- 私たちは、何かを「所有すること」で幸せになれると信じています。お金、地位、知識、経験――それらを積み重ねることが、人生を豊かにすると思っています。
- でも、実は、その「所有」という考え方そのものが、私たちを不自由にしているのかもしれません。
- なぜなら、私たちが「自分のもの」だと思っているものは、実は何ひとつ本当に所有できていないからです。
- 本書は、鎌倉時代の禅僧・道元禅師の言葉を通じて、「本来無一物」という根源的な真理を伝えています。
- 本書を通じて、所有という幻想から解放され、「いま、ここ」を生きることの本質的な自由を知ることができます。
著者の角田泰隆氏は、1957年、長野県伊那市に生まれました。
大本山永平寺で修行を積み、駒澤大学大学院博士課程を経て、曹洞宗宗学研究所主任、駒澤短期大学教授を歴任し、現在は駒澤大学教授として道元思想の研究と教育に携わっています。
博士(文学)の学位を持ち、伊那市護法山常圓寺の住職でもあります。
角田氏の特徴は、永平寺での実践を基盤としながら、学問的な厳密さをもって道元の思想を現代に伝えようとする姿勢にあります。
修行者としての体験と研究者としての洞察を兼ね備えた角田氏だからこそ、道元の言葉が持つ深い意味を、私たちにも理解できる形で届けることができるのです。
本書は、そんな角田氏が、道元の膨大な著作から現代人にとって本質的な言葉を選び出し、平易に解説した入門書です。
本来無一物――所有という幻想からの解放
道元禅師の思想の出発点は、「本来無一物」という認識にあります。
これは「本来、私たちは何も所有していない」という意味です。
私たちは普段、自分の身体や心を「自分のもの」だと思っています。
でも、道元はこう問いかけるんです。
「本来無一物、本無物」ということは、「私の身体だ」と思っているものも「私のものではない」ということです。「私の心だ」と思っているものも、生まれてくるときも私の心であって私のものではない、死ぬときも私の心であって私のものではない、何を持っていくことができるのでしょうか。
身体も心も、私たちは「預かっている」だけなんです。
生まれるときも、死ぬときも、何ひとつ持っていくことはできません。
この認識は、決して虚無的なものではありません。
むしろ、所有という執着から解放される、自由への入り口なんです。
道元は「無物中無蔵」という言葉で、この境地を表現しています。
何も所有していないからこそ、何ものにも縛られない。
何も蔵していないからこそ、すべてを受け入れることができる。
現代の私たちは、所有することで安心を得ようとします。
お金を貯め、スキルを磨き、人脈を広げ、経験を積む。
それらを「自分の資産」として蓄積することが、人生を豊かにすると信じています。
でも、道元の視点から見れば、それは幻想なんです。
どれだけ蓄積しても、それは本来「自分のもの」ではない。
むしろ、所有しようとすればするほど、失うことへの恐れが生まれます。
「これは自分のものだ」と思い込むから、それを守ろうとして苦しむんです。
道元は、私たちの身体も心も、すべて「借り物」だと言います。
私の地、私のもの身体はこれは私のものと思っているけれど、私の思うようには身体は動いてくれませんし、手も足も、こうして生きられるのはありがたい
自分の思い通りにならない身体。
自分の意志でコントロールできない心。
それでも、いま、ここに生きていられることの不思議。
その「ありがたさ」に気づくことが、道元の言う「本来無一物」の真の意味なんです。
所有という幻想から解放されたとき、私たちは初めて、いま与えられているものの価値に気づくことができます。
健康も、仕事も、人間関係も、すべて「預かりもの」です。
永遠に続くものではない。
だからこそ、いま、ここにあることが尊いんです。
道元の「本来無一物」は、何も持たない貧しさを説いているのではありません。
むしろ、所有という執着から自由になることで、目の前にある豊かさに気づく道を示しているんです。
冷暖自知――体験することでしか分からない真実
道元の教えには、「冷暖自知」という重要な概念があります。
これは「水が冷たいか暖かいかは、自分で体験して知る」という意味です。
道元はこう説明しています。
「冷暖自知」は信じなのか?「冷暖自知」という言葉があります。冷たいとか暖かいとかを自ら体験して知る、ということです。このことに似ているのです。リンゴを食べたことのない人に、リンゴの味をいくら説明しても分かりません。実際に食べてもらうのが一番です。一番教えられていることに信があるのです。
