- あなたは今、何に駆り立てられて生きていますか?目標達成、キャリアアップ、他者からの評価――私たちは常に「次」を目指して走り続けています。でも、その「情熱」は本当に自分のものでしょうか?
- 実は、passion(情熱)という言葉の語源は、「囚われている」「受動的に苦しむ」という意味なんです。
- なぜなら、駆り立てられて何かをする人は、フロムは「情熱(passion)」の奴隷であり、その人がしていることは「受動的(passive)」だと言うからです。
- 本書は、前回に引き続き、藤田一照さんが語る禅の智慧を通じて、私たちが何に囚われているのか、そしてどのように生きればいいのかを探究していきます。
- 本書を通じて、passion と passive という囚われた状態から、appreciate という態度への転換、そして「目的-手段」思考を超えた「道そのものを愉しむ」生き方まで、キーワードを丁寧に考えることで自分自身を照らしていきたいと思います。
前回の投稿はこちら「身体を持って、自己の存在を問い直せ!?『NHK 宗教の時間 AI時代に学ぶ禅』藤田一照」からご覧ください。
囚われた自己――passion と passive に支配される私たち
前回、私たちは having の次元から being の次元へのパラダイムシフトについて考えました。
でも、being の次元で生きるとは、具体的にどういうことでしょうか?
藤田一照さんは、まず私たちが何に「囚われているか」を見つめることから始めます。
駆り立てられて何かをする人を、フロムは「情熱(passion)」の奴隷であり、その人がしていることは「受動的(passive)」だと言います。それは情熱のうわりに身を任せているだけで、少しも主体的ではないからです。
この言葉を読んで、ハッとしませんか?
「情熱的に生きる」ことは、一見、主体的で能動的に見えます。
でも、藤田一照さんが指摘するのは、その「情熱」に駆り立てられている限り、それは実は「受動的」だということなんです。
passion という言葉の語源を辿ると、「苦しむ」「受難する」という意味があります。
キリストの「受難(Passion)」も、同じ言葉です。
つまり、passion とは、何かに「囚われて苦しむ」状態を指すんです。
私たちは、目標に、成功に、他者からの評価に、囚われています。
そして、それらを追い求めることを「情熱」と呼んでいます。
でも、それは本当に自分の意志でしょうか?
藤田一照さんは、こう続けます。
逆に、受動的な態度や「静かに待って、自分自身に耳を傾け、世界との一体感を味わうこと以外なんの目的ももたずに、ひたすら物思いにふけっている人は、外見的には何もしていないので、『受動的』と言えるが、実際には、精神を集中した課題は、きわめて高度な活動である。内面的な自由と自立が与えれば実現できない、魂の活動である。」(エーリッヒ・フロム『愛するということ』
ここで重要なのは、「静かに待って、自分自身に耳を傾ける」という姿勢です。
外から見れば、何もしていないように見えます。
でも、それこそが本当の意味での「能動的」な状態なんです。
なぜなら、外の何かに駆り立てられているのではなく、自分自身の内側と向き合っているからです。
現代社会は、常に「次」を目指すことを求めます。
目標を設定し、計画を立て、達成する――これが「成功」だと教えられます。
でも、その目標は本当に自分が望んだものでしょうか?
それとも、社会や他者から「こうあるべき」と押し付けられたものでしょうか?
藤田一照さんが指摘する「情熱の奴隷」とは、まさにこの状態です。
自分では主体的に選んでいると思っていても、実は外部の価値観に駆り立てられている。
それは、本当の意味での自由ではないんです。
では、どうすればいいのでしょうか?
