自分なりの“愛”はそこにあるか!?『カメラは、撮る人を写しているんだ。』ワタナベアニ

カメラは、撮る人を写しているんだ。
  • ものごとを見つめる時、そこに当事者としていたという事実が、重みを持つことがあります。
  • まさに、写真というものがそうです。
  • なぜなら、そこには、必ず撮影している本人の存在があるからです。
  • 本書は、写真家・ワタナベアニさんの自己との対話で、写真とそして、ものごとを見つめることについて明らかにしていく1冊です。
  • 本書を通じて、人の思考、視野・視点がいかにあるのかについて、改めて考えるきっかけを提供してくれるでしょう。

撮るということは何か!?

ワタナベアニさんは、1964年横浜生まれ。写真家・アートディレクターとして幅広く活躍しています。広告プロダクション「株式会社ライトパブリシティ」で経験を積んだのち、1999年に独立。2006年からは写真家としての活動を本格化させ、雑誌・広告・ファッションカタログといった商業領域から、国内外での写真展まで、多彩な作品を世に送り出してきました。

著書には、ユーモアと洞察が交差する『ロバート・ツルッパゲとの対話』(センジュ出版)があり、その文章表現にも独自の感性が光ります。

そもそも、写真を撮るとは何なのでしょうか。
光と影をフィルムやセンサーに焼き付ける単なる記録行為なのか。
それとも、言葉で世界を描くように、自分というフィルターを通して世界を再構築する営みなのか。

本書を読むと、写真は被写体を写すだけでなく、撮る人のまなざしや思考、そしてその瞬間の存在証明までも写し込むものだと気づかされます。
まさに、レンズはもうひとつの“ペン”であり、言語と同じように世界を描写するための道具なのです。

写真を撮るためには何が大切なのでしょうか。ワタナベアニさんは、冒頭でこう語ります。

「見たものを、好きなように、ただ撮ればいい」
園児レベルの言葉に聞こえると思いますが、いくらテクノロジーが進化しようとも、これが写真の本質であることは間違いありません。

この一文に込められているのは、技術や機材の進歩を超えて変わらない、極めてシンプルな衝動です。さらに彼はこう続けます。

愛するものを記録しておきたいという「表現の衝動」は、発見以来、何も変化していないのです。

ワタナベアニさんにとって、写真とはまず“愛するもの”を見つけ、その存在を残しておきたいという心の動きから始まります。そこには、シャッターを押した瞬間の感情が、そのまま画面に滲み出すような生々しさがあります。

しかし、彼の歩みは必ずしも写真専門の道から始まったわけではありません。広告プロダクションでのキャリアを経て、独立後に写真家として本格的に活動を開始。まるで、選手経験がないサッカーチームの監督が「俺も出たい」とユニフォームを着るように、撮影技術以前に「撮りたい」という着地点だけを明確に持ち続けていたといいます。(ある意味、ワタナベアニさんの、衝動を感じるエピソードでもあります)

写真には優劣などなく、それを無条件に肯定してくれる「精神の自由」だけがあるのだと知ってください。

ここで重要なのは、“衝動”と“冷静さ”の往復です。愛する対象に出会ったときの感情の高ぶりと、それを形にするための冷静なフレーミング。

この両方を切り分けて行き来できることが、写真家としての熟達にほかなりません。ワタナベアニさんは、このプロセスを二十年以上のキャリアを通して研ぎ澄ませてきました。

写真とは、愛するものを写す行為であり、同時に撮る人自身をも写す行為。そのことを、本書は繰り返し静かに、しかし力強く語りかけてきます。

言葉の枠を封印することへ!?

