正しさよりも、“欲望”を胸に進もう!?『欲望論 第1巻 「意味」の原理論』竹田青嗣

『欲望論 第1巻 「意味」の原理論』竹田青嗣の書影と手描きアイキャッチ

この記事を書いた人:増田 浩一(増田みはらし書店 店主/中小企業診断士)プロフィール

【経営ビジョンの視点で読み解く本書の核心】近代哲学が行き詰まった理由は、「本体」という観念への執着にあります。竹田青嗣はその袋小路を突破し、世界の根本は「存在の認識」ではなく「価値と意味の生成」にあると宣言します。
 
1.哲学の迷宮の正体:「客観的真理」を追い求める思考が、独断論と相対主義の往復運動に陥る構造を明らかにします
2.欲望論的転回の意味:世界の根本連関を「存在と認識」から「価値と欲望」へ組み替えるという、哲学史上の大胆な賭けを読み解きます
3.経営への接続:「正しさ」ではなく「意味」が人を動かすという洞察が、パーパスやビジョン設計の深層を照らします

  • 「答えのない問いに答えようとしている」——そういう感覚を、仕事の中で感じることはないでしょうか。
  • 正しい戦略を立てたはずなのに、人が動かない。正論を尽くしたのに、場が動かない。そのとき多くの人は「もっと正確なデータが必要だ」「もっと論理を磨けばいい」と思います。でも本当は、問い自体がずれているのかもしれません。
  • 実は近代哲学もずっと、同じ構造の袋小路にはまり続けてきました。竹田青嗣は、その「問いのずれ」を哲学の歴史全体の中に見出し、根本から問い直そうとした哲学者です。
  • 『欲望論』は、2巻合わせて千ページを超える大著ですが、その核心は意外なほどシンプルです。人間は「客観的な真理」によって動くのではなく、「欲望が生み出す意味」によって動く。この一点を、哲学史を全面的に組み替えながら証明しようとした本です。
  • 難解な哲学書ではありますが、そこに流れる問いは、経営やブランド、組織の現場に深く根を張っています。本書を通じて、「なぜ人は意味で動くのか」という問いを、思想の根っこから考えてみたいと思います。

竹田青嗣(たけだ・せいじ)は、1947年生まれの哲学者・文芸批評家です。早稲田大学国際教養学部名誉教授を務め、ニーチェおよびフッサール現象学の研究者として知られています。

哲学を「専門家のもの」ではなく、人間の生の現実に根ざした思想として捉え直す姿勢が一貫しており、『ニーチェ入門』『現象学入門』など平易な入門書も多数著しています。

『欲望論』はその思索の集大成とも言える大著で、欲望・意味・価値という概念を哲学史全体を舞台に問い直し、現代思想の袋小路に突破口を開こうとしています。

「本体」という幻想が哲学を迷宮に引き込んだ

まず竹田が問題にするのは、西洋哲学が長年抱えてきた「本体」という考え方です。

「本体」とは、人間の解釈や感覚とは独立して、外側に客観的に存在する真理や本質のことです。プラトンのイデア、キリスト教神学の神、ヘーゲルの絶対精神——形は変わっても、「どこかに絶対的な根拠がある」という前提が、西洋哲学を長く支配してきました。

問題は、近代以降にその根拠が揺らいだことです。科学の発展によって宗教的権威が後退し、「神」や「絶対者」を根拠にすることが難しくなった。すると哲学は、客観的真理の根拠をどこに求めるかという問題に直面します。

そこで登場したのが、「認識」を問う哲学です。「私の見ているリンゴの赤と、あなたの見ている赤は、本当に同じ赤か」「私の言う〈空は青い〉と、あなたの言う〈空は青い〉は、本当に同じ意味を持つか」——こうした問いが哲学の中心に据えられました。

しかし竹田はここに根本的な問題を見ます。この問い自体が、すでに「本体」の観念に縛られているのです。

哲学は「普遍的認識」をこととする。しかしこの「認識の普遍性」の概念が「本体」の観念に結びついているかぎり、すべての哲学的試みは認識論上の迷宮に入り込む。問題を追いつめたあげく最後に残されるのは、形而上学的独断論かこれへの対抗としての懐疑論的相対主義という両極の地点である。

