- AI に仕事を奪われていくのではないか?人間にしかできない価値とは何か?そんな不安が広がる今、私たちはどのような人間になればいいのでしょうか?
- 実は、AI時代に禅を学ぶということは、この科学と宗教という異質な、しかしどちらも人間にとって欠かすことのできない2つの領域を、自分自身の上において、両立させるような厳しさをもってのぞまなければなりません。
- なぜなら、誰とも取り替えることのできない唯一無二のこの人生を生きているこの「自己」とは何であるのかという人生の最大の問題を本当のレベルから考え直さなければならないからです。
- 本書は、曹洞宗の僧侶である藤田一照さんが、NHKラジオ「宗教の時間」で行った講話を通じて、AI時代における人間の存在意義を問い直す一冊です。
- 本書を通じて、having(所有)の次元からbeing(存在)の次元へのパラダイムシフト、失われた身体性の回復、そして相互依存という存在のあり方まで、禅の智慧が私たちに何を教えてくれるのかを探究していきたいと思います。
藤田一照さんは、1954年愛媛県生まれの曹洞宗の僧侶です。
東京大学大学院で発達心理学を学んだ後、29歳で出家得度し、アメリカ・マサチューセッツ州に Pioneer Valley Zendo を設立して約20年にわたり住持を務めました。
帰国後は、オンラインでの坐禅指導や各地での坐禅会を通じて、現代人に禅の実践を伝え続けています。
藤田一照さんの特徴は、西洋哲学や現代思想との対話を通じて禅を語る姿勢にあります。
ハイデガー、メルロ=ポンティ、ティク・ナット・ハン師など、東西の思想を自由に往来しながら、禅の本質を現代の言葉で表現する試みを続けているのです。
本書は、NHKラジオ「宗教の時間」での連続講話をまとめたもので、AI時代という文脈の中で、禅が人間に何を問いかけているのかを平易な言葉で語りかけています。
「所有」から「存在」へ――AI時代が問い直す人間の本質
AI時代の到来が意味するものは、単なる技術革新ではありません。
人間という存在の足元が揺らぐ根本的な問いが突きつけられているんです。
藤田一照さんは、こう語ります。
人間が自分に対する自信を喪失するような出来事は、これまでにもいくつかありました。ダーウィンの進化論はその1つです。人間は神によって万物の霊長として創造されたのではなく、サルから進化した生き物にすぎない。キリスト教を信じる多くの人々にとって、この説は受け入れがたいものでした。現に今でも、進化論を認めない人たちがいます。また、フロイトが唱えた「無意識」説は、理性的な意識だけでは説明のつかない人間の欲動の存在を暴きだしました。あるいは、下部構造が上部構造を規定するというマルクスの経済学理論によって、私たち人間も他の動物と同様、食べるために生きる存在だということを突きつけられ
この引用が示すように、人間の自信を揺るがす出来事は歴史上何度もありました。
そして今、AI の登場が新たな衝撃を与えているんです。
でも、藤田一照さんが指摘する本質的な問題は、もっと深いところにあります。
それは、私たちが「having の次元」でやり過ごしてきたということです。
人間という存在の足元が揺らぐ状況が生まれています。これまではどうにか having の次元でやり過ごしてきたとしても、これからは being の次元で本来の自己に出会い直すことをしなければ、自分の器や存在意義を見失うことになるのではないか、私はそう危惧しています。
having の次元とは何でしょうか?
それは、何かを「持つ」こと、「所有する」ことで自分を定義する生き方です。
学歴、職歴、資格、財産、社会的地位――私たちは、自分が「何を持っているか」によって、自分の価値を測ってきました。
でも、AI がそれらの多くを代替できるようになったとき、私たちは何によって自分の存在意義を見出せばいいのでしょうか?
