【権力の言いなりにならない生き方とは!?】今を生きる思想 ミシェル・フーコー|箱田徹

今を生きる思想 ミシェル・フーコー
  • どうしたら、自己を見失わずに、問題提起しながら、よりよい行動を心がけられるでしょうか。
  • 実は、自己と他者、権力と自由について深く知ることかも。
  • なぜなら、権力とは想像以上に複雑で、そして意外な振る舞いを私たちに強いているからです。
  • 本書は、現代思想に大きな影響を与えた思想家ミシェル・フーコーの後期思想をサマライズする1冊です。
  • 本書を通じて、私たちを取り巻く社会の構造について俯瞰した視点を得ることができます。

自己と他者の関係とは!?

ミシェル・フーコー(1926~1984)の思想は、1970年代以降の現代思想と批判的社会理論に、大きな影響を与えてきました。

  • ある出来事と関わる中で、私たちの考え方や振る舞いはどう変わっていくのか?
  • そうした変化を促した、阻んだりしているのは、どのようなシステムなのか?
  • そうしたシステム、他者、そして事故との関わりの中で、私たちはみずからをどのような主体へと作り上げていくのか?

こうした問いかけを通じて、自己と社会の今のあり方を吟味して、新しい姿を構想する手がかりを提供してくれます。自らの在り方を通じて、この社会の在り方を変えようとするう試みを、絶えずミシェル・フーコーの思想は提供してくれています。

ここでいう「自己」とは、みずからの振る舞いを「導く」とともに、他者からその振る舞いを導かれるもののことだ。

はじめに

自己と他者を導き、他者から導かれる主体は、自分も相手もまったく思いどおりにすることはできないのです。こうした事実から出発することで、自己の存在について、より正しく問うことができると思われます。必ずしも強く確固たる自己はない・・

このような自己と他者を導き=統治の関係を生きることが「主体化」と呼ばれるものになります。

権力はどこにあるか!?

人は権力関係の中にあるとき主体になります。ただし、それは主体でないものが主体になって終わり!という1回限りの関係ではありません。私たちは主体になるという終わりのないというプロセスを行きます。常に変化のただ中にある主体化の作用によって主体は絶えず生み出されていくというイメージです。

フーコーふうの言い回しを使えば、主体は存在しないわけではないのである。

はじめに

権力に対する見立てを少し変える視点を得てみましょう。権力とは、上から下へと垂直的に講師されると同時に、機関や制度という具体的なかたちをとって存在します。実はフーコーはここに全く異なる権力観を用いました。

権力とは、制度でも、構造でも、ある人びとに備わる力のことでもない。ある社会における、複雑に入りくんだ戦略的状況のことなのだ。

第1章 権力は誘惑する――権力と主体の生産

権力とは、なんらかのカタチをもって明確に存在するものではなく、振る舞いをする複数の行為者の間にありとあらゆるところにさまざまなカタチで見出されるものです。そうした権力観からして捉えてみると、相手の振る舞いを自分の思い通りに左右できる能力や権限が権力なのではないのです。

自己と他者がなんらかの関係を持って、お互いの振る舞いに影響を与え合う時、そのような「パワーゲーム」で働いているものこそが、権力なのです。だから、権力とは与えられる所与のものではなく、その状態が生み出す関係性の中に、常にありうると捉えてみることがよいでしょう。

権力はむしろ、奨励する!?

そして、ここがおもしろいところなのですが、権力は何かを「するな!」と命じるのではなく、むしろ、何かを「しろ!」と仕向けてくるものなのです。

「権力」とは、禁じるものではなく生み出すものであり、これ以上話すな、黙っておけと命じるのではなく、もっと話してほしいと促す。

第1章 権力は誘惑する――権力と主体の生産

つまり権力の主要なはたらきとは何かを禁止するのではなく、生産することにこそあります。よって、権力から自由になるということは完全にはありえません。行動させ、語らせる権力の在り方を事例で見てみましょう。

例えば、GAFAM(Google、Apple、Facebook、Amazon、Microsoft)のような存在です。グローバルに寡占化したビジネスを営むこうした企業群は、基本的には無料かそれに近い金額サービスを利用させる代わりに、常に、ユーザーに利用を進め、四六時中データを収集します。そのデータを持って、さらにサービスを強化させ、ユーザーの関与する時間を創出していきます。ユーザーのデータは、ほとんどコストをかけることなく企業のものとなっていきます。

権力とは、こういうものです。

こうした事例から見えるもうひとつの事実は、権力というのは、完全に他者をコントロールするものではないということです。他者の行動をコントロールすることなく一定の振る舞いの自由度を与えるのです。枠組みだけは設定し、その中で、自由に行動させるのが権力です。

自由というキーワードが出てきましたが、これも権力を検討する上でとても大切な考え方です。というのも、近代の当地論を見ていくと自由を、統治するものと統治されるものとの関係を説くものだとするからです。

自由とは不可侵の権利として存在するのではなく、多いか少ないかで権力のさじかげんをはかるものです。統治するものとされるものは、自由を通して結びついています。

これらの権力の前提、自己の前提を定義したうえで、自己の導きと他者の道時期の関係によって構成される自己が、自らの振る舞いのありようを「問題として認識すること」で、いま自らが置かれている統治の関係(自由)を変えること、としてフーコーは課題提起します。そして、これらの意識の変容、態度の変容と、行動の変容を「啓蒙」として呼びました。

人は啓蒙を意思し、勇気を出して、これをあえて引き受けることによって、啓蒙という集合的なプロセスに個人として主体的に加わるのである。

第4章 ほんとうの生を生きる――対抗導きと集合的主体

社会の在り方を考えるのは、とても興味深いことです。こちらの1冊「【社会を変えるのは「鍋料理」!?】社会を変えるには|小熊英二」もぜひご覧ください。私たちがよく知っているようで、知らない社会の在り方、権力の在り方について、私も学びを深めていこうと思います。

まとめ

  • 自己と他者の関係とは!?――互いに影響し合う中で、まったく思い通りになる関係ではありません。
  • 権力はどこにあるか!?――あらゆる関係性の中に潜んでいます。
  • 権力はむしろ、奨励する!?――禁止せず、行動を促すのが、権力なのです。
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