独断論とは、「この価値観が絶対に正しい」と強弁する立場です。

相対主義とは、「何が正しいかはわからない、すべては人それぞれだ」と言い切る立場です。

どちらも、現代の経営や組織の現場で見覚えのある姿ではないでしょうか。

「うちのやり方が正しい」と押しつけるリーダーと、「価値観なんて人それぞれ」と言って何も決められないリーダー。

竹田が哲学の歴史の中に見た袋小路は、現場の思考のクセとも重なっています。

重要なのは、この2つは対立しているように見えて、実は同じ問いの構造から生まれているという点です。

「客観的な正解がある」という前提を共有したまま、「それがある」か「ない」かで争っている。だから議論は永遠に終わらない。

竹田はここに根本的なメスを入れます。問い自体を立て直さなければ、いくら答えを探しても出口はない、と。

批判的相対主義もまた出口のない袋小路である

独断論への批判として生まれた「批判的相対主義」は、現代思想の主流のひとつです。

ポスト構造主義や脱構築といった思想潮流は、普遍的な真理や価値の主張を解体し、それらが権力や文化によって構築されたものであることを暴いてきました。

この批判は重要です。歴史を振り返れば、「絶対的真理」を掲げた思想が、どれほどの暴力を正当化してきたか。独断的な普遍主義への批判は、思想的な誠実さとして理解できます。

しかしここに深刻な問題があると竹田は指摘します。

現代の批判思想は、形而上学的、独断論的普遍主義に対抗する批判的相対主義という、決して答えの見出せない哲学的な袋小路に入り込むことになった。

批判的相対主義は、あらゆる普遍的主張を解体することに長けています。しかし解体するだけでは、何も正当なものとして示すことができない。「これが大切だ」「この方向に進もう」と言った瞬間に、「それもまた構築物にすぎない」という批判にさらされる。結果として、社会や組織に向けた積極的な提案ができなくなります。

フランスの哲学者メイヤスーはこれを「批判的相対主義が抱える社会思想としての挫折」と呼びました。竹田はこの診断を引き受けながら、さらに一歩踏み込みます。

問題はまったく新しい仕方で立て直されねばならない。そのカギをなすのは哲学における「本体」観念である。

独断論も相対主義も、「本体」という観念を前提にしたまま争っているにすぎない。ならば「本体」の観念そのものを解体し、まったく別の地盤から問いを立て直す必要がある——これが竹田の出発点です。

組織やブランドの現場に引き寄せれば、このことはとても切実です。

「うちのパーパスは正しい」と押しつける独断型も、「どうせ意味なんてないよ」と言い捨てるニヒリスト型も、どちらも行き詰まります。

大切なのはその二項対立を超えて、「どのように意味を生成し、共有し、更新し続けるか」を問うことです。竹田の哲学は、その問いの地盤を整えるところから始まっています。

欲望と価値から世界を問い直す——哲学のエロス論的転回

では竹田は「本体」の解体のあとに、何を置くのか。

その答えが「欲望」です。

世界の根本的連関は、存在とその認識ではなく、価値と意味の生成の連関であり、主観と対象(客観)との関係ではなく欲望とエロスの連関である。価値と欲望の哲学は、世界の根源的エロス性、「快‐不快」の世界分節から始発し、「善悪」「美醜」という人間的審級価値の本質論へと展開する。

少しずつ解きほぐしていきましょう。

竹田が言う「欲望」は、食欲や性欲のような生理的欲求だけを指しません。認められたい、つながりたい、意味あることをしたい、自由でいたい——そうした人間的・社会的な欲望を含んでいます。

そしてこれらの欲望こそが、世界に価値と意味を与えているというのが彼の主張です。

つまり、お金に価値があるのは「客観的にそうだから」ではなく、人間がそれを欲望するからです。
名誉が意味を持つのも、仕事に意義を感じるのも、同じ構造です。
価値は外側にあるのではなく、欲望と他者との関係の中で生成される。

ここで「エロス」という言葉が出てきます。哲学の文脈でエロスとは、性愛だけでなく、より広く「快への志向性」「何かに引き寄せられる力」を意味します。竹田はこのエロス的感受こそが、人間が世界を意味あるものとして経験する根源にあると考えます。

さらに重要なのは、この欲望は孤立した個人の内側から湧くのではないという点です。

欲望は、他者との関係の中で形づくられます。認められたいという欲望は、認める他者なしには成立しません。
意味を感じるという経験も、その意味を共有できる他者がいてはじめて成立する。

