唯一絶対の“真実”はない!?『集団に流されず個人として生きるには』森達也

『集団に流されず個人として生きるには』森達也の書影と手描きアイキャッチ
  • あなたは普段、どこからニュースを得ていますか?
  • 実は、私たちが「真実」だと信じている情報の多くは、メディアによって切り取られ、編集され、ある方向性を持って提示されたものなんです。
  • なぜなら、メディアには視聴率という経済原理があり、政治との癒着があり、そして何より「不安や恐怖を煽る」ことで人々の注目を集める構造的な仕組みがあるからです。
  • 本書は、映画監督でありドキュメンタリー作家である森達也さんが、メディアリテラシーと個人の思考の自律性について論じた一冊です。
  • 本書を通じて、集団に流されず、複数の視点を持ちながら自分の頭で考えることの重要性を、改めて考え直すことができます。

森達也さんは、映画監督、ドキュメンタリー作家、作家として活動されています。オウム真理教の信者を追ったドキュメンタリー映画『A』『A2』で知られ、メディアが作り出す「空気」や集団心理の危険性を一貫して問い続けてきました。

本書は、中高生向けに書かれた岩波ジュニア新書ですが、大人にこそ読んでほしい内容となっています。なぜなら、私たち大人こそが、知らず知らずのうちにメディアの情報に流され、集団の空気に同調し、個人としての思考を放棄してしまっているからです。

森さんは本書で、ウクライナ戦争報道、日本のメディアの構造的問題、集団心理の危険性など、具体的な事例を挙げながら、「個人として生きる」ことの意味を問いかけています。

その語り口は優しくも鋭く、私たちに本質的な問いを投げかけてきます。

メディアが作り出す「集団化」のメカニズム

テレビをつければ、スマホを開けば、毎日大量の情報が流れ込んできます。

そして私たちは、それらを「事実」として受け取ってしまうんです。

でも、ちょっと立ち止まって考えてみてください。

その情報は本当に「事実」なのでしょうか。

森さんは、ウクライナ戦争の報道を例に挙げています。

ウクライナにおける戦争が第二次世界大戦終結後において最も規模の大きい戦争であるとの認識はまったく間違っている。それを知らないメディアはない。第二次世界大戦終結後も戦争や内戦や虐殺は、ずっと絶間なく世界各地で継続していたということ。僕らが多く暮らす先進国や欧米諸国の代に生きている、あるいはベトナム戦争やイラク戦争はともかく、イエメンの内戦を具体的に知る人は少ない。僕も最近まで知らなかった。

日本のメディアは、ウクライナ戦争を「最も規模の大きい戦争」として報じました。

でもこれは明らかに誤りなんです。

ベトナム戦争、イラク戦争、イエメンの内戦——世界各地で戦争は継続してきました。

ではなぜ、メディアはこのような報じ方をしたのでしょうか。

それは「事実を正確に伝える」ことよりも、「視聴者の関心を引く」ことが優先されるからです。

森さんは、日本のメディアの機能不全について、こう指摘しています。

自民党と旧統一教会との接点は、安倍元首相の祖父である岸元首相時代から始まっている。もちろん、国際勝共連合と自民党の関係だって知っていたし、国際勝共連合の母体が旧統一教会であることも周知だった。でも問題視されなかった。ずっと報じなかった。そうしなければならない理由があったのだ。ニュースとしての価値がわからなくなっていたのだ。

統一教会と自民党の関係は、ずっと前から存在していました。

メディアも知っていたんです。

でも報じなかった。

なぜか。

それは、メディアと政治が癒着していて、「報じてはいけない空気」があったからなんです。

森さんはさらに踏み込んで、メディアの構造的問題を明らかにしています。

メディアと社会と政治は三位一体だ。メディアは健全に機能しているのに国民のレベルが最低でだから政治も最低、あるいはその逆にメディアのレベルなのにメディアが最悪であるという国も、国民のレベルは素晴らしいのに政治がどうしようもないという国も、まず存在しないと言っても過言ではない。要素は互いに影響し合っている。これを言い換えれば、今は政党が悪くて経済格差は激しく差別は横行し、政党家は自分の言説にばかり熱心で国民をもうろうとは当たりまえに考えている国でも、メディアが健全に機能するようになれば、その国は間違いなく急激に変わる。