本書を読んで意外だったのは、ワタナベアニさんが、写真を撮るときに言葉が常に関与していることを認めている点です。そして同時に、その言葉から離れる瞬間を探し続けていることです。

「言葉を知らなければそれが何か共有できないのはわかりますけど、ビジュアルの理解は文字から始まっているということですか」「そう。無意識でも、視線は文字と同じ瞬間に、同じ収容で満たす。だから風景や映像を見たときに『言葉のほうだけをまって思い浮かべない』というのは、すでに言葉を習慣してしまっている我々には不可能なんだ」

つまり、私たちは無意識に、目の前の映像と同時に文字を頭に浮かべてしまう存在です。さらに彼はこうも語ります。

「じゃあ、何かを見て撮ろうと思ったときは、必ず頭の中には映像と同時に文字が浮かんでいるということですか」「うん。そして言葉は映像よりも圧倒的に伝達スピードが速い」

この感覚は、多くの写真愛好家にとっても身に覚えがあるのではないでしょうか。構図や光を考える前に、頭の中で「○○のようだ」と言葉が先に走ってしまう。

しかしワタナベアニさんは、そうした言葉の枠を意識的に外そうとします。

ビジュアルは非言語的なもので誤解されがちだが、実はほとんどのかな液体を言葉の型に流して冷凍庫で固めた、アイスキューブみたいな概念だと思っている。

この比喩が示すのは、私たちの視覚体験はすでに言葉という“型”に流し込まれて固められているということです。だからこそ、写真家はその“型”からこぼれ落ちる瞬間、言葉の氷がまだ液体のままでいる瞬間を探し、その一滴をシャッターで掬い取ろうとする。

ここにもまた、“衝動”が潜んでいます。言葉に回収される前の生々しい視覚体験を求める衝動です。そして、その衝動と、構図や光を選び取る冷静さとの間を行き来することが、写真家としての挑戦であり、熟達への道なのだと感じさせられます。

ワタナベアニさんは、写真を撮るとき、何を画面に入れ、何を入れないかを決める行為そのものが、すでに言葉を使った思考であると語ります。

「好きなものをただ撮るだけでも『地区』上の点を指し示す作業」は、必ず言葉を使ってやっているんだ」
「つまり僕が街中で写真を撮ろうとして何を撮るかを決めるときの基準は、視覚じゃなくて、知らず知らずのうちに言葉の概念に引っ張られているってことです」

被写体の選択は、視覚的な衝動だけでなく、言葉や概念の網にかかった結果でもある。だからこそ、彼は撮影の瞬間に「できるだけ言葉を封印する」ことを意識します。

「頭の中によぎる文章や単語で考えないように撮る。言葉で考えた瞬間に写真は“確かなもの”に押し込められてしまうから」

ここで言う“確かなもの”とは、つまり言葉で説明できる安全な領域のことです。しかしワタナベアニさんが目指しているのは、その外側。

「『瞬時』に正反対のことを言い出したりする人間の、どんなことにも一方向からの正解なんてない、矛盾もあれば矛盾もある。人間はいつだってその表裏をひっくり返そうともがくことだ」

写真は、その“もがき”を一瞬にして封じ込めることができる。そこには、言葉に回収される前の、生の感覚や矛盾を抱えたままの世界があるのです。

こうして見ると、ワタナベアニさんの写真論は「衝動」と「冷静さ」だけでなく、「言葉」と「非言語」の間で揺れ動く営みそのものです。

写真は決して言葉と切り離されたものではないけれど、その支配から逃れようとする瞬間に、撮る人の個性や存在が鮮やかに立ち上がる。

それが、本書のタイトルにもつながる“撮る人を写す”という感覚の、もうひとつの核心なのだと感じます。

写真とは!?

ワタナベアニさんは、写真の評価を考えるときに、“うまい”と“いい”を同列に置きません。なぜなら、技術的に優れていても、必ずしも心を動かす写真とは限らないからです。

「ところで、写真には、うまくていい写真、うまくてダメな写真、ヘタでいい写真、ヘタでダメな写真がある。一番ダメなのは、どれだかわかるか」
「最悪なのは『うまくてダメな写真』だよ」

技術的に完成しているのに、見る者の心をまったく揺さぶらない。これこそが“ダメな断崖絶壁”だと彼は言います。一方で、ヘタな写真には伸びしろがあり、そこから成長する可能性が残っているのです。

その背景には、「他人の満足を想定した創作物は貧しい」という考えがあります。

「写真を撮ることは、圧倒的に自由だし、撮りたい世界は地球上に無限にあるにもかかわらず、この場合は背景をボカすべきだとか、このレンズを使えとか、構図は三分割法で…なんて言われることで、目の前の自由にあふれた豊かな世界をほんのわずかのとても小さい枠にはめてしまっているんじゃないかと思っているんだ」

