- あなたは、禅を「坐禅」や「修行」だと思っていませんか?
- 実は、 禅とは坐禅や修行だけを指すのではなく、私たちの日常すべてが禅なんです。
- なぜなら、 仕事も、家事も、人との会話も、すべてが修行であり、すべてが仏を生きる行為だからです。
- 本書は、 仏教思想家ひろさちやが、「坐らぬ禅」という視点から、日常生活そのものが禅であることを説いた1冊です。
- 本書を通じて、 私たちは「いま、ここで」始まる人生の経営について、そして自分を超えた「他己」を生きることの意味について考えていきます。
ひろさちやは、1936年生まれの仏教思想家です。
東京大学で印度哲学を学び、その後は在家の仏教研究者として、難解な仏教思想を一般の人々にわかりやすく伝えることに力を注いできました。
彼の特徴は、仏教を単なる宗教としてではなく、現代を生きる私たちの実践的な知恵として語ることです。
堅苦しい教義の解説ではなく、日常の具体的な場面に即して仏教の本質を伝えるスタイルは、多くの読者から支持されています。
『坐らぬ禅』も、そんなひろさちやの真骨頂と言える作品で、禅を特別な修行としてではなく、私たちの生活そのものとして捉え直す画期的な視点を提示しています。
「阿呆 vs. 馬鹿」から考える、本当の自由
禅とは何か?
禅とは何か? その問いにわたしなりに答えるとすれば、――阿呆になれ!――――馬鹿になるな!――に尽きると思います。
本書でひろさちやは、「阿呆」と「馬鹿」を明確に区別しています。
阿呆のほうは、わが子が不器用になれば、「そうか」と学校に行きたくないと言えば、「そうか」と答えるような人です。じゃあ、きょうはお父さんも会社を休むから、二人でどこかへ行こうか、釣りでも行こうかね、となる。わたしからは、あまえは学校を休んで、好きなことをしていればいい」と言えるような人なんです。禅がすすめているのはこのような、――阿呆――ということです。
阿呆と馬鹿の違い――この対比が、禅の本質を示しているんです。
だからわたしは、毎日の生活のなかでしっかりと禅を行じていたいと考えています。
この一文が示しているのは、禅が特別な「修行の時間」ではないということです。
毎日の生活の中で、目の前の人や出来事にどう向き合うか。
それこそが禅なんです。
阿呆は、世間の常識や「こうあるべき」という固定観念に縛られません。
子どもが学校に行きたくないと言えば、「そうか」と受け止める。
なぜそれができるのか?
それは、すべてが禅であり、すべてが修行であることを知っているからです。
学校に行くことも、釣りに行くことも、どちらも等しく価値がある。
大切なのは、いま目の前にいる人と、どう向き合うかなんです。
一方で馬鹿は、世間体や常識に縛られ、「学校に行かなければならない」という固定観念から離れられません。
すべてが禅であり、禅でなければなりません。
この言葉が教えてくれるのは、特別な場所や時間だけが修行なのではないということです。
会社での仕事も、家事も、子育ても、すべてが禅なんです。
それに気づくかどうか。
その気づきが、阿呆と馬鹿を分けるんだと思います。
「いま、ここで」始まる人生経営
仏教には面白い特徴があります。
それは、ゴールがないということです。
仏教にはゴール(目的、終着点)はありません。あるのはものを見る見方だけです。
この視点は、私たちの人生観を根底から変えるものだと思うんです。
根本的には誰だって死ぬのですから、到達点があるとすれば、それはれわれは死ぬための生きていることになります。
多くの人は、人生に何かしらのゴールを設定しています。
「年収1000万円を達成する」「マイホームを買う」「出世する」。
でも、そのゴールに到達したら、次はどうするのか?
また新しいゴールを設定するのか?
