- 坐禅をすれば心が落ち着く、集中力が高まる、悟りに近づける――そう考えて坐禅を始める人は多いんじゃないでしょうか。
- 実は、そういう「何かを得よう」とする心こそが、坐禅を根本から誤解させているんです。
- なぜなら、坐禅は何かを達成するための手段ではなく、ただ坐ることそれ自体が目的であり、完成だからです。(もっというと、この目的という言葉さえ、少し違うのかも・・・)
- 本書は、曹洞宗の僧侶である藤田一照さんが、道元禅師の教えに基づいた「只管打坐」の本質を、現代人にもわかる言葉で解き明かした一冊です。
- 本書を通じて、私たちはすでに仏であるという事実に気づき、「ただ在る」ことの深い意味を学ぶことができるんです。
藤田一照さんは、1954年生まれの曹洞宗の僧侶です。東京大学大学院で発達心理学を学んだ後、29歳で出家されました。愛知県の安泰寺で修行し、アメリカのマサチューセッツ州にあるパイオニアバレー禅堂で17年間住職を務めました。
海外での布教経験を通じて、西洋的な身体観と東洋的な身体観の違いに深く気づかれたそうです。特にアレクサンダー・テクニークとの出会いが、坐禅の身体性を理解する上で大きな転機となりました。
帰国後は、日本各地で坐禅指導を行いながら、道元禅師の教えを現代的な視点から問い直す活動を続けておられます。本書は、そうした長年の実践と思索の結晶と言える一冊です。
なぜ私たちは坐禅を誤解するのか――「得ようとする心」の罠
私たちが坐禅に惹かれるのは、たいてい何か問題を抱えているからです。
心が落ち着かない、ストレスが溜まっている、人生の意味を見失っている――そんな状態から抜け出したくて、坐禅という方法に期待するんです。
でもここに大きな落とし穴があります。
われわれがくつろぐことができないのは、現在の自分に落ち着いていることができないからです。今の自分に満足できず、じっと向き合っていられなくて、ゆっくり親しんでいられなくて、いてもたってもいられなくなって、どうしても外に向かって何かもっとマシなものはないかとそれを求め始めてしまうのです。
この指摘は痛烈です。
私たちは今の自分を信じていないんです。だから常に「もっと良い自分」を求めて、外側に答えを探し続けてしまう。坐禅さえも、そうした自己不信から逃れるための道具にしてしまうんです。
藤田さんは、坐禅が「自己の正体」であると言います。これは道元禅師の『正法眼蔵随聞記』からの引用ですが、この言葉の意味は深いです。
坐禅は自分を変えるための手段ではなく、自分の本来の姿そのものなんです。
つまり、坐禅をすることで何かに「なる」のではなく、坐禅をすることで本来の自分に「戻る」ということです。
ところが、私たちはどうしても坐禅を自分の願望実現の道具にしてしまいます。
せせこましくこざかしい自分のあざとい願望、希望、欲求を実現するための個人的営みとして坐禅をすることになります。それをいくら一生懸命にやっても、あいかわらず流転輪廻のなかの泡立ち、つまり「もがき」や「あがき」でしかありません。
「せせこましくこざかしい」という表現が、私たちの小賢しい計算を見事に言い当てています。
坐禅をすれば心が静まる、集中力が上がる、悟りに近づける――そうやって坐禅に見返りを求める限り、それは「打算的な凡夫根性」でしかないんです。
道元禅師の教えは「無所得無所悟」です。
得るところなく、悟るところなし。
これは一見すると、何とも物足りない話に聞こえます。何の手応えもない、何の成果もない――それでは坐禅をする意味がないじゃないかと思ってしまいます。
でも藤田さんはこう言います。
無所得無所悟の坐禅は実に物足りない、張り合いのない、手ごたえのないものです。変な言い方ですが、凡夫が物足りないままに物足りている、安心できないままに安心している姿が坐禅なんです。
「物足りないままに物足りている」――この逆説的な表現が、坐禅の本質を突いています。
