよ?

前回の投稿「【気高く生きよ!】自分のための人生を生きているか~「勝ち負け」で考えない心理学|加藤諦三」に続きまして、本日もこちらの1冊『自分のための人生を生きているか~「勝ち負け」で考えない心理学』のレビューを続けてみたいと思います。

前回の投稿では、次のような論点を見出してきました。

現代社会において、かつて人々の精神的支柱であった「神」の存在が揺らぐ中、新たな価値観や生きる指針が求められています。神は歴史的に、説明できない現象への解釈、存在の意味づけ、道徳的規範の確立、そして不安や恐怖への対処という重要な機能を果たしてきました。

しかし、科学技術の発展とともに、私たちは新たな精神的支柱を必要としています。その答えは、「自己」と「人々とのつながり」にあるかもしれません。これは単なる神の代替ではなく、人間本来の特質を再発見する過程として捉えることができます。

特に重要なのは、「自分には自分の人生がある」という認識です。これは単に他者と違うことを目指すのではなく、ありのままの自分と他者を受け入れることを意味します。競争や勝ち負けの価値観から離れ、各々が自分の定めたゴールに向かって進むことが大切です。

また、組織が提供する「バーチャルな安定感」に依存するのではなく、適度な緊張感のある環境で自己を見つめ直すことも重要です。人生は結果だけでなく、常に進行している過程そのものに価値があります。

このように、神不在の時代における新しい生き方は、自己への信頼と他者への愛を基盤とした、より直接的で本質的な人間性の探求にあるといえるのです。

時に人は、劣等感に苛まれてしまうことがあるようです。すると、結果ばかりに注目が及んでしまいます。しかし、結果というのは、必ず保証されているものではないということに注意が必要です。

当然よりよいこと、行いをしていれば、よりよい結果を得る可能性は高くなるでしょう。しかし、誰もそれを保証できる人はいません。結果は、状況次第であるからです。

本当に大切なことは、劣等感に苛まれて、結果を急ぐのではなく、確固たる自分を評価し、過程にこそ価値を見出し続けるという視点です。

相手のことがよく見えすぎていたり、自分が駄目に感じてしまう時、人は、過程のちからに注目が及んでいません。相手は目には見えない、努力を続けられているかもしれないし(あるいは、努力を努力と思わずに自分の解像度が高いので、楽しいことだと捉えている可能性も?)、自分はそうした過程を経ていないことに気づくべきかもしれません。

心を大切にする人は、過程に目を向ける。

アメリカの偉大な心理学者デヴィッド・シーベリーの言葉「注意に注意せよ」とはまさにこのことです。

人が不幸になったり、幸福を感じたりするのは、自分自身の注意の向け先によるものであるということです。

つまり自分自身のものごとに対する見立てを意識することから、自分自身を始めてみることが重要であることを説いているのです。

そして、過程にこそ魂が宿っていることを信じて、そこに注意を向けていることで、人生を快適に過ごすためのヒントを得ることができます。

自分を知る、それが、愛?

もっと、自分自身を知ることです。自分自身が、どういう人間なのか、どういうときに集中することができるのか。思わずやってしまうことはどんなことなのか。特徴・特技として認められることはどんなことなのか。

そうした解像度を上げることが、自分自身を愛することにつながっていきます。そして、自分自身を愛することができれば、それと同じように他者の存在を認知し、他者に対しても愛を育むことができるようになります。

なぜなら、自分もこの世界に偶然に生まれ落ちて、何もわからないままなんとか生きようとしている、そして他者も同じ存在であるというあるがままの状態に気がつくようになるからです。

だから、「自分自身になろう」とすることは、決して身勝手に振る舞うことではないということです。

本当に他者と心がふれあえるようになるということである。

これがすべての人生の諸問題の解決の根本を支える原点となります。

人生の諸問題の多くは、ものごとの捉え方です。そして、その大部分が人との関係性によるものです。

意志のある人は、相手の話を聞くが、迎合しない。
意志のない人は、相手の話を聞かないで、迎合する。

どういう生き方をしようが、人生は必ず終わりを迎えます。

限られた生命をどのように燃やすかは、自分の意志によるところなのです。

そこには、ただ一人自分自身との対話より答えを導き出す方法はありません。だれも答えをくれないのです。そして、自分で答えが見つけられることももしかしたらないのかもしれません。

でもそういう自分自身に対しての見立てを避けていては、充実感を覚えられるような時間の過ごし方は遠ざかっていってしまうように思います。

キーは、まず自分の解像度を上げること。

ありのままの自分を認めて、そこから始めてみる想いをもう一度、ハグしてみるのです。

情熱のスタートラインへ?

「欲」とは、外にあるものを自分のなかに取り入れようとすることです。

一方で、情熱とは与えること。内なる輝きで外を照らすことです。

まず、大切なのは、自分の中の輝きを見つけて、それが外に出ないように阻害している要因(主に、自分の自分自身に対しての先入観)を取り去ってあげることです。

欲は復讐的勝利を目的とするが、情熱は「俺には俺の生き方がある」という生き方の基盤である。

情熱という生き方・原動力を基盤にできた人だけが、自分を愛し、そして他者も愛することができるようになります。愛と愛の交換が、信頼と信頼の交換となり、そして、人と人の心が触れ合う、貴重な体験につながっていきます。

仲間、パートナーとは、そういう関係性を互いが信じられる間柄ということになるでしょう。

あるいは、真のチームというものは、そういう人同士の連携によるものかもしれません。そのためには、自分自身がいかにあるかを知っておく必要がある。チームを考えているようで、そこには自分自身の投影がある。そういう関係性を互いが認識し合っている様が、結果的に集団として、チームとして認識されていくのかもしれません。

チームを考えることは、その前に、情熱に燃える個人を考えることである。

そんなスタートラインに立って、自分自身を見つめていくことも良いでしょう。

本年も、どうぞよろしくお願い申し上げます!2025年元日。

まとめ

  • 過程に目を向けよ?――過程こそに、価値を見出すことが、よりよい考え方を引き出します。
  • 自分を知る、それが、愛?――ありのままの自分でしか、人を愛することができません。
  • 情熱のスタートラインへ?――そこからすべてを始めてみましょう。
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