仏教においては、常にスタート(出発)しかないのです。そのスタート・ライン(出発点)とは、即ち、「いま」という「自己」です。
これを読んで、私はアントレプレナーシップの本質を見た気がしました。
アントレプレナーシップというと、多くの人は「起業すること」だと思っています。
でも本当は、自分の人生を経営することなんです。
そして、その経営には終わりがありません。
常に「いま、ここで」がスタート地点なんです。
始めはいま、ここで 終わりはどうだっていいとして、では、始めはどうでしょうか? じつは禅においては、いつだって始めなんです。
サラリーマンだろうが、主婦だろうが、学生だろうが、関係ありません。
いま、この瞬間から、自分の人生を経営することはできます。
「もう少し金があれば……」と考えていけませんません。
暮らしを楽しめばいいのです。
禅の良質は、第一つ、所からに始めろです。それでも――第二つ、楽しみつつ歩みなさい――第三つ、楽しみつついっても、苦しみ、悩む時間のほうが多いですね。それの時々もその悶えどっしりと享け止まって暮らし、悩むときはちゃんとした悩み……
これはまさに、人生を経営するということです。
ゴールを目指して我慢するのではなく、いまこの瞬間を楽しむ。
苦しいときは苦しみを受け止め、楽しいときは楽しむ。
それが禅であり、それが人生の経営なんだと思います。
「他己」を生きる=仏を生きる
本書で最も印象的だったのが、「他己」という概念です。
道元が考えた「身心脱落」とはどういうものであったか……。
彼が言っていることを聞いてみましょう。
仏道を学ぶという重ことは、自己を学ぶことである。自己を学ぶというのは、自己を忘れることである。自己を忘れるというのは、悟りの世界に目覚めさせられることである。
ここで言う「自己を忘れる」とは、自分を消すことではありません。
自己を拡張することなんです。
彼は、「自己を学ぶこと」イコール「自己を忘れること」イコール「悟りの世界に目覚めさせること」イコール「自己と他己も脱落させること」などといっています。
「他己」とは何か?
それは「他なる自己。すなわち自己のうちにある他人」だとひろさちやは説明しています。
つまり、自分の中に他者を見出し、他者の中に自分を見出すということです。
ここで「他己」、なんていうのは「自己」の内ではないんです。わたしたちの外にある存在ではないんです。わたしは、わたしにある存在でないですね。わたしがものの場所にあるということですれ、そういうことがしばしばあります。
これは単なる思想ではなく、実践なんだと思います。
相手の立場に立って考える。
相手の苦しみを自分のものとして感じる。
相手の喜びを自分の喜びとする。
それが「他己」を生きるということです。
そしてそれは、仏を生きるということでもあります。
だから「他己」というのは「自己」の内なのです。「自己」も「他己」も対立意識を持ったり敵対意識を持ったりする他人は、わたしたちの外にある存在ではなく、わたしがものの場所にある存在ではないですね。
すべてが禅であるということに気づくと、そのままそれが修行になります。
そのように志して行動をともに生きることが、仏を生きることになります。
これは、アントレプレナーシップにもつながると私は思うんです。
自分だけの成功を追い求めるのではなく、周りの人々の成功も自分の成功として捉える。
顧客の課題を自分の課題として感じ、解決する。
それが本当の意味での「自分の人生を経営する」ということではないでしょうか。
他己を生きる人は、わたしたちの外にある存在ではなく、わたしがものの場所にあるんです。
阿呆と馬鹿は、まさにこの「他己」の有無で分かれるのかもしれません。
阿呆は、子どもの気持ちを自分のものとして感じることができます。
だから「そうか」と言えるんです。
一方馬鹿は、自己と他者を分離して考えます。
だから「学校に行くべき」という自分の価値観を押し付けてしまうんです。
前のマインドについては、こちらの1冊「【禅は、生きる知恵!?】人生を整える 禅的考え方|枡野俊明」もぜひご覧ください。

まとめ
- 「阿呆 vs. 馬鹿」から考える、本当の自由――すべてが禅であることに気づけば、世間の常識に縛られず、目の前の人と真摯に向き合えます。それが阿呆の生き方であり、真の自由です。
- 「いま、ここで」始まる人生経営――人生にゴールはなく、常にスタートの連続です。いまこの瞬間から、自分の人生を経営することができます。それが禅であり、アントレプレナーシップの本質です。
- 「他己」を生きる=仏を生きる――自己の中に他者を見出し、他者の中に自分を見出すこと。それが身心脱落であり、仏を生きるということです。そしてそれは、本当の意味での人生の経営につながります。
