「個人的には」の正体――関係性の中に“自分を置く”ということ

「個人的には」の正体――関係性の中に“自分を置く”ということの手書きアイキャッチ

この記事を書いた人:増田 浩一(増田みはらし書店 店主/中小企業診断士)プロフィール


増田みはらし書店・店主の増田浩一です。

最近、「個人的には」という言葉をよく耳にするようになりました。

会議の場でも、1on1でも、ちょっとした雑談でも。
意見を述べる前の前置きとして、ごく自然に使われているんです。

以前から存在していた言葉ではあります。 ただ、ここまで広く、頻繁に使われるようになったのは、うーん、どうでしょう。ここ5〜6年ほどの変化ではないでしょうか。少なくともコロナ前までは、こんな言い回したびたび登場することなんてなかったような・・・。

単なる言葉の流行と捉えることもできます。
けれど、少し立ち止まって眺めてみると、どうもそれだけではない気がしてくるんです。

「組織の中の自分」を意識する瞬間

この言葉が使われる場面を、もう少し具体的に観察してみましょう。

たとえば、チームでのミーティングの場です。

複数のメンバーが集まり、あるテーマについて意見を出し合っている。

そんなとき、たびたび「個人的には」という前置きが使われる場面があります。

ただし、その使われ方には特徴があります。

たとえば、こんな文脈です。

(唐突に)「でもじつは、個人的には、**みたいなことを考えていたんです」
「全体としては意見が分かれているけれど、個人的にはこの方向を推したい」
「全体に賛成なのですが、個人的には別の見方もあると思っています」

こうした場面を見ていると、この言葉は単なる感想表明ではなく、組織の中にある複数の意見と、自分の立場とをすり合わせるための装置として機能しているように見えてきます。

そこでは、話し手は「個人」としてだけでなく、同時に「組織の一員としての自分」を強く意識しています。なんとなくひっかかるのが、この「個人的には」といいつつも、でも強く意識されているのが、「組織」や集団であるということなんだと思います。

この言葉が使われる瞬間には、 これはあくまで自分の視点であって、組織の総意ではない。
それでも、組織の文脈から切り離された意見でもない。
そんな二重の意識が重なっているように感じられます。

つまり、「個人的には」という枕詞(まくらことば)──そう呼んでもいいかもしれません──は、個人と組織を切り離すための言葉ではないんです。 むしろ、そのあいだを行き来するための言葉として使われている。

複数の人が集まる場であればあるほど、人は「組織の中の自分」を意識します。
その無意識の調整作業が、「個人的には」という言葉として表に現れているのかもしれません。

ここで興味深いのは、この言葉が「どの人格で語っているか」のサインになっているということかも知れません。

たとえば、家族との食卓を想像してください。
そこで、「個人的には、このカレーは甘口がいいと思う」とは言いませんよね。
「私は甘口がいい」と、ただそう言います。

けれど、会議の場では「個人的には」という前置きが起動する。
それは、そこで語る自分が、家族の前の自分とは異なる人格──組織の一員としての自分──であることを、無意識に示しているのかもしれません。

この言葉は、ある意味で「いま、私は組織人格で話しています」という、小さな宣言とも捉えていい。

この言葉が使われた後に起きること

もうひとつ、観察を続けていて気づくことがあります。

それは、この枕詞が使われた後の展開です。

「個人的には」と前置きして差し出された感覚が、相手に受け止められ、問い返され、少しずつ言葉を変えながら共有されていく。 そうしたやり取りの中で、個人の感性は、関係性の中に編み込まれていきます。

そのとき、枕詞は役目を終えます。
それはもはや個人の感想ではなく、その場にいる人たちのあいだで意味を持ち始めた言葉になるからです。

ただ、いつもそうなるわけではありません。

前置きされたまま、それ以上触れられず、深められず、回収されないまま置かれてしまうこともあります。

安全ではあるけれど、関係は動かない。 衝突は起きないけれど、理解も更新されない。

いきなり生身の意見を投げつけるのではなく、場の温度を測り、関係性を確認しながら、それでも自分の感覚を消さないための、小さな助走のようなもの。

その意味では、この言葉が使われること自体は、否定されるものではないと思います。 むしろ、自分の感性や違和感を持ち続けようとする姿勢の表れとも言えます。

けれど、その助走が本当に次の一歩につながっているのか、それともそこで止まってしまっているのか。
その違いは、個人の健やかさにも、組織のあり方にも、静かに影響を与え続けているように思います。

感性や違和感は、本来ひとりで抱え続けるものではありません。 誰かとのやり取りの中で確かめられ、修正され、時に否定されながら、「自分はこういう人間なのだ」と輪郭を持っていく。

