- 禅が教えるのは、問題も解決もあなたの中にあるということです。
- 実は、世界はあなたが想像するように作られているのです。
- なぜなら、認識次第だから。
- 本書は、禅という思想をもとに世界を見つめるための1冊です。
- 本書を通じて、禅マインドに基づく1日1日の暮らし方のヒントを得ることができます。

人は自ら囚われる?
私たちの苦しみは、普遍的なものがあります。人として生活していくうえでの問題や悩み、不安というのは、数千年の歴史を超えても、いくら経済や技術が発達しても変わらないものがあります。
仏教(禅)は、これまで長い歴史をかけて、人の問題に関わり続けてきました。
家庭や職場の人間関係、健康の不安、お金の悩み、感染症や自然災害、さらには、戦争まで、人の悩みは尽きません。
そして同時に、そうした悩みの根源を冷静に見つめてみると、自分の内側に行き当たります。
自分への執着、つまり「我執(がしゅう)」をいかに手放し、唯一無二の自分のあり方、ありのままの自分、無限の可能性を秘めた自分について、フォーカスすることがきるかを、常に仏教(禅)では説きます。
禅は普遍の真理であり、あらゆる課題や悩みを解決する手立てになるからです。
人が悩んだり、不安になるのは、欲望や執着に際限がないからです。また、一方で、執着がまったくないような完璧な人もいません。
善的な考え方を知ることは、自分自身、さらには自分の心、人の心のありか・うごきについてよく知ることであり、それは、自分とそして自分と社会の関係性をとらえる機会を提供してくれます。
人は生まれてから成長して、おとなになっていくにつれて、自分の本当の心や気持ちに蓋をしてしまうようになります。
「人からよく思われたい」という気持ち。
そんな他者に対する感情にとらわれてしまうばかりに、自分の心(本当の気持ち)に蓋をしてしまって、そのことで、本当の自分をやすやすと手放してしまいます。
会社での序列、クライアントの評価、家族の視線などなど、仕事でも家族関係でも同じことです。
ここに我執が生まれていきます。
あるものに集中する?
まずはできるかぎり、「こだわり」を手放してみることからはじめてみましょう。
ここで重要なのは、自分の強みやいいところ、可能性を捨てるということではなく、それらに対してこれ以上「こだわらない」という考えを持ってみるということが本質です。
「いま・ここ」そして「自分」に集中して、あるがままを受け止められるかどうかを確認しながら進んでみましょう。これはつまり、過去や未来、そして他者というのものを変えることは不可能であり、それらに執着していると本当の世界観から遠ざかってしまうという禅のアドバイスです。
いまこの瞬間にしっかりと集中することができれば、実は悩みはなくなります。
禅では、そもそも過去や未来は存在しないものと捉えます。存在しないものについて、いくら考えても、そこには無理が発生するのですね。
考えがおよぶのは、常に「いま・ここ・自分」です。もし悩むのであれば、「いま・ここ・自分」について、徹底的に、全身全霊をかけてなやめばいい。でも、多くの人はそれをないがしろにして、過去や未来についてくよくよと悩んでしまうのです。
この視点は、自分がコントロールできる世界を知ることでもあります。
「いま・ここ・自分」をさらに言えば、そこには「内なる自分の世界」の存在を見ることができます。自分の心と向き合って、どんなものごとに対してどのように対応しているのかをメタ認知することで、冷静に自分に対応することができるようになります。
喜怒哀楽の気持ちに飲まれるのではなく、それが起こっていること自体を冷静に見つめて、そういう自分の状態をつぶさに観察してみることから、始めてみるのがよいでしょう。
たとえば、禅とは修行とともにあるものです。
それは「いま・ここ・自分」について見つめる行為を積み重ねていくことです。