藤田一照さんは、「無所得 無所悟」という禅の態度を提示します。
「無所得 無所悟」とは、何も得ようとしない、何も悟ろうとしないという、坐禅に取り組むときの態度のことです。そういう態度で、ただひたすら坐る。それが坐禅です。
何も得ようとしない。
何も達成しようとしない。
ただ、坐る。
これは、現代人の私たちにとって、とても難しいことではないでしょうか。
私たちは、すべてを「目的-手段」の関係で考えるよう訓練されています。
何かをする理由は、何かを得るため。
坐禅をする理由も、「悟りを開くため」「心を落ち着けるため」と考えてしまいます。
でも、「無所得 無所悟」の態度は、そうした目的志向を手放すことなんです。
無所得 無所悟の態度でただ純粋に坐り、being の次元の自己を実現すること
ただ坐る。
ただ、今ここに存在する。
それ以外の目的を持たない。
これこそが、passion(囚われ)から解放された、本当の意味での能動的な状態なんです。
キーワードを考えることは、自分を照らすことです。
「情熱」という言葉を無批判に肯定的に捉えるのではなく、その語源にまで立ち返って考える。
すると、自分が何に駆り立てられているのか、何に囚われているのかが見えてくるんです。
appreciate という態度――「お陰様」で生きる
囚われから解放されたとき、私たちはどのような態度で生きればいいのでしょうか?
藤田一照さんは、「appreciate」という言葉に注目します。
appreciate という動詞には、価値を理解する、高く評価するという意味(I can appreciate your efforts. あなたの努力は評価できます)の他に、感謝するという意味があります(I appreciate your help! ご助力に、すでに、現に)支えてくれているものに敏感に気づき、価値を評価することができれば、自ずと感謝の念が湧いてきます。
この「appreciate」という言葉は、日本語の「お陰様」に近いと私は思います。
「お陰様で」という言葉には、自分一人の力ではなく、多くのものに支えられているという認識があります。
空気、水、食べ物、他者、自然――すべてのものが、私たちの存在を支えています。
でも、私たちは普段、それを当たり前だと思って生きています。
藤田一照さんは、こう語ります。
大地と私たちの身体は「常に、すでに、現に」つながっています。余計な力みを手放して自分の体重を大地にすべて委ね、自分が今とのように大地とつながっているかをさめ細かく感じるのです。
この「常に、すでに、現に」という言葉が、とても重要です。
私たちは、何かを「獲得する」ことばかり考えています。
成功を手に入れる、幸福を掴む、目標を達成する――すべて未来志向です。
でも、藤田一照さんが指摘するのは、私たちはすでに多くのものに支えられているということなんです。
悟りにしても、いったん悟ったらもう迷うことはない、悩むこともないなど、そんなつもった悟りではない。迷える、悩めるという悟りでなければならない。それではじめて生き生きした悟りです。生き生きと生きて生きているということは、人間の世界をももって分別しながら、一切を無碍として見ている。つまり分別を解除しているということです。言い換えれば、いかなる人間的な理性の分別物として眺めるということだ。(内山興正『正法眼蔵 山水経・古仏を味わう』)
ここで語られているのは、「完成された悟り」ではなく、「生き生きとした悟り」です。
すべてが解決され、もう何も問題がない――そんな状態を目指すのではありません。
そうではなく、迷いながら、悩みながらも、すべてを「無碍」として見る。
つまり、すべてが互いに支え合い、つながっているという事実に気づくことなんです。
これが、「appreciate」の態度です。
自分が何かを「持っている」のではなく、すでに多くのものに「支えられている」。
その事実に気づき、価値を理解し、感謝する。
この態度は、having の次元から being の次元への転換そのものです。
私たちは、「何かを得る」ことではなく、「すでにあるもの」に気づくことで、豊かさを感じられるんです。
日本には、「お陰様」という美しい言葉があります。
「お陰様で元気です」「お陰様で無事に終わりました」――この言葉の背後には、自分一人の力ではなく、見えない多くの支えがあるという認識があります。
藤田一照さんが語る「appreciate」は、まさにこの「お陰様」の心なんです。
キーワードを考えることは、自分を照らすことです。
