- どうしたらよりよい人生を歩んでいくことができるでしょうか。
- 実は、自分で感じて、自分で考えることほど、重要なことはないかもしれません。
- なぜなら、私たちは社会からある意味洗脳され続け、個性を失っているからです。
- 本書は、社会が個人にどのように作用しているのかを説く1冊です。
- 本書を通じて、多数派の信奉する価値観との距離感を掴むことができるでしょう。

社会は知らず知らずに押し付ける?
本書の著者・泉谷閑示さんは、いいます。
人間社会の至るところで多数派の信奉する価値観によって、私たちは知らず知らずのうちに一種の洗脳を施され、「自分で感じ、自分で考える」ということから遠ざけられてしまっています。
自分自身、「あるがまま」で生きることが難しく感じる、そう生きようとしても、それをコントロールするほうがいいのではないのか?と感じてしまうのは、上述のような価値観が優勢だからです。
人と同じこと、あるいは、「普通」でいることが、一定程度、歓迎されている世の中にあって、私たちは、そうした生き方を助長させている社会とどう向き合うのか、今後、インクルーシブな世界観が歓迎されていく中で、多様性をどのように解釈していけばいいのか、本書は説きます。
人は、そもそも「葛藤」している生き物です。心のなかにある気持ちと、現実とが異なることを常に認識しながら、そうしたギャップをどうしていくのかを絶えず考えていく必要があります。
これは当然のことです。気持ちと外の世界がつながっていない限り、ギャップは絶えず発生します。
しかし、今の人間社会は、そのギャップをはなからなかったことにしようとします。
社会の基準や都合、そして、生き方のスタンダードを押し付けてはいないように見せて、実はぐっと押し付けるようにして、個々人の心をなかったものとして取り扱いません。
例えば、子どもを定量的に評価する受験や偏差値という仕組みもそうかも知れません。子どもの個性はそこには表出しづらく、番号と点数そして成績というベクトルでしか、一人ひとりを判断することができません。
たしかに、なにかに序列を付けて、スクリーニングをするのには、そうした方法が効率的であるし、合理的なのだろうと思います。
しかし、人は当然、特定の時期に、特定の方法で行われた形式ですべてが語られるほど、単純なものではなく、極めて変化を伴った複雑な生き物であるはずなのです。
泉谷閑示さんは、カウンセラーとして活躍される中で、悩みを受け止めることができることほど、大切であるといいます。
実際は、あるべき悩みを悩むようになる。それが、「治る」ということなのです。
精神的な不調の場合、「外と内の世界のギャップに対して悩みや課題を持つことができなくなる」らしいのです。
むしろ、あるがままの状態を迎い入れて、不安や悩みをいしきすることができるかどうか、それが心にとって健康な状態であるとのことです。
これは、とても印象的なお話です。
「安心して悩める」という状態というのが、心の健康には大事ということ。
つまり、本当に人が救われるということは、その人の中に、潜在している力や眠っている智慧が、目覚めて、動き出すことができるということが、人にとっては欠かせないことなのです。
身体はすでに知っている?
私たちの身体・心は、とても良くできています。
それらが自由である時、私たちは健康を自然に取り戻していきます。
例えば、食欲を考えてみます。
カロリー計算がどうだとか、栄養素がどうだとか考えなくても、私たちが、生きていくために必要なことがあれば、自分自身で自然にその食物を求めます。
「**が食べたい」という形で、身体が教えてくれるのです。
肉ばかり食べた翌日は、ちゃんと野菜が食べたくなったり、からだが冷えているときは、自然と温かな飲み物を求めるようにできています。
漢方薬でも、実は自分の身体にフィットしているものだと、「甘く」感じるそうです。“良薬口に苦し”ではないのですね。
実は、身体というのはよくできているのです。
人間は快い方向に動いていれば健康になるし、健康になればどういうことをやっても快くなる。そして、その快いという方向に逆らわないようにしていれば、自然に丈夫になっていく。
これは、野口整体の創始者である野口晴哉さんの言葉です。
自分の快、不快というシグナルをしっかりと受け止められているのか?ということかもしれません。
こうしたシグナルを、頭で押さえつけることは実はできます。
でも、長続きはしません。
それは、自然の摂理に反しているからです。

あるがままを忘れずに!?
身体は、実は「自然」とつながっています。
自然というのは、地球の大自然もふくまれる宇宙全体の調和として捉えられるものです。
この「自然」は、大自然であり宇宙であると言ってもよいでしょうし、宗教的に言えば「絶対者」とか「超越者」、あるいは「神」とか「仏性」ということになるでしょう。
ものごとが自然であるということは、それが続きやすい状態であるということです。
しかし、人間は知性があるため、こうした自然のつながりによる身体、そして、その身体のシグナルをキャッチする心を一時的にコントロールするすべを身に着けています。
頭で考えるということ、腑に落ちるということ、そうした言葉が表す通り、私たちの祖先はそれをよく知っていました。
現代人の生活では、自然な方法に従えないことの方が多いかもしれません。しかしそんな場合でも、自分に不自然さを強いていることが自覚できているかどうか、それがあるだけでも「心」=「身体」にとっては、大きな違いなのです。
心の目、そして心で感じることに対して敏感になることができたらよいでしょう。
問題にアプローチする時、表面に現れているような明確な問題を力づくで解消しようとコントロールしようとしても、根本原因が取り払われないように、心と身体の問題もそうです。
根源に向けて必要なことを行っていくやり方を極めるアプローチを積極的に採用したいものです。
もしかすると、そういうアプローチは、表面的ななにかに作用するまで時間がかかるのかもしれません。焦る気持ちもあるかもしれません。
でも、確かに、重要なことは内的な何かにふれるようなことですし、それが結果的にはいつか、表面にあらわれてくるかもしれない、そんな気持ちで、ものごとにあたるとよりよいのかもしれないと思います。
自分も、他人も、まずあるがままの存在があるということを、認める。それは、会社の人間関係、家族関係、親子関係、どんなときでも大切なことです。
押し付けではなく、自然の力の解放というコンセプトで、進んでみましょう。
あるがままを大切にするためには、こちらの1冊「【愛だろ?愛。】自分のための人生を生きているか~「勝ち負け」で考えない心理学|加藤諦三」もとてもよい刺激を提供してくれます。ぜひご覧ください。

まとめ
- 社会は知らず知らずに押し付ける?――自分を普通化させていく圧力を私たちは創り出しています。
- 身体はすでに知っている?――好調・不調は、自然とのつながりの結果です。
- あるがままを忘れずに!?――身体と心の機微を大切にしてあげましょう。
