- あなたは、今この瞬間、呼吸していますね。その呼吸は、何のためにしているのでしょうか?生きるため?健康のため?それとも――
- 実は、呼吸すること自体が、それ以上の目的を必要としない、純粋な喜びなんです。
- なぜなら、目的志向、成果主義の世界で生きていると、目標となる自分の姿を未来に追い求めてしまいがちですが、禅においては、今ここに生きている自己の実物がすべての出発点であり、人それぞれの住處で主体的な活動自体にあるのだからです。
- 本書は、これまで2回にわたって、having から being へ、囚われから解放へという道を探ってきました。
- 本書を通じて、最終回となる今回は、「大いなる自己」に気づくこと、「無私の心」で生きること、そして「呼吸すること自体が喜び」という境地まで、私たちがどのように自分を引き上げていけるのかを探究していきたいと思います。
前回の投稿はこちら「道そのものを楽しむ・・・!?『NHK 宗教の時間 AI時代に学ぶ禅』藤田一照」からご覧ください。
「大いなる自己」に気づく――皮膚の内側を超えて
これまで2回の投稿で、私たちは having の次元から being の次元へのパラダイムシフト、そして passion(囚われ)からの解放について考えてきました。
でも、「being の次元で生きる」とは、具体的にどういうことでしょうか?
藤田一照さんは、「大いなる自己」という概念を提示します。
普段、私たちは「自分」というものを、外界から分離した、自らの皮膚の内側、あるいは自我めている時の「自中の自分」に限定して考えがちです。それが目的的な意識の癖になっています。しかし、その「小さな自分」ではなく、時間的にも、空間的にも、無限の広がりを持った「大いなる自己」に気づくこと
この言葉が、すべての鍵を握っています。
私たちは普段、自分を「皮膚の内側」に限定して考えています。
この身体、この思考、この感情――これらが「自分」だと思っているんです。
でも、藤田一照さんが問いかけるのは、それは本当に自分のすべてなのか、ということなんです。
第1回目の投稿で学んだ「interbeing」を思い出してください。
私たちは、空気を吸い、水を飲み、食べ物を食べ、他者と関わり合いながら生きています。
つまり、すべてのものとつながりながら、相互依存的に存在しているんです。仏教的な縁起の世界観ですね。
藤田一照さんは、こう続けます。
道元も、「馬祖が禅を通してどうなったかというと、馬祖が馬祖らしくなったただ」と言っています。それでいいのです。私は私らしくなればいい。目標を定めて、私ではないものに目指すのは必要ありません。内山老師は、「バラにはバラの花が咲けばいい。スミレはスミレの花が咲けばいい。スミレがバラをうらやむ必要はない。ただ一生懸命に咲けばいい」と言いました。
この言葉は、とても深い意味を持っています。
バラはバラらしく、スミレはスミレらしく――当たり前のように聞こえます。
でも、私たち人間は、自分らしくあることを忘れているんです。
他人と比較し、社会の基準に合わせ、「こうあるべき」という理想像を追いかける。
その結果、本来の自分から遠ざかってしまうんです。
自己を明らめることも、あるがままの自己を生きる覚悟を持つこともない
情報化された世間に飛び込んでしまうと、別々と送り込まれる情報に古反なく右往左往することになります
ここで重要なのは、「あるがままの自己を生きる覚悟」という言葉です。
覚悟――それは、決意であり、腹をくくることです。
自分を変えようとするのではなく、今ここにある自分を受け入れる。
それが、「大いなる自己」に気づく第一歩なんです。
藤田一照さんは、AI時代という文脈でこう語ります。
目的志向、成果主義の世界で生きていると、目標となる自分の姿を未来に追い求めてしまいがちです。しかし禅においては、今ここに生きている自己の実物がすべての出発点であり、人それぞれの住處で主体的な活動自体にあるのです
AI時代は、ますます目的志向、成果主義を加速させます。
効率、最適化、生産性――これらの価値観が、すべてを支配しようとしています。
でも、藤田一照さんが指摘するのは、禅の視点はその真逆だということなんです。
「今ここに生きている自己の実物」――それがすべての出発点。
未来の理想像ではなく、今ここにある自分。
その自分は、皮膚の内側だけに閉じ込められた存在ではありません。
空間的にも、時間的にも、無限の広がりを持った「大いなる自己」なんです。
空間的な広がりとは、interbeing のことです。interbeingとは、上述の縁起の中で規定される自己の定義のことです。
私たちは、すべてのものとつながっています。
時間的な広がりとは、過去から未来へと続く生命の流れの中にいるということです。
私たちの身体には、何億年もの進化の歴史が刻まれています。
そして、私たちの行為は、未来へと影響を与え続けます。
こうした広大な視点から見たとき、「小さな自分」という概念は、あまりにも限定的です。
「大いなる自己」に気づくこと――それは、自分の存在を、もっと広い文脈の中で理解することなんです。
「第2の心」で生きる――無私の心という自然
「大いなる自己」に気づいたとき、私たちの心はどのように変わるのでしょうか?
