- いま改めて注目されているのが「アウフヘーベン」という言葉。
- 実は、ヘーゲルはもともと意図しようとしていたことが異なったかも。
- なぜなら、ヘーゲル自身は、「折衷案」ニュアンスをどこにも残していないからです。
- 本書は、「アウフヘーベン」のほんとうの意味を説く1冊です。
- 本書を通じて、ヘーゲルが意図していたものごとを見つめる視点を学びます。
ヘーゲルは何を語ったか?
ヘーゲルを知るうえで、本書においてキーワードとしているのが、「流動化」です。
その「取っかかり」として、「流動化する、ダイナミックな体系を作ろうとした哲学者」というヘーゲル像を提案したい。
世の中や社会は流転しています。だから、その時点でのベストはあってもそれは常に固定ではない。むしろそうして波のように移ろいゆく状況にあわせて自分を変えていくことができるかどうか?、その重要性を本書を拝読する中で感じます。
ヘーゲルの「弁証法」でよく語られるのは、つぼみと花、そして果実の例ではないでしょうか。
植物は、つぼみから花へ、そして果実へと成長していきます。つぼみは花に変わるとき、見た目はなくなりますが、その大切な部分は花の中で生き続けています。花も同じように果実になるとき、花びらは散ってしまいますが、その本質は果実の中に残り、新しい価値を生み出します。
この成長は終わりのない過程で、次のステージでまた新しいテーゼ(正)となり、新たな課題(アンチテーゼ;反)に直面し、それを乗り越えて新しい境地(ジンテーゼ;合)に至る・・・というサイクルが続いていく・・・。
そういう趣旨のものです。
このヘーゲルの哲学=弁証法=正反合という図式は、西洋の哲学史の紹介において一般的なものです。
しかし、なんとこの図式というのは、ヘーゲルが提示したものではないのです。
彼の著作の中に「正反合」を探しても出てきません。
そもそも折衷案を作るということは、私たちが誰もが日常的に行っていることです。「折衷」という言葉すら、ヘーゲルよりも長い歴史を持っているのがその証拠です。
わざわざヘーゲルはそういう一般論を説いたのではない、と思えば素直に受け入れることができるでしょう。
ヘーゲル哲学は、何にでも適用できる万能のフレームワークを提供することを目指していない。
そうした先入観をあてはめてヘーゲルを見つめてしまうと、齟齬が生まれてしまうのです。
流動するから存在できる?
花がつぼみに対立し、それを否定するというのは、比喩表現として受け入れられるでしょう。
しかし、つぼみと花を合わせると果実になる、というのは比喩としても理解が難しい。
花はつぼみと合わさることなく、それだけで果実へと成長するはずです。「つぼみ」「花」「果実」の比喩を、そのまま正反合に当てはめて見ると、実際のところは苦しいのです。
では、ヘーゲルは本当は何を説こうとしたのでしょうか?
実は、ヘーゲルもこの「つぼみ」「花」果実」を比喩に使っています。それは、つぼみがなくなって花が割き、花が枯れて実がなるということを漫然とみていると、この3つの段階というのは、対立しているように見えます。
しかし、本当のところは、この3つの要素すべてを備えているからこそ、植物は生命を繋いでいくことができるということに気づきます。
正反合という対立から新しいものが折衷案的に生まれるということではなく、循環というダイナミックなシステムを見出しているのがヘーゲルの着想なのです。
本書にとって重要なのは、「植物の流動的な本性」が、このことを成り立たさせているのだということだ。
この点において、本書は大きな示唆を提供してくれるのです。
絶え間ない改廃を?