私たちは常に何かが足りないと感じて、それを埋めようとします。でも坐禅では、その「足りない」という感覚をそのまま受け入れるんです。
足りないことを問題視せず、足りないままで完全であると認める。これが「無所得無所悟」の意味です。
さらに藤田さんは、坐禅における「コントロールを手放す」ことの重要性を強調します。
私たちは何かを達成しようとするとき、必ず目的を設定し、計画を立て、テクニックを駆使してコントロールしようとします。これは現代社会では当たり前の態度です。
でも坐禅では、このコントロールそのものが問題なんです。
目的を設定したのはそもそも誰なのか、テクニックを駆使してコントロールしようとしている当の主体は何なのかという問題があります。実はそれはエゴ、仏教でいう吾我だったということです。
これは重要な指摘です。
エゴが先にあって、それがコントロールしているのではなく、コントロールしようとする行為そのものがエゴを生み出しているんです。
だから、コントロールを手放すことは、エゴを消すことではなく、エゴが生まれる構造そのものから自由になることを意味します。
坐禅は、何かを達成するための方法ではありません。むしろ、達成しようとする心を手放すための実践なんです。
そして、その手放された状態こそが、本来の自己の姿だということです。
「在る」と「為す」の違い――身体が教えてくれること
坐禅の本質は、頭で理解するものではなく、身体で体験するものです。
藤田さんは、坐禅の姿勢について非常に具体的に語っていますが、その中で最も重要なのが「為す(doing)」と「在る(being)」の違いです。
ある日、藤田さんは赤ちゃんの写真を見て、大きな発見をしたそうです。
いい姿勢で坐ろうというような一切の造作やはかりごとなしに、ただ自分の周りの世界をもっとよく見たいというその気持ちだけでそういう姿勢が自然に生まれているということが伝わってくるんですね。腰を入れようとか背中を伸ばそうとか全く思っていないんですが、ちゃんとそれが実現しているんです。
赤ちゃんは「良い姿勢で坐ろう」とは思っていません。
ただ周りの世界をもっとよく見たいという気持ちがあるだけです。でも、その結果として完璧な姿勢が自然に生まれているんです。
これが「在る」ということです。
一方、私たち大人は「良い姿勢で坐ろう」と意識的に努力します。背筋を伸ばし、腰を入れ、肩の力を抜こうとします。でも、これは「為す」ことであって、「在る」ことではないんです。
藤田さん自身、長年の坐禅修行の中で、この違いに愕然としたと言います。
道元禅師の『正法眼蔵随聞記』には「坐はすなわち不為(人間的作為が全くないこと)なり」とあるし、瑩山禅師の『坐禅用心記』には「万事を休息し、諸縁を放下し、一切為さず。六根作すことなし」とあるのに、自分の坐禅は、ここはこうして、あそこはこうして……とまさに作為だらけだし、休息とか放下どころか、あれこれ作すことばかりで忙しいことこの上ない。
これは多くの坐禅修行者が陥る罠です。
正しい姿勢を作ろうとして、からだの各部分を意識的にコントロールしようとする。でも、それは「作為」であって、「不為」ではないんです。
藤田さんは、アレクサンダー・テクニークとの出会いを通じて、この違いをより明確に理解するようになりました。
「背筋を伸ばす」場合には「外筋」と呼ばれる「〈為す doing〉ための筋肉(随意筋)」が意識的に使われるのに対し、「背筋が伸びる」ときには「内筋」と呼ばれる「〈在る being〉ための筋肉(不随意筋)」が自律的に働いています。
「背筋を伸ばす」と「背筋が伸びる」――この違いは微妙ですが、決定的です。
前者は意識的な努力によるもので、外筋という随意筋を使います。でも後者は、意識的な努力なしに自然に起こることで、内筋という不随意筋が働いているんです。
坐禅の姿勢は、外筋で作り上げるものではなく、内筋が自然に働くことで生まれるものなんです。
藤田さんは、この状態を「立っている生卵」の比喩で説明します。