これは、仏教の教えを理解する上で、決定的に重要な視点です。
どれだけ経典を読んでも、どれだけ高尚な理論を学んでも、それは「知識」に過ぎません。
リンゴの味を言葉で説明されても、実際に食べたことがない人には分からない。
それと同じように、悟りも、坐禅も、「本来無一物」も、体験しなければ本当には理解できないんです。
道元は、このことを「修行」と「雑用」という言葉の対比で説明しています。
多くの人は、「雑用」と「修行」を別のものだと考えます。
坐禅をすることが修行で、それ以外のことは雑用だと。
でも、道元は違う視点を示します。
道元禅師は、あまねく人々に坐禅を勧めました。ここで勧められる坐禅の大きな特徴は、「習禅」(悟りを目的とした修行としての坐禅)ではなくて「安楽の法門」としての坐禅でした。
「習禅」というのは、「仏になろう」「悟りを得よう」という目的を持った修行のことです。
でも、道元の坐禅は違うんです。
道元「坐禅の基本的なあり方は、『仏になろう』と求めないことだ。坐禅をすることが仏を行うことであり、坐禅をしているその人が仏なのだ」
坐禅をすることそのものが、すでに仏を行うことなんです。
「これをやれば悟れる」という目的志向ではない。
「いま、ここで坐っている」、その行為そのものが完結している。
これは、現代の私たちにとって、とても逆説的に聞こえます。
私たちは、何かをする時、必ず「目的」を設定します。
この資格を取れば昇進できる。
この本を読めば知識が増える。
このスキルを身につければ市場価値が上がる。
すべてが「手段」と「目的」の関係で成り立っています。
でも、道元の坐禅には、そういう「目的」がありません。
坐ることが、それ自体として完結している。
これが「冷暖自知」の本質なんです。
他人から「坐禅をすれば悟れる」と説明されても、それは知識に過ぎません。
実際に坐ってみて、初めて分かることがある。
そのような能力を生まれながらに持っている私たちは、確かに素晴らしい存在であることは間違いありませんが、このような素晴らしい働きであっても、それは「悟り」でも「仏」でもないのです。
道元は、私たちがすでに素晴らしい働きの中にいることを指摘します。
思うに、これらの働きは素晴らしい働きではありますが、「迷い」を作り出している原因でもあります。このような働きのなかで、さまざまな妄想や欲望が生まれてきます。
私たちは、見る能力、聞く能力、考える能力を持っています。
これらは確かに素晴らしい働きです。
でも、同時に、この働きが「迷い」を作り出している。
「あれが欲しい」「これが足りない」「あの人より劣っている」。
そういう比較や欲望は、すべて私たちの心が作り出しているんです。
道元は、その「働き」に気づくことの重要性を説きます。
でも、それは頭で理解することではない。
実際に坐禅をして、自分の心の動きを観察して、初めて分かることなんです。
「冷暖自知」は、単なる体験主義ではありません。
それは、知識と実践の統合を求める道元の姿勢の表れです。
どれだけ本を読んでも、どれだけ人の話を聞いても、それは「リンゴの味の説明」に過ぎません。
実際に坐ってみる。
実際に「いま、ここ」に集中してみる。
その体験を通じてしか、道元の言う真実には到達できないんです。
只管打坐――目的なき実践という逆説
道元の教えの核心は、「只管打坐」という言葉に集約されます。
「ただひたすらに坐る」という意味です。
これは、一見すると単純に聞こえます。
でも、実はこれほど理解しにくい教えはないんです。
なぜなら、私たちは「目的なき行為」というものを、ほとんど理解できないからです。
道元は「修行とは何か」という問いに対して、明確な答えを示しています。
「修行」とは何か。また、「修行とは何ですか?」という道元禅師の質問に対し、典座は「遍界かって蔵ぜず」と答えています。「遍界かって蔵ぜず」とは、「世界は隠すことなく現れている」ということです。「隠している」というのはほかならぬ私たちの心の迷いから生まれてくることであり、「仏が修行ではない」「いつさいが修行だ」ということでしょう。
世界は、すでに完全な形で現れています。
隠されているものは何もない。
「悟っていない」「まだ修行が足りない」と思っているのは、私たちの心の迷いなんです。
つまり、修行とは「何かを得るため」にするものではない。
修行そのものが、すでに完結している。
これが、道元の「只管打坐」の本質です。
多くの仏教では、修行には明確な目的があります。
公案を解いて悟りを開く。
念仏を唱えて浄土に往生する。
密教の秘法を修めて即身成仏する。
しかし、道元の坐禅は違います。