それは、つまりものごとを「正しいもの」「偽なるもの」として先入観を持って対立構造的に分けてしまうことで、ものごとの本性あるいは、本質を見誤ることがあるのかもしれない、ということです。
真なるものと偽なるものは対立しているという考えはあまりに堅固であるため、そうした考えはまた、目の前の哲学体系に対して、賛成するか、あるいはそれを矛盾していると見るか、いずれかを期待するのが常である。
ヘーゲルが生まれた時代は、実際に哲学のさまざまな論派が活躍し、生まれ続けていました。
ヘーゲル(1770-1831)が活躍した時代は、ドイツにおける古典的な観念論哲学の黄金期でした。当時の主な思想的な流れを俯瞰してみます。
- 啓蒙思想の影響
- カント(1724-1804)の批判哲学が大きな影響を与えていました
- 理性による認識の限界を示し、「物自体」は認識できないとする考えが議論を呼んでいました
- ドイツ観念論の展開
- フィヒテ(1762-1814)は、主観的観念論を展開し、自我の絶対性を主張
- シェリング(1775-1854)は、自然哲学から同一哲学へと発展させ、主観と客観の同一性を説きました
- ヘーゲルは、この両者の思想を批判的に継承しながら、独自の体系を築いていきました
- ロマン主義との関係
- シュライアマッハー(1768-1834)らのロマン主義運動が盛んでした
- 感情や直観を重視する動きが、理性重視の啓蒙思想への反動として現れていました
- 時代背景として重要な出来事
- フランス革命(1789)の影響が強く、社会変革への期待が高まっていました
- プロイセンの改革期と重なり、近代国家形成の過程でもありました
- 産業革命の進展により、社会構造が大きく変化していた時期でもあります
国家という共同体の黎明にあたって、さまざまな思想が誕生する中で、それらの対立を目の当たりにして、ものごとの本質というのはそういう論争にあるのか?に対して、ヘーゲルも疑問を感じていたのではないかと推測したくなります。
つまり、ヘーゲルの弁証法的な思考方法は、当時の様々な対立する思想や社会の変化を統合的に理解しようとする試みとしても見ることができます。
ヘーゲルは哲学の論争、つまり、「互いの批判の上に成り立っている状況」に異を唱えようとしました。
ヘーゲルはここで、このような態度を批判している。ヘーゲルによれば、そうした態度は、「真なるものと偽なるものは対立している」という「あまりに堅固」な考えから生じている。このように考えられている限り、複数の哲学体系の間には、「矛盾が見出されるばかりとなる」。ヘーゲルは、そうではなくて、そうした相違を「真理の進行的な発展」と見なすべきだと考えている。
「つぼみ」「花」「果実」の3つの段階が順番に必然的に、代わる代わる出てくる中で、植物という全体が残っていくという事実に触れることは、「流動的な本質」を備えているという説明を可能にします。
同じように人間の思考の積み重ねに対しても、流動化する可能性を見て取ることができます。
過去に積み重ねられてきた哲学的思考の考えを鵜呑みにするのではなく、得られた知識を適切に加工し、自分のものとすることによって、本当に考えるということ、あるいは、真理に近づいていくことができるのではないか?という視点を持つことができます。
すでに確立されている(ようにみえる)考え方に対しても、本当にそうなのか?という意義を唱えて、さらに自分の感性をもって検証し、自分なりにつねに確立していくという実践が大切なのだと思います。
「凝り固まった規定された思考」とは、すでに確立されている哲学体系のことだと考えられよう。既成の哲学体系は普遍的な知識の宝庫ではあるが、凝り固まって現実から遊離してしまった側面を持っている。哲学を学ぶ者は、その問題点を「止揚」することによって、普遍的なものを再び現実に取り戻さなければならない。それはまた、普遍的なものに生気を与えることでもある。そこにこそ、近代の哲学における苦労がある。
自分で得られた真理、あるいは、外部から与えられた当たり前という考え方を、絶えず手放すことで、思考が流動化していきます。「凝り固まった思考」と「感性的にいまここにあること」の両方が、「流動性」をもたらす必要性であると、ヘーゲルは説きました。
私たちがここから学べることは、「間違うこともある」と認めながら、ただひたすらに行動をしながら「知覚」を持って、思考を積み重ねて、改廃をし続けていくということが、ものごとの本質に向かい続けるための行動であるということなのかもしれません。
例えば、自然科学では、仮説に基づいて実験が綿密にデザインされる。そうした仮説やデザインがあって初めて、実験で得られた結果が持つ意義が理解される。また、日常的な経験の中でも、問題意識があってこそ、日々の経験から多くを学ぶことができる。このように、知覚されたことがらは、それが何であるのかを判断する思考のはたらきを通じて初めて、私たちにとって意味を持つようになる。この意味で、知覚は思考を必要とする。
あらかじめ持っていた思考と、新たに得られる知覚は、互いを必要としあっているのです。
哲学的な思考はこれを自覚しなければならない・・・。
そのことをヘーゲルは、「思考が流動的になる」と表現しているのです。
これらが、止揚(アウフヘーベン)の本質であり、それはまるで、ものごとの接し方を説くガイドラインでもあるのです。
アウフヘーベンについては、こちらの1冊「【アウフヘーベンしようぜ?】直線は最短か?~当たり前を疑い創造的に答えを見つける実践弁証法入門~|阪原淳」もおすすめです。ぜひご覧ください。

まとめ
- ヘーゲルは何を語ったか?――実は、正反合の図式、ヘーゲルは語っていません。
- 流動するから存在できる?――絶えず動いているからこそ、生命や考えは存在できるはずです。
- 絶え間ない改廃を?――仮説と知覚を持って、疑い、考えを前に進めていきましょう。