「appreciate」という言葉を、単に「感謝する」と訳すのではなく、その深い意味を味わう。
すると、自分がすでに多くのものに支えられていることに気づけるんです。
そして、その気づきこそが、囚われから解放された生き方への第一歩なのかもしれません。
道そのものを愉しむ――「目的-手段」思考からの脱却
最後に、藤田一照さんは、「目的-手段」という二元的思考からの脱却を促します。
ここで登場するのが、「キーネーシス」と「エネルゲイア」という概念です。
哲学者の岸見一郎(*2)は、エネルゲイアとは「なしつつある」ことがすべてそのまま「なしとげられた行為」であると言っています。プロセスの一瞬一瞬が完全であり、完成された「もの」(岸見一郎『老いる勇気』)だと言っています。
キーネーシスとは、目的志向の活動です。
「〜のために」「〜を達成するために」という思考で行われる活動のことです。
例えば、試験に合格するために勉強する、お金を稼ぐために働く――これらはすべてキーネーシス的な活動です。
一方、エネルゲイアとは、活動そのものが完成されているものです。
プロセスの一瞬一瞬が、それ自体で完結している活動のことです。
藤田一照さんは、この違いを「Happiness is the Way」という言葉で表現します。
Happiness is the Way. の happiness は エネルゲイア的なマインドセットが見ている幸福です。今はない幸福に値れ、それを手に入れようとしてもがくのではなく、どんなときであれ、今すでに自分に与えられている幸福を感得できる感受性を持ち、恵みとしてありがたく受け取っています。
この言葉は、とても深い意味を持っています。
「Happiness is the Way」――幸福は道そのものである。
つまり、幸福は「到達すべき目的地」ではなく、「今歩いている道」そのものだということです。
私たちは、「幸福になるために」何かをします。
お金を稼ぐ、地位を得る、目標を達成する――これらはすべて「幸福になるための手段」として行われます。
でも、藤田一照さんが問いかけるのは、その「幸福」はいつ訪れるのか、ということなんです。
目標を達成したら?
お金持ちになったら?
成功したら?
でも、そうした目標を達成しても、また次の目標が現れます。
つまり、キーネーシス的な思考では、永遠に幸福には到達できないんです。
藤田一照さんは、こう語ります。
部屋をきれいにするための掃除、栄養を補給するための食事も、キーネーシス的ですが、禅の修行として行われる掃除や食事は「そのプロセスの一瞬一瞬が完全であり、完成されたもの」(岸見一郎『老いる勇気』)となるようなエネルゲイアとして行じられるのです。
掃除をする。
食事をする。
これらの日常的な行為も、「〜のために」という目的を持たずに行えば、それ自体が完成された活動になるんです。
掃除は、部屋をきれいにするための手段ではなく、掃除そのものが目的です。
食事は、栄養を摂るための手段ではなく、食事そのものが目的です。
藤田一照さんは、この考え方を「オーガニック・ラーニング」という言葉で表現します。
エネルゲイアとして身を躍動させると、知らず知らずのうちにさまざまな学びが起こります。このような学びを、私は「オーガニック・ラーニング(organic learning)」と呼んでいます。たとえて言うなら、赤ちゃんのような学び方です。
赤ちゃんは、目的を持って学びません。
ただ、目の前にあるものに触れ、味わい、感じるだけです。
でも、その過程で、自然に多くのことを学んでいくんです。
オーガニック・ラーニングでは、自分がいる「今ここ」が教室で、周りのすべてが教材です。学んでいるときと学んでいないときという、オン・オフの区別もありません。仏教の学び、つまり修行も同じです。
この言葉が、すべてを集約しています。
「今ここ」が教室。
つまり、どこか別の場所に行く必要はないんです。
「すべてが教材」。
つまり、特別なものを探す必要もないんです。
ただ、今ここで、目の前のことに丁寧に向き合う。
それだけで、学びは起こるんです。
藤田一照さんは、ティク・ナット・ハン師の言葉を引用します。
私は以前、ティク・ナット・ハン師に「Issho, smile! Practice should be joyful! (一照さん、微笑みなさい。修行は愉快なものであるべきですよ)と言う師は、こう続けました。
