【古典は最高の生き方の教科書?!】役に立つ古典|安田登

役に立つ古典
  • 古典って、どうも馴染めない・・高校の授業も丸暗記で本当につらかった・・という苦い思い出がありませんか?
  • 実は、古典こそ人生の役に立つのです。
  • なぜなら、大人になって人生の深い問題にあたったときに、生き方のヒントをくれるからです。
  • 本書では、能楽師として活躍される安田登さんが、古事記、論語、おくのほそ道、中庸といった古典から、生き方のヒントを照らしてくれます。
  • 本書を読み終えると、古典の本当にあたることを通じて、いかにいきるかのヒントがすこし垣間見られるでしょう。

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安田登
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古事記から、日本人の精神性、死について考える。

「死」が「シす」なら、「しぬ」はいったい何なのか。これについて、民俗学者の折口信夫(1887~1953)は「萎ぬ」だというのです。(「原始信仰」)

一時的に「しぬ」

古事記の中に、「死ぬ」という単語が出てきます。でも、「死(し)」は音読みなので、本当だと活用がサ変動詞となり、「死す」の使い方をするそうです。それまで、日本の文化には死ぬという概念がなくて、でも「しぬ」という言葉自体はあって、古事記を漢字で当て字するときに、「死」を使ったのだそうです。今では、死ぬというのは、そのまま死ぬ概念として日本人に話されていますね。

でも、当時は違った。

それまでの日本の語感でいうと、「しぬ」は「萎ぬ」で、しぬだったらしいのです。「なえる」ですね。この「萎ぬ」の対義語は、「いく(活く)」だそうで、しぬということは、しおれていて、でもそれって復活の兆しがあることなんだとういニュアンスになります。

そうやって見てみると不思議で、古事記の編纂が700年くらいなので、私たちが一般的に現代で「死ぬ」と捉えられることって、この1300年くらいの間に固まった概念なんだっていうことがわかります。

それまではどうだったかというと、もっと死は身近で、そして一時的なものだった・・あの世とこの世がもっと別け隔てなくあったということでしょう。

お盆などで、祖先の霊がかえってきて、いきる人が迎える習わしがありますが、そのような感覚が日常だったのでしょう。

ここまで書いていて、ドラゴンボールを思い出します。鳥山明さんのドラゴンボールは、主役もそうでない人も、バタバタと死にます。でも、死んだ先には、天界があってそこで生きているんです。で、何でも願いがかなうドラゴンボールで生き返らせたりもできる。こんな感覚をきっと昔の人も持っていたのかなぁ・・そして、鳥山明さんの作品も見方によっては、原始信仰というかそういう側面もあるんだなぁと感じます。

このように、著者によると、古典を読みながらも、その「本質」を捕まえに行くと、非常に人生や生き方、価値観の振り返りにに役立つ示唆を得られるといいます。

論語に学ぶ、「40の不惑」の本質とは!?

そこで漢字リサーチの出番です。先の文章に出てくる漢字が、孔子の時代にあったかどうか調べてみる。すると驚いたことに、この章句の肝である「惑」という漢字が、孔子の時代にはないのです。

「四十にして惑わず」ではない

この元の文章は、「子曰く、吾(われ)十有五にして学に志し、三十にして立ち、四十にして惑わず、五十にして天命を知る。六十にして耳順(したが)う、七十にして心の欲するところに従いて矩(のり)を踰えず」です。

この「惑」うという漢字は、比較的新しい字だそうです。漢字にも人類の認知過程とともに発達した歴史があるそうで、「心」がそもそも新しい字だったそうなのです。だから、孔子の時代には、心をつくりとした「惑」う字はまだなくて、「或」という風にかいていました。

この、「或」というのは、区切りの意味で、地域の「域」の使い方を見るとなるほど、と思えますね。

で、40にして或(区切り)がない!というのだから、自分を限定することなく、さまざまなことにチャレンジしましょう。というメッセージとして捉えられるというのです。

たしかに、30で立ってその後、50で天命なのですが、たしかに、この間で惑わないというのもストーリーとしては不自然な気もしますね。立って、色々チャレンジして、そして天命のほうが、発展性があるというか・・

本書を見通すと・・!

実は、4つの古典を取り扱っている本書ですが、これらの書籍から抽出されるポイントは連関しています。

古事記で「死生観」を味わい、論語で「心の問題」を取り扱いながら、松尾芭蕉のおくのほそ道では、死生観と心の問題をもう一度振り返り、最終的に、中庸で、これらを統合し「誠」という漢字に生き方を見出す、そんな構成になっています。

著者が、古典4作品に見出した、生き方のヒントをつなげる旅に一緒に立つような感覚で、これはひとつの新しい作品として非常に楽しめます。

ぜひご一読をおすすめします。

ところで、本書の最後に取り上げられている「中庸」の「はじめに」にかかれている内容が、不思議とルネ・デカルトの「方法序説」の冒頭を思わせます。

最初に、人は一人ひとり「天」から与えられた「命」を持っていると言っています。天命です。これを「性」と名づけます。その性に従うのが「道」です。この「道」は「正しい歩み」という意味ではなく、あくまで性に従うことだと考えてください。そして、性に従う道を教えることが「教」です。道からは一瞬たりとも離れることはできない。離れることがあればそれは道ではないと言っています。

心の塵を掃く

良識はこの世でもっとも公平に分け与えられているものである。というのも、だれも良識なら十分身に具わっている と思っているので、他のことでは何でも気難しい人たちでさえ、良識については、自分がいま持っている以上を望まないのが普通だからだ。この点で みんなが思い違いをしているとは思えない。むしろそれが立証しているのは、正しく判断し、真と偽を区別する能力、これこそ、 ほんらいの良識とか理性と呼ばれているものだが、そういう能力がすべての人に生まれつき平等に具わっていることだ。だから、 わたしたちの意見が分かれるのは、ある人が他人よりも理性があるということによるのではなく、ただ、わたしたちが思考を 異なる道筋で導き、同一のことを考察していないことから生じるのである。

ルネ・デカルト『方法序説』はじまり

論語の孔子も、方法序説のデカルトも、不思議と外から与えられた何か(命/良識)をすでに人は持っているという立場に立ちます。この点において、人はみな平等であるという書き出しは、当時としても相当に新しかったに違いありません。論語は約2500年前で、デカルトは400年前なので、年代の差はあれど、なにか共通しているものごとを感じます。

哲学の入門書としては、過去の投稿「【自分の考えの深め方とは!?】考える教室|若松英輔」もおすすめです!

まとめ

  • 古事記から、日本人の精神性、死について考える。――もともと、日本の「しぬ」感覚は現代のものと違いました。あたりまえの価値観もほんの1300年程度の間で固められたのだと認識してみましょう。
  • 論語に学ぶ、「40の不惑」の本質とは!?――漢字も人間の認知能力とともに徐々に発展してきました。この不惑の「惑」の当て字に見る本質から、言葉の限界と可能性を知るのも一興です。
  • 本書を見通すと・・!――4作品を横断しながら生き方や価値観へのヒントを見いだせます。それはまさに著者の読書体験を追従するような経験をもたらしてくれます。

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