【いかに公平な世界をつくる?】うしろめたさの人類学|松村圭一郎

うしろめたさの人類学
  • 格差社会、貧困問題が、日本でもかなり身近になってきています。SDGsにも貧困問題を解決する目標として、2030年までの解決を国連が掲げています。私たちはどのようにして、社会と向き合っていけばいいのでしょうか。
  • 実は、松村さんの提唱する「うしろめたさの人類学」が考えるヒントになります。
  • 松村さんは、京都大学在学中のエチオピアでのフィールドワークでの体験と日本を比較しながら、贈与、交換のあいだでゆれうごく「うしろめたさ」という感情を起点に、私たちの社会を俯瞰しました。
  • 本書では、彼の具体的な生々しい現地での体験と、人と人のプリミティブな関係・つながり、そして、目線を転じて、市場、国家というマクロ的な視点を通じて、現代人として生き方を突きつけられます。
  • 本書を読み終えると、私たちがいかに、贈与と交換に束縛されているか、そして、これらのバランスをいかにはかり、「真に公平(フェア)」な社会づくりへ参画できるか、ヒントを得ることができます。
松村圭一郎
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現代社会は、公平(フェア)な世界か?

よりよい社会/世界があるとしたら、どんな場所なのか。努力や能力が報われる一方で、努力や能力が足りなくても穏やかな生活が送れる。一部の人だけが特権的な生活を独占することなく、一部の人だけが不当な境遇を強いられることもない。誰もが好きなこと、やりたいことができる。でも、みんなが少しずつ嫌なこと、負担になることも分けあっている。つまり、ひとことで言えば、「公平=フェア」な場なのだと思う。

どこに向かうのか?

偏りが生じているのに、それに対して見て見ぬふりをする社会が、気づいたら目の前に立ちはだかっています。これから、ジョブ型社会へ向かうという機運もあります。でも、そのまえに考えなくてはならないことがあると思いました。

過去の投稿、「【人生のコンパス持ってますか!?】Dark Horse|T・ローズ他」で取り上げた、書籍ダークホースでは、真にその人が楽しいと思え偏愛を感じられる物事を突き詰めていくことが、真に豊かな働き方をもたらすという見解が示されていました。

同時に、アメリカ合衆国の独立宣言を引用して、人は生まれながらにして平等で、生命、自由、そして幸せを追求する権利を持つのだということが明文化されていると振り返っています。

平等と公平は違うものではありますが、人は元来、概念として、高尚なビジョンを持つことができるのです。

しかし、市場や交換の原理の中で、生きる感覚が鈍くなる中で、いかに生きるかということを忘れて、社会の誤謬をもたらしているように見えます。

ひとりひとりの善意の塊である市民が、善意のもと経済活動を行っていくと、全体としてズレてしまう・・では、どうしたらいいのか、ひとりひとりがどんな心構えを持てば理想に近づくのか?という問いをとらえるヒントを差し込んでくれます。

物乞いに見る贈与と交換の原理原則と、「うしろめたさ」

目の当たりにして、なにも感じないという人はいないだろう。でも「交換」モードには、そんな共感を押さえ込む力がある。

共感する力、共感を抑える力

著者の松村さんは、京都大学総合人間学部の学生として、人類学を研究する生活の中で、エチオピアの街角や、大阪の地下鉄で、物乞いと出会います。

エチオピアの物乞いは、激しく金銭を要求してきますが、日本人としてなかなか金銭を上げることがはばかられてしまい、最終的には、無視をすることになってしまうことに対して、呵責とも自責とも言える、なんとも言えない気持ちを体験します。

そこで、松村さんが考えてたのが、「贈与」「交換」です。

「贈与」は、与えることで、受け取り手にも義務が生じます。いつかお返しをしなくてはいけないという、繋がりは、目に見えない効果を発揮し続けます。そして、この繋がりは少し面倒なものでもあります。そして、そこにはかならず気持ちが伴います。互いに気持ちの交換まで行い、共感するからこそ、つながりは機能し続けるのです。