藤田一照さんは、「第2の心」という概念を紹介します。
「第2の心」とは、通常私たちが心だと思っている心、つまり小さな自我の心です「私」を主語として立ち上げなければ駆動しないこの心は、理性で意識的にものごとを理解している
まず、「第1の心」とは何でしょうか?
それは、私たちが普段「心」だと思っているものです。
「私は〜と思う」「私は〜と感じる」という形で機能する心。
常に「私」を主語として、世界を認識し、判断する心です。
この心は、理性的で、意識的で、分析的です。
でも、藤田一照さんが注目するのは、もうひとつの心なんです。
これに対し、「私と云うものを入れなくても働く」のが「第二の心」です。「私」を主語としていなくても知覚したり、それに基づいて行動することができます。「私」の入り込む余地がない心です。この心は「無私」の心
この「第2の心」が、とても重要です。
「私」というものを入れなくても働く心。
これは、どういうことでしょうか?
例えば、熱いものに触れたとき、私たちは瞬時に手を引っ込めます。
「熱い!危ない!手を引っ込めよう!」と考える前に、身体が反応しているんです。
これが、「直下にわかる」ということです。
頭で理解する前に、身体が知っている。
意識する前に、反応している。
これが、「第2の心」「無私の心」の働きなんです。
藤田一照さんは、こう続けます。
モンキー・マインドでモンキー・マインドを鎮めようとするのは、実際は火に油を注ぐようなもので、かえって逆効果です。
モンキー・マインド――猿のように落ち着きなく、あちこちに飛び回る心のことです。
私たちの「第1の心」は、常に何かを考え、判断し、評価しています。
そして、その心を「鎮めよう」とすると、かえって逆効果なんです。
なぜなら、「鎮めよう」と思うこと自体が、モンキー・マインドの働きだからです。
「上虚下実」とは、上半身はリラックスして力が抜け、下半身に力が充実している状態を指す言葉です。武道やヨーガ、太極拳、芸道など広い分野で理想とされる姿勢や状態を表す際に用いられます。
ここで、藤田一照さんは身体性に注目します。
「上虚下実」――上半身の力を抜き、下半身に重心を置く。
これは、単なる姿勢の話ではありません。
心のあり方そのものなんです。
チベット仏教でも、大いなる心は、清浄でのびのびとしていて、輝いていると言われます(「光り輝く清浄な心性」)。これは、私たちの本来の心として生得的に獲得されるものではなく、私たちの本来の心として生得的なものだとも言われています。
この言葉が示すように、「第2の心」「大いなる心」は、何か特別なものではありません。
獲得すべき目標ではなく、もともと私たちに備わっているものなんです。
ただ、「第1の心」のノイズによって、見えなくなっているだけなんです。
藤田一照さんは、「自由」という言葉を通じて、このことを説明します。
涅槃は持続可能な幸福であり、現代の言葉で言うなら、それは「自由」ではないかと私は考えています。自由という言葉には「三つの自由」があります。自由は「〜からの自由」で、さまざまな制約や煩悩に束縛されている状態からの解放を意味します。
第1の自由は、「〜からの自由」。
束縛、制約、煩悩からの解放です。
これは、私たちが普通「自由」と聞いて思い浮かべるものですね。
いずれも外から私たちの行動を制限されていた牢獄から外へ出て、そうした制限から解放された人のことを想像してください。二つ目は「〜への自由」です。牢獄の外から中の解放へ行き、なさけなく拘束されて分が行きたいと思うところへ行き、やりたいことをやれるようになった人のことを想像してください。
第2の自由は、「〜への自由」。
行きたいところへ行ける、やりたいことができる自由です。
これも、私たちが求める自由のひとつです。
でも、藤田一照さんが指摘する最も重要な自由は、第3のものなんです。
三つ目の自由は「他者のための」自由です。第三の自由は「他者のため」の自由です。英語で言うなら availability