ブッダはいつも微笑んで修行されていたはずです。周囲に敵を寄せ、沈鬱な表情を浮かべる人の周りに人は集まってきません。人々がブッダのところへやってきて、仏法を聞きたいと思うようなものでせな笑みをたたえていたからでしょう。ブッダは当時、地上で生きることを最も愉しんでいた一人だと私は思います。私たち修行者もそうであるべきです。そして、それは難しいことではありません。
この言葉は、とても重要です。
修行は、苦しいものではない。
愉しいものであるべきだ、と。
なぜなら、修行は「悟りを得るための手段」ではないからです。
禅の修行はエネルゲイア的であり、オーガニック・ラーニング的です。
つまり、修行そのものが完成されたものなんです。
ゴールである悟りを開けば苦しい修行は終わりということではなく、ブッダがそうであったように、自己を明らめることで生きる方向がはっきり定まり(それが悟りです)、内発的に喜んで修行の道を歩く。まさに「Happiness is the Way.」です。
この言葉で、すべてがつながります。
悟りは、到達すべきゴールではない。
そうではなく、「自己を明らめる」ことで、生きる方向がはっきりする。
そして、その道を歩くこと自体が幸福なんです。
目的と手段の二元的思考が悪いわけではありません。ただ、その弊害や危険性を知っておく必要はあります。
藤田一照さんは、決して目的志向を全否定しているわけではありません。
目標を持つことも、計画を立てることも、それ自体は悪いことではないんです。
何をするにも目的のために最適の手段を常に考えるマインドセットが自分に向けられると、自分自身をも手段視することになります。
でも、その思考が自分自身に向けられたとき、問題が生じます。
自分を「目的達成のための手段」として扱ってしまうんです。
道具的理性とは、目的を達成するために最も効率的な手段は何かという理性をもって分別しながら、一切を無碍として見ている。つまり分別を解除しているということです。先ほどの学校への移動の例で言えば、一緒に通学する友達が見つかっている場合はただちに到着することではなく、ハリウッドみたいに道を選ぶべき、という思考です。人と人とのつながり、思いやり、公平性、人間の尊厳や幸福、自然との
ここで藤田一照さんが警告するのは、道具的理性の限界です。
効率、最適化、目的達成――これらだけを追求すると、人間的な価値が失われてしまうんです。
ティク・ナット・ハン師が「呼吸の偈」に記したように、生命が躍動している世界では、ほとんどのことはブッダ(大自然の働き)がやってくれます。そこでは余計なことをしないブッダに任せ、それを愉しみ安らいでいればいいのです。しかし、ブッダを信じることができないと、坐禅に臨むときも意識的に「力を入れ、心を貫やして」正しい姿勢や呼吸を実現しようとします。しかしそれでは、身心を緊張させるばかりで、坐禅本来の安楽の世界(「坐禅は、(中略)大安楽の法門なり」『正法眼蔵 坐禅儀』)は開かれません。身体の不必要な緊張に気づき、自然な姿勢や動きを取り戻す身体技法「アレクサンダー・テクニーク」では、プロセスを無視して目的
この引用が示すように、すべてを「自分でコントロールしよう」とすることが、かえって自由を奪うんです。
自然に任せる、大いなる流れに身を委ねる――それが、本当の意味での自由なのかもしれません。
キーワードを考えることは、自分を照らすことです。
「キーネーシス」と「エネルゲイア」という言葉を知ることで、私たちは自分の思考パターンに気づけます。
私たちは、すべてを「目的-手段」の関係で考えていないか?
そして、その思考が、かえって幸福を遠ざけていないか?
こうした問いを通じて、私たちは自分自身を照らすことができるんです。
さらに次回はしめくくりとして、AI時代につまりどのように生きることが、私たちを自然な道へと導くのかを突き詰めていきましょう。
まとめ
- 囚われた自己――passion と passive に支配される私たち――情熱的に見える生き方が、実は何かに駆り立てられた受動的な状態であることを見てきました。無所得 無所悟の態度で、ただ今ここに存在すること――それが本当の能動性なんです。
- appreciate という態度――「お陰様」で生きる――何かを獲得することではなく、すでに自分が多くのものに支えられていることに気づく重要性を論じました。常に、すでに、現に――この言葉が、私たちの生き方を変えるんです。
- 道そのものを愉しむ――「目的-手段」思考からの脱却――キーネーシスとエネルゲイアという概念を通じて、「Happiness is the Way」という生き方を探究しました。幸福は到達すべき目的地ではなく、今歩いている道そのものなんです。