つまり、「誰かがいいねしてくれるだろう」という想定に縛られた瞬間、写真は急速に貧しくなっていく。そこには、自分が何を感じたのか、なぜシャッターを切ったのかという“撮る人”の存在が薄れ、代わりに他人の評価基準だけが前面に出てしまうのです。

本書を通して感じるのは、写真の価値を決めるのは技術ではなく、撮る人が目の前の世界とどう関わり、どう受け止めたのかという、その関係性の濃度だということ。

相手の反応を想定することは悪ではありませんが、それが主軸になると、写真は途端に“うまくてダメな写真”へと傾いてしまう——この警鐘は、写真に限らずあらゆる創作に通じる普遍的なメッセージだと感じます。

ワタナベアニさんは、写真における「みんな」という意識に疑問を投げかけます。

「結論を言えば、みんながやっていることが正解である、という固定観念があって、それに無自覚に従っているだけなんだ」

多くの人は写真を「誰もがやっている正しいやり方」に寄せようとしますが、それは本来の意味を薄めてしまう危険があります。

では、写真の本質とは何でしょうか。彼はこう明言します。

「言ってしまえば記録と表現だよ」

記録は、目の前の現実をそのまま残す行為

一方、表現は、自分というフィルターを通して世界を再構築する行為です。ロバートの言葉を引用しながら、ワタナベアニさんは写真の意義をこう位置づけます。

「写真を撮る意味は『自分はこういう世界が見えている』という個々の主張しかない」

つまり、写真は単なる再現ではなく、「自分がいなければ存在していなかったもの」を生み出す媒介なのです。

「表現することの意味はすべて同じで、もし自分がいなければ世の中に存在していなかったものを作り出すことしかない」

この視点で考えると、写真は“何かを写すための道具”であると同時に、“撮る人の存在を世界に媒介する手段”だと言えます。被写体と撮る人のあいだには必ず関係性が生まれ、その関係性を通じて、現実の断片は「私」という視点を帯びた一枚に変わる。

だからこそ、他人の期待や「みんな」の正解に沿うのではなく、自分だけの視覚・感情・瞬間を媒介することが、写真の存在理由なのです。

本書を読み進めるうちに見えてくるのは、「写真は被写体を写すだけのものではない」という確信です。ワタナベアニさんは、こんな印象的な比喩でそれを語ります。

「カメラには前と後ろにレンズがついているんだ。モデルを撮っていても、撮った自分が同時に写っている写真は間違い無いくいい写真だと思う。誰かの子どもの頃の写真を見るとき、撮っている親の存在をはっきり感じることがあるだろう。愛情というかさ」

つまり、優れた写真には撮る人の存在が必ず刻まれているのです。構図や光の巧みさも大切ですが、それ以上に、シャッターを押す人の視点や感情、関係性がフレームの内外に染み出しているかどうかが、写真の真価を決めます。

そして、この「撮る人の存在を写す」という感覚は、私たちの日常や仕事にも通じます。他者をどう見ているのか、自分がどんな感情でその場にいるのか——その全てが、無意識のうちに“作品”や“成果”に反映されてしまう。だからこそ、写真は単なる技術や記録の道具を超えて、自分という存在を媒介する表現手段なのです。

カメラは、撮る人を写しているんだ。』は、写真家・ワタナベアニさんが、自らの経験と思想を通して“写真とは何か”を問い直すエッセイです。

技術論に終始せず、撮る人の衝動、言葉と非言語の往復、うまい/へたといい/わるいの違い、そして他人の評価に依存しない創作の自由まで、多面的に語られます。

本書を手にすると、写真を撮るという行為が、単に外界を記録する作業ではなく、自分という存在を世界に刻む営みであることに気づかされます。それはプロの写真家だけでなく、スマートフォンで日常を切り取るすべての人にとっても、創作や表現の原点を考えるきっかけとなるでしょう。

まとめ

  • 撮るということは何か!?――“愛するもの”を見つけ、その存在を残しておきたいという心の動きから始まるものです。
  • 言葉の「枠」を封印することへ!?――写真とは言葉ですが、それを超えたところを写せるところにも魅力があり、それが撮る人の個性を際立たせるのです。
  • 写真とは!?――それは、記録と表現であり、撮る人の個性が託されるものです。
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