(中略)
available とは Is this seat available?(この席は空いていますか?)のように誰かが利用できるように空いている状態を指します。Are you free this Saturday?(今週の土曜日、空いてる?)という言葉のやりとりでの free は、自由というより、やらなければならないことが自分の時間が占められておらず、他者のために自分を使える状態です。つまり、先ほど言った availability です。自由の本当の意味での free で、生きとし生けるもののために自分をリソースとして差し出せる自由です。
この「第3の自由」が、「第2の心」そのものなんです。
「私」のためではなく、「他者のため」に自分を使える状態。
自分の時間やエネルギーを、誰かのために差し出せる状態。
これは、「無私の心」が働いているときの状態です。
「私が〜したい」ではなく、「何が必要とされているか」に応答する。
それが、本当の意味での自由なんです。
AI時代において、この視点はとても重要です。
AI は、効率的に目的を達成するツールです。
でも、「他者のために自分を差し出す」という availability は、AI にはできません。
なぜなら、それは「私」という主語を持たない、「無私の心」の働きだからです。
人間だけが持つこの心こそが、AI時代における人間の存在意義なのかもしれません。
呼吸すること自体が喜び――「生きる」というクリエイティビティ
最後に、藤田一照さんは、「生きる」ということ自体の意味を問い直します。
テクノロジーは、往々にしてそうしたクリエイティビティを人間から奪ってきた側面があります。便利で効率的でテクノロジーの助けを借りすぎ、何もかもやすく外注する癖がついてしまうと、望んだ結果は得られるにしても、自分なりに工夫したりプロセスを愉しんだりすることができなくなってしまうと、楽しみはレジャーや買い物など、お金と引き換えに外から与えられるものに限られてしまいます。すると、お金のない人には楽しみも味わえないことになります。having の次元ではこうした問題が生じますが、being の次元では、愉しみが奪われることはあり得ません。すでに手元にあるものを活かし、「今ここ」にいて工夫したり、「今ここ」に生み出すことは誰にでも工夫次第で可能です
この言葉が、すべてを集約しています。
having の次元では、楽しみは「外から与えられるもの」です。
お金を払って買うもの、達成して得られるものです。
喜びとは、つねにあるということ、being であることの喜びとはどのようなものでしょうか。
ここで言うクリエイティブな活動は、世間的な生産性とは無関係です。効率も、成果も、評価も求められません。ジェンドリンは「プロセスモデル」で創造することを「生起する(arise)」と「carrying forward(推進)」だと表現しています。生きることも禅の道も、ただ推進している「いのち」があるだけだ、だけでクリエイティブだとも言えます。 哲学者の西田幾多郎〔*3〕は、「かくのごとき世に向を楽しんで生きるか」と自問し、「呼吸するもつの快楽なり」と自答しています
この言葉が、すべての到達点です。
「呼吸するもつの快楽なり」
呼吸すること――それ自体が喜びである。
何かのためではなく、呼吸そのものが目的であり、喜びなんです。
藤田一照さんは、こう続けます。
問題につく問題のなかで、私たちは苦しみながら生きているという現実。(中略)そのことに何かの外から目的的な意味づけをすることもない。生き抜くということができない。そして生きるということにこめられている肯定的なこと、これが(中略)「呼吸するもつの快楽なり」と西田は言う。つまり苦しみに打ち勝いてということだけではない、すでに、この「快楽」というのは普通の意味での快楽ではなくて、中略)生きるということ自体に(中略)、まあ愉快のほうに近い「快」ですね。そしてそれが「楽しみ」である。