藤田一照さんは、ここで「being の次元」への転換を促します。
being の次元とは、「存在する」ということそのものに目を向ける生き方です。
何を持っているかではなく、今ここに存在していること自体の意味を問い直すんです。
これは、単なる精神論ではありません。
AI時代という避けられない現実が、私たちに突きつけている根本的な問いなんです。
人間は、もはや「何ができるか」「何を持っているか」だけでは自己を定義できない時代に入りました。
そうではなく、「どのように存在するか」という being の次元で、自分自身と向き合う必要があるんです。
ゴータマ・シッダールタも、having の次元から being の次元へパラダイム・シフトした1人だと藤田一照さんは言います。
シッダールタが being の次元に安坐し、ブッダ(being の次元に目覚めた人)となったり「樹下の瞑想」は、はじめて悟ったり悟りの境地を味わったのではなく、特別の苦を達成することを目指すテクニックとしての瞑想や苦行を放下した後に行った打坐だからです。しかし樹下の打坐は、目的達成を目指すテクニックによる作為の自己が、吹き出したり姿で現した姿で存在した姿で眩めて出たとき初めて味わうことができたのです。
この引用が示すように、ブッダの悟りは、何かを「達成する」ことではなく、being の次元で存在することでした。
目的達成型の having の生き方を手放したとき、初めて本来の自己に出会えたんです。
AI時代という転換点にいる私たちも、同じ問いに直面しています。
効率、生産性、成果――これらの having の価値観だけでは、もはや人間の存在意義を見出せません。
そうではなく、今ここに存在していること、呼吸していること、生きていること、そのものの意味を問い直す必要があるんです。
失われた身体性を取り戻す
being の次元で存在するとは、具体的にどういうことでしょうか?
藤田一照さんは、「身体性を取り戻す」ことの重要性を強調します。
私たちは普段、「自己」を思考や意識として捉えています。
「私は〜と考える」「私は〜と感じる」という形で、自己を定義しているんです。
でも、藤田一照さんはこう指摘します。
かっての私もそうでした。身体として生きている自己ではなく、考えている自分を自己だと思っていたのです。
この言葉は、私たちの多くに当てはまるのではないでしょうか。
頭の中で考えている自分、思考している自分を「自己」だと思い込んでいる。
でも、それは本当の自己でしょうか?
藤田一照さんは、禅の視点から、もっと根源的な自己を指し示します。
思考や意識ではなく、呼吸し、食べ、眠り、感じている、この身体全体が自己なんです。
思考は自己の一部ですが、自己は思考ではありません。禅では、調えられた本来の自己は、自らの身をもって無理会のところへ突究めます、身体的に会得し、体得する修行を通じて、明示に進んでいく。それが禅である、と足立老師は説かれました。
ここで重要なのは、「身をもって」という言葉です。
禅の修行は、頭で理解することではなく、身体で体得することなんです。
現代社会は、ますます抽象化され、情報化されています。
私たちは、画面を見て、文字を読み、データを処理することに多くの時間を費やしています。
その中で、身体性はどんどん失われているんです。
藤田一照さんは、この問題を「地図」と「現地」の比喩で説明します。
地図を読むことが頭脳知、現地を自分の足で歩くことが身体知を直視するのが禅の特徴だと私は考えています。
地図は便利です。
全体を俯瞰でき、最短ルートを見つけられます。
でも、地図だけでは、その土地の風、匂い、空気感、人々の表情は分かりません。
実際に現地を歩いてみて、初めて分かることがたくさんあるんです。
私たちの多くは、「地図」ばかり見て生きています。
情報、知識、データ――これらは全て「地図」です。
でも、「現地」を歩くこと、つまり身体で直接体験することを忘れているんです。
地図のように情報化され抽象化されたものが「現地」、「実物」ではないように、自己の実物も頭脳知で把握されるものではありません。実物は「いかなる規定も生み出しながら、すべての規定を超えている」と、内山老師は言います。