「本体」と「存在」から始発する哲学、またそれを「意味」と「記号」の表象性へと還元する哲学は、決して価値と意味の構造の本質にアクセスできない。

ここに竹田の転回の要点があります。

「何が客観的に正しいか」を問うのではなく、「人はなぜそれを価値あるものとして感じるのか」を問うこと。

その問いを立てるためには、出発点を「存在の認識」から「欲望と意味の生成」へ移さなければならない。

これは経営の問いを根本から変えます。「どんな戦略が正しいか」ではなく「何が人の欲望に意味として届くか」。「どんな価値観を掲げるか」ではなく「何が人の欲望を動かし、共有される意味になるか」。

パーパスもブランドも共創も、欲望と意味の生成の問題として捉え直すとき、その設計の深度がまったく変わってきます。

結局、竹田青嗣が第1巻でやろうとしていることを一言で言うと、「哲学の問いの立て方を根本から変えよう」ということです。

ざっくりまとめるとこんな感じです。

西洋哲学はずっと「客観的な真理がどこかにあるはずだ」という前提で動いてきました。
  ↓
でもその前提のせいで、「真理はある派(独断論)」と
「真理なんてない派(相対主義)」の水掛け論が延々と続いてきた。
  ↓
どちらも同じ袋小路です。

竹田の提案はシンプルで、その前提ごと捨てましょう、ということ。

「客観的な真理があるかどうか」を問うのをやめて、「人はなぜそれを価値あるものと感じるのか」を問おう。
  ↓
その答えが「欲望」です。
  ↓
人間は欲望によって世界に意味を与えている。
  ↓
そしてその欲望は、他者との関係の中で生まれている。

これが竹田の言う「欲望論的転回」です。

経営やブランドの仕事に引き寄せると、「正しい戦略を探すより、何が人の欲望に届くかを考えよう」という話になります。人は正しさでは動かず、意味で動く——この1点が、第1巻全体を貫くメッセージです。

まとめ

  • 哲学の迷宮の正体——西洋哲学を長く支配した「本体」の観念、つまり「客観的真理が外側にある」という前提が、独断論と相対主義の間を往復させ続けてきました。現場の「正しさの押しつけ」と「ニヒリズムによる決断回避」も、同じ構造の袋小路です。
  • 批判的相対主義もまた袋小路——独断論を解体することに長けた批判的相対主義は、しかし何も正当なものとして示せません。批判するだけでは社会や組織に向けた提案は生まれず、思想としての挫折を免れません。
  • 欲望と価値から世界を問い直す——竹田の提案は「本体」を解体し、世界の根本連関を「欲望と意味の生成」として問い直すことです。人は「事実」ではなく「意味」を生き、その意味は欲望と他者との関係の中で立ち上がる。パーパス・ブランド・共創を設計するための、深い思想的基盤がここにあります。

実践のためのQ&A

本書の内容を踏まえ、読者が直面しやすい「1歩先の疑問」についてまとめました。

組織に「価値観」を根付かせようとしても、なぜかうまくいきません。何が問題なのでしょうか?

竹田の視点から言えば、価値観は「掲示する」ものではなく「欲望の中から生まれる」ものです。メンバーが何に動かされ、何に意味を感じているかを丁寧に掘り起こすことが先にあります。「正しい価値観」をトップダウンで押しつけることは、竹田が批判した独断論と同じ構造であり、人の欲望に届かないまま終わります。

「相対主義でいい」と思っていると、経営の現場では何が困るのでしょうか?

「人それぞれ」「正解はない」で止まると、チームや組織の共通の意味が生まれません。竹田はそこを「社会思想としての挫折」と呼びます。ニヒリズムは孤立を生み、行動の根拠を失わせます。大切なのは相対主義を超えて、「どの意味を共に引き受けるか」を問い続けることです。

パーパスやビジョンをつくろうとすると、どこか「きれいごと」になってしまいます。どうすればいいでしょうか?

欲望のレイヤーが抜け落ちているからです。竹田的に言えば、パーパスの核には「どうしようもない欲望」があるはずです。認められたかった、理不尽が嫌だった、孤独だった——そういう原初的な動機に正直に向き合ったとき、はじめてパーパスは血の通ったものになります。きれいな言葉より先に、欲望の掘り起こしが必要です。

この記事を書いた人:増田 浩一(増田みはらし書店 店主/中小企業診断士)プロフィール
ビジョン思考・組織・ブランド・生き方について、良書とともに探究しています。

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