立っている生卵はいったい何を語りかけてくるのであろうか。……中身は力んでおらず流動体のままである。それは外からでもよくわかる。悠然として余裕綽々、すっきりとおおらかである。つっかい棒や引っ張り綱で無理矢理にしがみついて立っているのではない。
生卵が立っているとき、殻の中の液体は流動したままです。
力んで固まっているわけではありません。でも、だからこそ安定して立っていられるんです。
坐禅の姿勢も同じです。
力んで固定するのではなく、内側が流動的でありながら、全体として安定している状態です。
さらに対談者の舟橋史郎さんは、坐禅を「究極の不安定のなかの安定」と表現します。
横になって寝ている状態は安定していますが、緊張がありません。一方、坐っている状態は重力に対して不安定ですが、その不安定さの中で絶妙なバランスを保っているんです。
この「緊張しているが力んでいない」という状態が、坐禅の身体性の核心です。
そして、この身体の状態は、心の状態とも直結しています。
坐禅の姿勢では考えごとを追いかけることができないし、居眠りすることができないということです。考えというのは必ず今ここには存在していない未来か過去のことについての考えです。
考えごとをしているときは、姿勢のどこかが凝っています。
居眠りしているときは、姿勢が崩れています。
でも、正身端坐の姿勢を保っていると、考えごとにも居眠りにも陥らない状態が自然に生まれるんです。
これは意志の力で考えを止めているのではありません。
身体が正しい状態にあるとき、心も自ずから正しい状態になるということです。
つまり、坐禅では「調身」が「調心」を自然に生み出すんです。
こうして見ると、坐禅とは、意識的な努力で何かを達成することではなく、身体が本来持っている智恵に任せることだとわかります。
赤ちゃんのように、「為そう」とせずに「在る」こと。
その状態こそが、坐禅の真髄なんです。
すでに仏であることに目覚める――開かれた自己へ
坐禅についての最大の誤解は、坐禅を「内面の探究」だと考えることです。
多くの人は、坐禅とは自分の内側を見つめて、心を静めて、何か深い真理を発見することだと思っています。
でも、道元禅師の教える坐禅は、まったく逆の方向を向いているんです。
坐禅というと、どうしても自己の内面を探究することだとか、内的なこころの世界へ沈潜することだというような私秘的なこころの世界に関わることだというイメージで見られがちですが、道元禅師のいう坐禅は全くそうではありません。
坐禅は、内側に閉じこもることではなく、外に向かって開かれることなんです。
私たちは普段、自分の意識の中に閉じこもって生きています。
自分の考え、自分の感情、自分の願望――そうした「自分」というものに執着して、世界をその視点からしか見られなくなっています。
でも本当は、私たちははじめから世界とつながっているんです。
坐禅は、その事実に目覚めていくプロセスです。
個人の意識のなかという、限られた小さな世界であれこれとやりくりしている内向きな自分を外へ向かって開き、そんな自分も本当ははじめからずっと世界と繫がっていたことに目覚めていくこと、気づいていくことなのです。
この「開かれる」という表現が重要です。
坐禅は、自分という殻を破って外に出ることではありません。そもそも殻なんて最初からなかったということに気づくことなんです。
私たちは、意識という狭い範囲に自分を閉じ込めています。
でも坐禅をすると、その狭い意識の檻から解放されて、もっと広い存在の次元に気づくようになります。
この変容というのは、意識としての自分に重きを置いて、そこから全てを眺め扱おうとする態度から、もっと基底的な存在としての自分が周りの無数の存在たちと同じ地平で繫がっているというところで感じ、考え、行動するという態度への変化です。
「意識としての自分」から「存在としての自分」への移行――これが坐禅における根本的な転換です。