そのプロセスそのものが、生身の自分を見失わずに生きていくための、大切な緩衝語なのだと思います。

「個人的には」という言葉は、どこから来たのか

ここで少し、この言葉の背景を追ってみたいと思います。 ChatGPTと一緒に、Web上の用例や言語環境の変化を観察してみました。

*以下は、言語史的な断定ではなく、Web/SNS上の用例や言語環境の変化をもとにした観察的整理です。

「個人的には」という言葉自体は、決して新しい表現ではありません。 ただし、この言葉がここまで頻繁に使われるようになった理由を考えるとき、WebやSNSの影響を無視することはできません。

ChatGPTとともに、この言葉の使われ方を追ってみると、「個人的には」は、新しく生まれた言葉というよりも、これまで可視化されていなかった口語表現が、表に現れるようになった結果と捉えるほうが自然に思えます。

  • 2000年代以降、ブログや掲示板、SNSといった場で、個人の発言が不特定多数に向けて公開されるようになりました。 その過程で、「これはあくまで自分の視点である」という前置きを持つ言葉が、衝突や誤解を避けるための作法として磨かれていきます。
     
  • 2010年代に入り、発言の切り取りや炎上が一般化すると、沈黙するか、慎重に語るか、という二択のあいだに、「個人的には」という第三の選択肢が定着していきました。
     
  • さらに2020年代になると、SNS的な言語感覚が、SlackやTeams、1on1、会議といった組織内コミュニケーションの場にも持ち込まれるようになります。

その結果、「個人的には」は、単なる感想表明ではなく、組織の中にある複数の意見と、自分の立場をすり合わせるための緩衝語として使われる場面が増えていったように見えます。

この言葉が増えた背景には、人が臆病になったというよりも、発言が公共化しやすい環境の中で、関係性を壊さずに意志を差し出そうとする工夫があるのかもしれません。

確認作業を引き受け始めた時代

ちなみに、私自身は、この枕詞をほとんど使いません。
だからこそ、これほど頻繁に使われるようになったことに、強い違和感を覚えてきました。

けれど、ここまで観察を重ねてきて、その違和感の正体も少し見えてきた気がしています。

この言葉が使われる場面を思い浮かべてみると、強い主張がぶつかり合う議論というよりも、むしろ慎重さが求められる場面が多いように感じます。 相手との関係性や場の空気を確かめながら、そっと差し出されるように使われている。

そこには、意見を持っていないというよりも、意見を持ったまま、どう置くかを探っている姿があるのかもしれません。

では、なぜこれほどまでに慎重になる必要があるのでしょうか。

ひとつには、私たちが立っている場所が変わってきたことがあるように思います。

国や組織といった大きな物語が、以前ほど強い指針を示しにくくなった時代。
一人ひとりが、自分の感性や判断を手がかりに、対話を重ねていく必要が増えています。

けれど同時に、生身の感覚をそのまま差し出すことは、時に衝突を生みます。
言葉が切り取られ、誤解され、関係が傷つくリスクも高まっている。

こうした状況を前にして、「個人的には」という枕詞は、自分の感性を守りながら、同時に関係性を壊さないための、ひとつのクッションのようなものとして機能しているのではないでしょうか。

個人主義の表明というよりも、むしろその逆なんです。
関係性の中で、どう自分を置くかを慎重に測るための言葉。

それは、この言葉を使う人たちが臆病だからでも、弱いからでもなく、むしろ関係性を大切にしようとしているからこそ、生まれている言葉なのだと思います。

そして、たまたま、関係性の中に最初から自分を置いて話すことを選んできただけなのだ、ということです。

どちらが正しい、という話ではありません。

大切なのは、この言葉を使いながらも、そこに込めた感性や違和感を、相手と共有し続けようとする姿勢なのだと思います。

そしてもうひとつ、この言葉を受け取る側にも、できることがあるように思います。

「個人的には」という前置きを耳にしたとき、それは相手が組織人格で慎重に語っているサインだと受け止めることができます。

そこで語られた言葉を、どう受け止め、どう問い返し、どう関係性の中に編み込んでいくのか。
その選択は、聞き手にも委ねられています。

急かさず、見守りながら、それでも受け止める。
その姿勢が、相手の感性を関係性の中に引き出していく、大切な一歩になるのかもしれません。

恐る恐るでいい。 未完成なままでいい。 それでも、関係の中に差し出してみる。

その繰り返しの中で、人は少しずつ、自分を確認し直していきます。 そして、その確認作業ができている状態こそが、個人が健全に、そして幸せに暮らし続けられる土台なのではないでしょうか。

この言葉が増えた時代は、そうした確認作業を、私たち一人ひとりが引き受け始めた時代なのかもしれないと、個人的には思ったりもするわけです。

それでは、また来週お会いしましょう。


この記事を書いた人:増田 浩一(増田みはらし書店 店主/中小企業診断士)プロフィール
ビジョン思考・組織・ブランド・生き方について、良書とともに探究しています。

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