一方で、交換は、ものやサービスを金銭で交換する時に、関係を見事に断ち切ります。だから、関係はそこで切れることが前提の取引です。

「贈与」を支えるのが、社会であり、「交換」を支えるのが、市場です。

今の社会は、「交換」過多になっているから、私たちは(面倒くさいものも含めた)本当の繋がりを失っているのです。

いろんな理屈をつけて最初に生じたはずの「与えずにはいられない」という共感を抑圧している。共感とその抑圧。これが「構築」を考えるときのポイントになる。

共感する力、共感を抑える力

この「うしろめいたい」という気持ちを押さえつけている考えに、今を考えるヒントがあると著者はいいます。

それは「貧しい人のために」とか、「助けたい」という気持ちからではない。あくまでも自分が彼らより安定した生活を享受できているという、圧倒的な格差への「うしろめたさ」でしかない。この違いはとても大きい。善意の前者は相手を貶め(おとしめ)、自責の後者は相手を畏れる。そうやって物乞いの人たちと顔見知りになると、笑顔であいさつを交わすだけで、なにも求めなくなる。彼らも「いつももらうのは申し訳ない」と思うのかもしれない。贈与は人のあいだの共感を増幅し、交換はそれを抑圧する。

「あふれる思い」の可能性

「贈与」「交換」のそれぞれは、私たちにとって、良い面も面倒な面もあるのです。これらのバランスをとることに、ヒントを見出します。

「うしろめたさ」を通じて、いかに公平(フェア)な社会を作れるか?

では、どうしたらいいのか?まず、知らないうちに目を背け、いろんな理由をつけて不均衡を正当化していることに自覚的になること。そして、ぼくらのなかの「うしろめたさ」を起動しやすい状態にすること。人との格差に対してわきあがる「うしろめたさ」という自責の感情は、公平さを取り戻す動きを活発化させる。そこに、ある種の倫理性が宿る。

うしろめたさの倫理

「不均衡だと感じた瞬間の気持ちを大切にすること」、その時の「うしろめたい」気持ちに敏感になることで、ひとりひとりが公平な社会構築の活動をしていく時に大切になると言います。

人として身につけておきたい、この不均衡を察知する感覚の積み重ねが、社会を変える力になります。

贈与がもたらす「つながり」は、面倒くさい。近代社会は、それを避けるように、個人の行為を「市場」や「国家」の線引に沿って割り振り、社会の中に垣根をつくりだしてきた。これは市場の話、これは国のしごと(あるいは他国の話)、あなたの私的な領域はここまで、といった具合に。人と「つながる」ことは、その人の生の一部を引き受けることを意味する。ときには市場/交換の力をつかって、関係を断ち切ることも必要になる。そのバランスをとるためにも、共感の回路をうまく開閉できたほうがいい。

おわりに「はみだし」の力

事実「贈与」は面倒くさいものです。つながり自体が面倒なものだからです。昔のムラ社会を想像したら容易いでしょう。そこにはプライベートという概念が極めて薄く、「わたし」であるまえに、社会の構成員である感覚が強かったのです。

しかし、かといって現代の社会が◎かというと、そうでもない。

その間で、バランスをとりながら未来へ向かっていくことが今、ひとりひとりに求められているのだと思います。

「うしろめたさ」を胸に抱いて、「贈与」を行いながら、適切に市場や、行政(国家)の力を使いながら、それを断ち切っていくバランス感覚こそが、私たちが公平さのある理想的な世界線にたどり着くのに必要な心構えなのです。

まとめ

  • 現代社会は、公平(フェア)な世界か?――いかに、「公平(フェア)」な世界を作っていくことができるかを考える際に、人類学の考え方が参考になります。
  • 物乞いに見る贈与と交換の原理原則と、「うしろめたさ」――「贈与」は人と人をつなげ、「交換」は断ち切ります。物乞いという極端な相対関係が、これらの機能の違いを考えるヒントになります。
  • 「うしろめたさ」を通じて、いかに公平(フェア)な社会を作れるか?――社会の不均衡に敏感になって、そこで育まれる「うしろめたさ」を大切に暮らしましょう。贈与でうまれる繋がりと、市場と国家による交換や再分配で断ち切られる機能のバランスを適切にとることが、公平な社会創造への一歩となるのです。

これから、ジョブ型の社会になるとも言われています。そうした中で、人と人が直接仕事をしだす社会になるということなので、もっともっとこうした「贈与」と「交換」に関する議論はなされていくのではないかなと思いました。

松村圭一郎
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