この言葉が示すように、自己という「実物」は、概念や情報では捉えきれません。
どんなに精緻な自己分析をしても、それは「地図」に過ぎないんです。
本当の自己は、その地図を超えた「現地」にあります。
そして、その現地を知るには、身体で味わうしかないんです。
藤田一照さんは、禅の修行について、こう語ります。
コトバを離れ、身をもって味わう 「静かに坐る=坐禅」と「生き生きと働く=作務」という静と動の2つの身体的修行法を中心に、現地を探究する、これが禅の修行です。
坐禅は、ただ静かに坐ることです。
何かを考えたり、達成したりするためではなく、ただ坐る。
作務は、日常の労働です。
掃除をする、料理をする、畑を耕す――これらの身体的な活動を通じて、自己を探究するんです。
どちらも、頭ではなく、身体全体で行う実践です。
現代人の私たちは、あまりにも頭ばかり使っています。
スマホを見て、パソコンで作業して、会議で議論して――全てが頭脳労働です。
その中で、自分の身体の声を聞くことを忘れているんです。
藤田一照さんが指摘する「身体性の回復」とは、単に運動をすることではありません。
そうではなく、自分がこの身体を持って、今ここに存在していることに気づくことなんです。
呼吸している。
心臓が鼓動している。
足が地面に触れている。
風を感じている。
こうした身体的な感覚を通じて、私たちは「自己を超えた」自己に出会えるんです。
AI時代だからこそ、この身体性の回復が重要になります。
AIは、情報処理においては人間を凌駕するかもしれません。
でも、AI には身体がありません。
呼吸することも、感じることも、この世界に身体を持って存在することもできないんです。
だからこそ、人間の存在意義は、この身体性にあるのではないでしょうか。
頭脳労働がAIに代替される時代だからこそ、私たちは身体を持って存在することの意味を、改めて問い直す必要があるんです。
「自己を知る」という禅の根本問題――interbeingという視点
禅の根本問題は、(上述でも繰り返し主題として登場しますが)「自己を知る」ことだと藤田一照さんは言います。
足立老師曰く、「禅は己事究明の道である」。「己事究明」とは、自己とは何かを「行」を通じて探究し、明らかに知ることです。坐禅はもちろん、日々の掃除や食事など日常的な生活行為のすべてを通じて、さらに言えば自分が生きているという具体的事実そのものから自己とは何かを明らめていく。それが禅である、と足立老師は説かれました。
「己事究明」――自分の事を究め明らかにすること。
これが禅の中心テーマなんです。
でも、なぜ自己を知ることがそれほど重要なのでしょうか?
藤田一照さんは、こう説明します。
「生きるとし生けるものは生けるものの定めとして、みな自己を知りたいと本当は思っている。にもかかわらず、真の自己を知る者はまれである。それを知っているのは、仏のみである。あるいは、自己を知る者のことを仏と呼ぶのだ。
生きているということは、自己を知ることへの根源的な欲求を持っているということです。
「私とは何者か?」
「なぜ私はここに存在しているのか?」
こうした問いは、誰もが心の奥底に持っているものではないでしょうか。
でも、多くの人は、この問いに真剣に向き合うことなく生きています。
なぜでしょうか?
「自己を顧みて自己を知りなさい。たとえ博学あり、とれほど知識があっても、自己自身を知らなければ、真にものを知っている人とは言えない。だから、自己自身を知らないで他のことを知るということは、あり得ないのだ」という教えです。
この言葉は、私たちにとって厳しい指摘です。
どんなに多くの知識を持っていても、どんなに優れた能力があっても、自己を知らなければ意味がないというんです。
でも、現代社会は、まさに逆の方向に進んでいます。
私たちは、外の世界のことばかり学んでいます。
ビジネススキル、専門知識、最新のトレンド――すべて外側の情報です。
自分自身のことを知るための時間を、どれだけ持っているでしょうか?