自分の心に集中?
たとえば、読書1つとっても、修行の時間にすることもできます。
いま自分が、やっている目の前のことに没入し、一体化していく感覚。
それが結果的にストレスの解消に繋がります。ほかにも料理や掃除、運動などでも構いません。自分が、なにかに没入していき、周囲が気にならなくなる瞬間を体験できれば、またその状態を自分が迎えることが容易になるでしょう。
これは身体感覚なので「体感」するしかない面があります。
坐禅も同じように、没入の感覚を得られる時間なのですね。でも、そうした特別な時間を用意しなくても、私たちは日常生活の中でも、自分の心とを捉える時間を作ることができるのです。
禅には、最終的には言葉で表せない領域「不立文字(ふりゅうもんじ)」という教えが存在します。体験を通じて、自分と、そして自分と世界との関係性を深めていく中で、どうしても言葉には表現できない部分にふれることがある。
禅は、目的を強調しません。ただあること、ただそこにいること、その中で、自分や世界とむきあい、感じることを結果としてえられるようなそうした自然のスタンスを大切にします。
ただ座る、ただ歩く。その状態そのものに集中していくことで、自ずと結果が引き寄せられるという考えなのです。
自分のやるべきこと(行動)は何なのか?
あたりまえのことを、あたりまえのようにやっていく、そういう積み重ねが自分を作っていくように、淡々とした合理的な世界観の中で、迷いや不安と向き合って生きてみるということが、禅の教えなのだと思います。
禅の教えは、すべて真理にかなっていますし、なにより合理的です。ないものはない、あるものはある。そういうあたりまえのことを、ただただ認めればいいじゃないか。それ以外の幻想に自ら悩まされる心配をしていることについて、おかしいかもしれない、そして人間ってそういう生き物なんだ、ということに気づかせてくれます。
禅の叡智に「六波羅蜜(ろくはらみつ)」があります。
- 布施(ふせ)・・誰かの役に立つ
- 持戒(じかい)・・自制する
- 忍辱(にんにく)・・耐えて受け入れる
- 精進(しょうじん)・・一生懸命努力する
- 禅定(ぜんじょう)・・坐禅する
- 智慧(ちえ)・・ひと工夫する
これらの教えは、日常生活の中でも存分に発揮できるものです。
これらの6つは、人に「どう思われるか」とかそういう視点ではなく、自分とどう向き合うことができるか?について、集中させてくれる視点のようにも見ることができるのではないでしょうか。
ブッダは、「智慧(ちえ)ある者に怒りなし」といいました。
生きているといろいろなことが起こります。でもそれは自然の摂理なのでしかたありません。それをどうこうするのではなく、どうしたら自分と向き合うことができるのか?という視点で、エッセンスとして淡々と取り入れてしまえばいいのです。
ただ、「そうですか」と放っておく。何事もなかったように、そうしたモヤモヤしてしまう原因は、スルーしてしまう、そういう心で、むしろ自分の心の動きをよく見つめる機会にしていきましょう。
自然体になると無限の可能性が目醒める。
いま・ここ・自分に集中していくことは、自分の素直な気持ちと向き合うこと、そしてその状態で、ものごとに当たることへと向かわせてくれます。
組織とか、社会とか、立場とか、そういうことを関係なくして、単純にひとりの人間としてあるべきままに、そこにいることは、自分にとって結果的に心地よいものだし、箇条なフィルターを付けていない状態で世界を見つめるので、ものごとの本質に触れることができるのです。
主人公――『無門関』
自分のなかに眠っている本来の自分
主人公も実は、禅のことばです。
自らを導くためには、建前の自分ではなく、本当の自分を見出して、その力を発揮する場所を見つけることが必要です。
無理に、周りをポジティブにしよう!と息張るのではなく、むしろあるがままの自分を見つめて、その安寧を外側のじわじわと広げていくような内から外への発想を持って、少しずつ進んでいけると良いです。
結果的に、それが自分の人生を自分で生きていく、つまり、人生の主人公として自分を大切にするということにつながっていくのだと思います。
禅的考え方、教えについては、こちらの投稿「【まず動くこと!?】考える前に動く習慣―――始める、進める、続ける 禅の活かし方|枡野俊明」や「【捨てれば幸せに近づける!?】捨てる幸せ―――シンプルに、ラクに生きる「禅の教え」|藤原東演」もぜひご覧ください。


まとめ
- 人は自ら囚われる?――人はそもそも、いろんな無理に自ら囚われていく生き物です。
- あるものに集中する?――いま・ここにないものに集中しても苦しみは晴れません。
- 自分の心に集中?――心に集中すれば、本当の自分を生きていく入口に立てます。