メディア、社会、政治は、互いに影響し合っているんです。

だからこそ、メディアが健全に機能しなければ、社会も政治も良くならないんです。

でも現実には、メディアは視聴率を追い、政治と癒着し、そして最も危険なことに「不安や恐怖を煽る」ことで成立しています。

メディアは不安や恐怖を煽る。それは昔も今もかわらない。なぜならそのほうが、視聴率や部数が上がるからだ。僕たちホモサピエンスは弱い。だから僕たちの祖先は、群れをなから生き残った。

人間は本能的に不安や恐怖に反応するようにできているんです。

だからメディアは、それを利用するわけです。

視聴率のために。

経済合理性のために。

でもそれは、ジャーナリズムの原理とは真逆の方向なんです。

「群れる」ことの危険性と個人として生きること

私たちは、なぜ集団に流されてしまうのでしょうか。

森さんは、人間の本質的な特性として「群れる」性質を指摘しています。

要するに僕たちホモサピエンスは、天敵に襲われたらひとたまりもない。だからこそ群れる本能は強くなった。

人間は弱い生き物だから、群れることで生き延びてきたんです。

これは生物学的には正しい戦略でした。

でも現代社会では、この「群れる本能」が、むしろ私たちの思考を停止させ、危険な方向に導くことがあるんです。

森さんは、集団化のメカニズムをこう説明しています。

集団内にいる人は、自分が集団内で異物になることを何よりも恐れるから、必死で周囲に同化しようとする。同調するために空気を読まなければならない。つまり空気を読まなければならない。でも周囲の動きばかりに気をとられたら自分は何も考えなくなる。周りはみな同じ速度で動いているから、自分のスピードもわからなくなる。気がつけば全速力。こうして集団は暴走する。

集団の中にいると、「異物になりたくない」という恐怖が生まれます。

だから空気を読み、周囲に同調しようとするんです。

でもそうすると、自分で考えることをやめてしまう。

周りがやっているから、みんなが言っているから、という理由だけで行動してしまうのですね。

そして最も危険なのは、「敵」が現れたときなんです。

敵が現れたとき私たちは集団化する

敵が明確になると、人は一気に集団化します。

「私たち」と「彼ら」という二項対立が生まれ、思考が単純化されていくんです。

ウクライナ戦争の報道でも、まさにそれが起きました。

ロシアは絶対悪、ウクライナは完全な被害者、という単純な図式で報じられ、戦争の複雑な背景は無視されたわけです。

でも森さんは、こうした集団化に抵抗する方法を示しています。

一人称単数の主語を持つということは、その一人称単数の主語に見合う述語で思考し、行動することである。もしも「我々」など複数代名詞を主語にした途端に、述語はまったく変わる。だって大きくて仲間がたくさんいて強いのだ。一人称単数の主語を明け渡せば自分はほぼ匿名になれる。だから安易的になる。言いたいことは言える。しても考えるよりも早く動ける。例えばどんな述語が多くなるのか。攻撃せよ。許すな。粉砕せよ。立ち向かえ。……思いつく単語に暴けど、こうした一人称単数の主語を失いながら、人は選択を間違える。悔やんでも時間は巻き戻らない。

「私」ではなく「我々」で考え始めた瞬間、思考は粗暴になるんです。

「攻撃せよ」「許すな」「粉砕せよ」——こうした暴力的な言葉が溢れ出します。

でも「私は」という一人称単数の主語を持ち続ければ、そこまで単純な判断はできなくなるわけです。

「私は本当にそう思うのか?」
「私にとってそれは正しいのか?」

こうした問いが、集団の暴走を止める唯一の方法なんです。

森さんは、集団の歯車として多くの人を殺害してしまった例として、ナチスの話を引いています。

僕たちホモサピエンスはときとして、明確な悪意がないままに、とても残虐な殺戮に加担してしまうことがある。なぜなら群れて生きることを選択したからだ。集団に埋没して個を失うからだ。

ホロコーストを実行したナチスの多くは、特別に邪悪な人間だったわけではありませんでした。

ごく普通の人々が、集団の歯車として、個を失って、大量殺戮に加担してしまったんです。

これは決して過去の話ではありません。

今、この瞬間も、私たちは集団に流され、個を失う危険にさらされているのです。

多様な解釈を持つために——教育とメディアの役割

では、私たちはどうすれば集団に流されず、個人として生きることができるのでしょうか。

森さんは、「カメラの位置」という比喩で、このことを説明しています。

カメラの位置だ。つまり視点。どこにカメラを置くか次第でこんなに違うものが撮れる。そしてその映像を観たあなたは、まったく違う感情を抱く。——これが情報の本質だ。——世界は多様な解釈的だ。どこから見るかで景色はまったく変わる。あなたがスマホでチェックするニュース。あるいはツイッターやラインで誰かが書いた情報。テレビニュースや新聞記事。すべてこうした情報だと知っておしい。難しい話ではない。人は同時に多数の視点に立てない。選ぶしかない。あなたがもしも記者やカメラマンなら、あなた(たち)が選ぶ視点は多くではならない。それはあなたにとっては真実だ。でも真実は人の数だけある。解釈は人によって違う。それ