この解説が、西田幾多郎の言葉の深さを示しています。
呼吸の快楽は、「普通の意味での快楽」ではありません。
何かを得る喜び、何かを達成する喜びではないんです。
そうではなく、「生きるということ自体の最も純粋な喜び」なんです。
藤田一照さんは、ブッダについてこう語ります。
呼吸とは生きることそのものであり、呼吸自体が喜び厳として愉快だと思うこと、私たちが最期にできるのは呼吸ぐらいですから、死処間際の呼吸が愉快だったとしたら、素晴らしいじゃありませんか。素晴らしもろん、坐禅も愉快でなければいけないし、人生も愉快であるべきです。「人生は苦である」というのがブッダのメッセージだと言われていますが、それは誤解です。ブッダを見れば、あのメッセージの半分しか受け取っていないのではないかと私は考えています。
この言葉は、私たちの「ブッダ」のイメージを大きく変えるものです。
「人生は苦である」――これがブッダの教えだと、多くの人が思っています。
でも、藤田一照さんが指摘するのは、それは半分しか受け取っていないということなんです。
ブッダは、苦しみから逃れるために修行したのではありません。
そうではなく、生きることの喜びを見出すために修行したんです。
仏教の苦も含めて誤解されているものでは、あのブッダがやって生産性とは無関係です。効率も、成果も、評価も求められません
この視点は、AI時代においてとても重要です。
AI時代は、ますます効率、生産性、成果を重視します。
すべてが数値化され、最適化され、評価されます。
でも、藤田一照さんが指摘するのは、人間の本質はそこにはないということなんです。
人間の本質は、「呼吸すること自体が喜び」という境地にあるんです。
何のためでもなく、ただ生きている。
ただ呼吸している。
それ自体が、純粋な喜びである。
この境地に到達したとき、私たちはAIとの競争から降りることができます。
なぜなら、私たちの価値は、何かを「達成すること」ではなく、「存在すること」そのものにあるからです。
藤田一照さんは、最後にこう語ります。
仏教の苦しみも誤解されているというのは、この人はしばやったら生きることが愉快になって、昔も苦しい思いで動かされるのでも
なく、また苦しもっと人を慰めようとするのでもなく、苦としっかり向き合い
この言葉で、すべてがつながります。
苦しみを否定するのではなく、逃げるのでもなく、「苦としっかり向き合う」。
そして、その中で、「生きることが愉快になる」。
これが、禅の道なんです。
AI時代において、私たちはどう生きればいいのか?
その答えは、「大いなる自己」に気づき、「無私の心」で生き、「呼吸すること自体が喜び」という境地まで、自分を引き上げていくことなんです。
それは、特別な修行ではありません。
ただ、今ここに、丁寧に存在すること。
ただ、呼吸していること。
その当たり前のことに、喜びを見出すこと。
それが、AI時代における人間の道なのかもしれません。
まとめ
- 「大いなる自己」に気づく――皮膚の内側を超えて――目的志向の世界で未来の理想像を追いかけるのではなく、今ここに生きている自己の実物がすべての出発点であることを見てきました。時間的にも空間的にも無限の広がりを持った「大いなる自己」に気づくことが、AI時代における第一歩なんです。
- 「第2の心」で生きる――無私の心という自然――「私」を主語としない心、直下にわかる心について探究しました。第三の自由としての availability――他者のために自分を差し出せる状態こそが、本当の意味での自由であり、AI にはできない人間の在り方なんです。
- 呼吸すること自体が喜び――「生きる」というクリエイティビティ――having の次元での生産性ではなく、being の次元での純粋な喜びについて論じました。呼吸すること自体が喜びである――この境地まで自分を引き上げることが、AI時代を生きる私たちの道なんです。