藤田一照さんは、自己を知ることの難しさを、こう表現します。
皮膚で区切られたちっぽけな自分だけに目を向けていても、豊かに「在る」ことはできません。私たちは「interbeing」、つまりすべてのものと相互的につながって存在しているというのが自己の実相だからです。
ここで登場するのが「interbeing」という概念です。
これは、ティク・ナット・ハン師が提唱した言葉で、「相互に存在している」という意味です。
私たちは、孤立した個体として存在しているのではありません。
空気を吸い、水を飲み、食べ物を食べ、他者と関わり合いながら生きています。
つまり、すべてのものとつながりながら、相互依存的に存在しているんです。
ティク・ナット・ハン師の立場からすれば、being の次元とは、厳密に言えば inter-being の次元ということになります。この世界を見ると、音楽とはまったく異なる景色が広がります。私たちはたいてい、世界のさまざまな事物を「分けて」理解しようとします。仏教ではそれを「分別」と言います。
まさに、この「interbeing」は仏教の“縁起”の概念そのものですね。
現代社会は、すべてを「分けて」考えます。
個人と社会。
自己と他者。
人間と自然。
でも、禅が教えるのは、そうした分別を超えた世界です。
すべては相互につながっており、切り離すことはできないんです。
本来の自己に目覚めていない「凡夫」は、having の次元での暮らしな生活(living)を送渦するあまり、being の次元で良い人生(life)に韻りからです。
この言葉が、すべてを集約しています。
having の次元での「生活(living)」に追われて、being の次元での「人生(life)」を見失っている。
それが、現代を生きる私たちの姿なのかもしれません。
でも、AI時代の到来は、私たちにチャンスを与えています。
having の次元での競争から降りて、being の次元で自己と向き合う機会を与えているんです。
自己を知る。
それは、皮膚で区切られた個体としての自分を知ることではありません。
すべてのものとつながっている、interbeing としての自己を知ることです。
そして、その探究こそが、禅の修行なんです。
自己というこのちの実相を探究する、これが禅の修行です。
坐禅をする。
作務をする。
日常のすべての行為を通じて、自己を探究する。
それは、頭で理解することではなく、身体で体得することです。
そして、その先に見えてくるのは、「自己」という固定的な実体ではなく、すべてとつながっている存在としての自分なんです。
AI時代だからこそ、この禅の智慧が重要になります。
AIは、情報を処理し、問題を解決することができます。
でも、「自己とは何か」という問いに、AIは答えられません。
それは、人間一人ひとりが、自分の身体を持って、自分の人生を生きる中で、探究していくしかないんです。
そして、その探究の中で、私たちは interbeing という真実に気づくかもしれません。
自分は孤立した個体ではなく、すべてとつながって存在している。
その気づきが、AI時代における人間の新しい生き方を示してくれるのではないでしょうか。
ただし、こうした interbeing の真実に気づくためには、まず私たちが何に囚われているのかを見極める必要があります。
藤田一照さんは、次の講話で、passion(情熱)と passive(受動的)という言葉に共通する語源に注目し、私たちが何に「囚われて」いるのかを探究していきます。
真の自由とは、囚われから解放されることではないでしょうか――
禅については、こちらの1冊「ただ今あるということを知るには!?『禅のすすめ 道元のことば』角田泰隆」を、仏教については、こちら「仏教は超ロジカル!?『ビジネスシーンを生き抜くための仏教思考』松波龍源,野村高文」もぜひご覧ください!


まとめ
- 「所有」から「存在」へ――AI時代が問い直す人間の本質――having の次元で自己を定義してきた私たちが、AI時代という転換点で、being の次元へのパラダイムシフトを迫られていることを論じました。何を持っているかではなく、どのように存在するかが問われているんです。
- 失われた身体性を取り戻す――思考としての自己ではなく、身体を持って存在する「自己を超えた」自己を探究することの重要性を見てきました。地図ではなく現地を歩くように、私たちは身体で自己を体得する必要があるんです。
- 「自己を知る」という禅の根本問題――interbeingという視点――禅の根本テーマである「己事究明」を通じて、皮膚で区切られた個体を超えた、すべてとつながっている interbeing としての自己を探究しました。AI時代だからこそ、この身体を持って存在することの意味を問い直す必要があるんです。