おっしゃるとおりだ。自分でやらなければ自分の修行にはならない。いつかやろうと思っていたら結局できるものではない。典座という役職は、一人一人を大切な役職だ。阿弥陀仏とか釈迦牟尼仏といった、偉いような方々もあったけど、その仏自らの行ったものはこの典座という役職だったのだろう。
典座――つまり、禅寺で食事を作る役職。
これを道元は、仏の行いそのものだと言うんです。
阿弥陀仏も、釈迦牟尼仏も、食事を作り、掃除をし、日々の務めを果たす。
それが、仏の行いなんです。
「いつか悟りを開こう」と思っているうちは、何も始まりません。
いま、ここで、目の前のことをする。
それが、すでに仏を行うことなんです。
道元は「いま、ここ、このこと」という言葉を繰り返し強調します。
「修行とは何か」また、「修行とは何ですか?」という道元禅師の質問に対し、典座は「遍界かって蔵ぜず」と答えています。「遍界かって蔵ぜず」とは、「世界は隠すことなく現れている」。「世界かって蔵ぜず」とは、「世界は隠すことなく現れている」ということです。しかし、「いつさいが修行だ」「修行でないことはない」「いつさいが修行だ」ということでしょう。
世界は、いま、ここに、完全な形で現れています。
隠されているものは何もない。
だから、「いつか悟ろう」「もっと修行しよう」と先延ばしにする必要はないんです。
いま、この瞬間が、すべてなんです。
これは、現代の私たちにとって、極めて重要な示唆を含んでいます。
私たちは常に、「将来」のために「現在」を犠牲にしています。
昇進のために、いまを我慢する。
老後のために、いまを節約する。
いつか幸せになるために、いまは辛抱する。
でも、道元の視点から見れば、それは本末転倒なんです。
「いま、ここ」以外に、生きる場所はありません。
将来のために現在を犠牲にすることは、結局、人生そのものを犠牲にすることです。
道元は、「放てば手に満てり」という言葉も残しています。
放てば手に満てり、高道神師をほめちぎって「放てば手に満てり」という一句を「放開」という言葉と、「手満」とは全世界が掴めるということになります。しかし、手を開くこと、全世界が入っているうちは、手を開くことはしていません。
手を開けば、全世界が手に入る。
でも、何かを掴もうとしている限り、本当に大切なものは手に入らない。
これが、「只管打坐」の逆説なんです。
何も求めない。
何も得ようとしない。
ただ坐る。
その瞬間に、すべてが満たされている。
現代社会は、「効率」と「成果」を重視します。
何かをするなら、それには明確な目的があるべきだと。
時間を無駄にせず、常に生産的であるべきだと。
でも、道元の「只管打坐」は、その価値観を根底から問い直します。
目的なく坐ること。
何も生み出さないこと。
それが、実は最も深い意味を持つんです。
なぜなら、その瞬間、私たちは「所有」からも「達成」からも、「比較」からも自由だからです。
ただ坐る。
ただ呼吸する。
ただ、いま、ここにいる。
それだけで、すでに完結している。
これが、道元の「只管打坐」が示す、目的なき実践という逆説なんです。
私たちは、この逆説を理解することで、初めて「いま、ここ」を生きることの本当の意味に気づくことができます。
何かを達成しなくても。
何かを所有しなくても。
何かになろうとしなくても。
いま、ここに、すでにすべてがある。
道元は、その真実を、「只管打坐」という実践を通じて、私たちに伝えようとしているんです。
禅の教えについてはこちらの1冊「仏教2600年の叡智に触れよう!!『心が回復する禅問答』島津清彦」もぜひご覧ください。

まとめ
- 本来無一物――所有という幻想からの解放――道元は「本来無一物」という認識から出発します。私たちの身体も心も、すべては預かりものであり、本当に所有しているものは何もありません。所有という執着から解放されたとき、いま与えられているものの価値に初めて気づくことができるのです。
- 冷暖自知――体験することでしか分からない真実――「水が冷たいか暖かいかは自分で体験して知る」という冷暖自知の教え。どれだけ知識を積み重ねても、実際に体験しなければ本当の理解には至りません。道元の坐禅は「悟りを得るため」の手段ではなく、坐ることそのものが仏を行うことなのです。
- 只管打坐――目的なき実践という逆説――「ただひたすらに坐る」という只管打坐は、目的なき実践という逆説を示しています。何も求めず、何も得ようとせず、ただ坐る。その瞬間に、すべてが満たされている。「いま、ここ」にすでにすべてがあるという真実を、道元は実践を通じて伝えようとしているのです。