意識としての自分は、世界を対象として眺めます。
自分がここにいて、世界がそこにある。自分と世界は別々のものだという感覚です。
でも存在としての自分は、世界と同じ地平にいます。
自分も世界の一部であり、世界も自分の一部である。そういう一体感の中で生きているんです。
この転換が起こると、何が変わるのでしょうか。
まず、自分を何かに「する」必要がなくなります。
なぜなら、自分はすでに完全だからです。
これは傲慢な話ではありません。むしろ謙虚な話なんです。
自分を特別なものにしようとする努力をやめて、ただ在るがままの自分を受け入れるということです。
釈尊が菩提樹の下で坐禅をしたとき、それは誰かに教わった行法を実行したのではなかったと、藤田さんは言います。
釈尊の菩提樹の下での坐禅は誰かに教わったことを実行したのではなく、全く自発的なものだったとわたしは考えています。何か特別な行法を意識で「為そう」としたのではなく、為すことでは到り得ない世界があることを知ってただ謙虚にそこに「在ろう」とした。
「為そう」から「在ろう」へ――この転換が悟りなんです。
そして、この転換は特別な人だけに起こるものではありません。
誰もが、ただ坐ることを通じて、この転換を体験できるんです。
なぜなら、私たちははじめから仏だからです。
坐禅は、仏になるための修行ではなく、すでに仏であることを思い出すための実践なんです。
この視点から見ると、坐禅に「無所得無所悟」という言葉の意味が腑に落ちてきます。
得るものがないのは、すでに持っているからです。
悟るものがないのは、すでに悟っているからです。
ただ、そのことに気づいていないだけなんです。
坐禅は、その「すでにある」という事実に目覚めるための実践です。
何かを付け加えるのではなく、余計なものを削ぎ落としていく。
自分を何かにしようとする努力を手放して、ただ在ることを許す。
その瞬間、私たちは本来の自己に戻っているんです。
現代社会は、常に私たちに「もっと」を要求します。
もっと成長しろ、もっと頑張れ、もっと良い人間になれ――そうしたメッセージが溢れています。
でも坐禅は、そうした要求から私たちを解放してくれます。
今のままでいい。
ただ在ればいい。
そして、その「ただ在る」ということが、実は最も深い真理なんです。
私たちはすでに仏です。
ただ、そのことを忘れているだけです。
坐禅は、その忘却から目覚めるための、最もシンプルで、最も深遠な実践なんです。
禅については、こちらの投稿「可能性は、いまここに!!『ただ坐る ~生きる自信が湧く 1日15分座禅~』ネルケ無方」もぜひご覧ください。

まとめ
- なぜ私たちは坐禅を誤解するのか――「得ようとする心」の罠――私たちは今の自分を信じられず、常に外側に答えを求めてしまいます。坐禅を自己改善の手段にしてしまうのは、「せせこましくこざかしい」凡夫根性です。道元禅師の教える「無所得無所悟」とは、物足りないままに物足りている状態であり、コントロールを手放すことでエゴが生まれる構造から自由になることを意味します。
- 「在る」と「為す」の違い――身体が教えてくれること――赤ちゃんが何の作為もなく完璧な姿勢で坐っているように、坐禅の姿勢は意識的に「為す」ものではなく、自然に「在る」ものです。外筋で力んで作り上げるのではなく、内筋が自律的に働くことで、立っている生卵のような「究極の不安定のなかの安定」が生まれます。身体が正しい状態にあるとき、心も自ずから正しい状態になるんです。
- すでに仏であることに目覚める――開かれた自己へ――坐禅は内面への沈潜ではなく、世界への開放です。意識としての自分から存在としての自分へという転換が起こるとき、私たちははじめから世界とつながっていたことに気づきます。釈尊の「為そう」から「在ろう」への転換が示すように、私たちはすでに仏であり、坐禅はその忘却から目覚めるための最もシンプルで深遠な実践なんです。