同じ出来事でも、カメラをどこに置くかで、まったく違う映像になるんです。

そしてその映像を見た人は、まったく異なる感情を抱くのです。

これが情報の本質なんです。

「真実」はひとつではありません。

解釈は人の数だけ存在するんです。

だからこそ、私たちは複数の視点を持つ必要があるわけです。

森さんは、「速近法主義」という概念を使って、私たちの認識の偏りを指摘しています。

現象に立ちどまって「あるのはただ事実のみ」と主張する実証主義に反対して、私は言ってあろう、否、まさしく事実なるものはなく、あるのはただ解釈のみと。(略)……総じて「認識」というのものは見通しをもつかぎり、そしてそれが認識である以上、その見通しは意味をもっているのである。——「速近法主義」世界を解釈するもの、それは私たちの欲求である。私たちの衝動とそのもの真偽であろう。いかしもあろうとも、遠いよりも近い方を優先するあり、いずれかがその速近法をもっており、このあのれが速近法を規範としてその他すべての衝動に強制したから

私たちは、どうしても「近いもの」を優先してしまうんです。

時間的に近い出来事、空間的に近い場所、自分に関係が深いこと——こうしたものに注目してしまう。

でもそれは、単に私たちの「速近法」という認識の癖に過ぎないわけです。

真実はもっと多様で、複雑で、遠くにも存在しているんです。

そして森さんは、この多様な視点を持つために、メディアと教育の役割を強調しています。

そのひとつはメディア。そしてもうひとつは教育。この二つは不可分の関係にある。メディアが間違った情報を民主的にきちんと選択した上で、いくらが受容している近視的などにしか選んで不充分である、という状況はありえない。教育は理想的だがメディアが問題外に低劣である、という国も少ないはずだ。なぜならこのほうの教育は、相対的かつリテラシーを鍛える。もう一方の見方の多面性を問わせる。教育が行き届いてリテラシーが成熟した社会において、メディアが向上しないはずはない。つまりこの二つは両輪。メディアと教育がしっかりと駆動するならば、その社会や国家が大きな過ちを起こすことはないはずだ。

メディアと教育は、両輪なんです。

メディアが健全であれば、人々は多様な情報に触れることができます。

教育が充実していれば、人々はその情報を批判的に読み解く力を持つことができるわけです。

そして両者が機能すれば、社会は大きな過ちを犯さなくなるんです。

負の歴史を忘れてはいけない

森さんは、メディアと教育の重要性を、歴史の教訓から説いています。

過去の過ちを忘れないこと。

同じ間違いを繰り返さないこと。

そのために、私たちは歴史を学び、メディアを批判的に読み解き、そして何より「自分の頭で考える」ことが必要なんです。

一人称単数の主語を持ち続けること。

「私は」という主語で考え、行動すること。

これこそが、集団に流されず個人として生きることの本質なんです。

多様な視点を獲得し、その中で、一人称のバランスを鍛えていくためには、古典やリベラルアーツに触れることも効果的です。こちらの1冊「あなたの視点は確かか!?『視点という教養(リベラルアーツ)』深井龍之介,野村高文」もぜひご覧ください。

まとめ

  • メディアが作り出す「集団化」のメカニズム――メディアは経済原理と政治との癒着により、事実を正確に伝えるよりも視聴率を優先し、不安や恐怖を煽る構造を持っています。私たちが「真実」だと信じている情報の多くは、切り取られ編集されたものに過ぎません。
  • 「群れる」ことの危険性と個人として生きること――人間は本能的に群れる生き物ですが、集団の中では思考が停止し、空気を読むことに必死になります。特に敵が現れたとき人は集団化し、暴力的で単純な思考に陥ります。一人称単数の主語を持ち続けることが、この危険から逃れる唯一の方法です。
  • 多様な解釈を持つために——教育とメディアの役割――カメラの位置によって景色が変わるように、真実は視点の数だけ存在します。速近法主義という認識の偏りから脱却し、複数の視点を持つためには、健全なメディアと充実した教育が両輪として機能する必要があります。負の歴史を忘れず、自分の頭で考え続けることが、個人として生きることの本質なのです。
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