- あなたは今、何かになろうとしていませんか?
- 実は、その「何者かになろう」という努力そのものが、私たちを苦しめているんです。
- なぜなら、現代人は絶えず何かを求めて生きているから。求めることをやめれば、まずはいったん求めることすら必要なくなるという逆説に、私たちは気づいていないんです。
- 本書は、ドイツ出身の禅僧ネルケ無方さんが、坐禅の本質を現代人に向けて語った一冊。
- 本書を通じて、「ただあること」の深さと、そこから湧き出る生きる自信を取り戻すことができます。
ネルケ無方さんは、1968年にドイツで生まれ、16歳で坐禅と出会い、日本に渡って禅僧となった方です。現在は兵庫県の安泰寺で住職を務めながら、国内外で坐禅指導を行っています。
西洋人として禅の世界に飛び込んだ無方さんだからこそ、現代人が抱える「何者かになろう」という病を鋭く見抜いています。ドイツ語と日本語の両方で禅を語れる稀有な存在として、東西の架け橋となっているんです。
「何者かになろう」という病から離れる
現代人は絶えず、何かを求めて生きています。
もっと良い仕事、もっと高い年収、もっと充実した人間関係。朝から晩まで何かを追いかけ、セルフチェックを優先させてしまっている。頭の中は仕事のことでいっぱいで、フルマックスになってしまった。
まずはいったん、求めることをやめなければなりません。何かになろうと頑張って坐るのは坐禅ではありません。あらゆる頑張りをやめにしてただ坐ることこそ坐禅です。人はただ坐ることをどうしようが、最終的には死ぬのです。行きつくところが幸福です。
この言葉は、現代社会の根本的な病理を突いているんです。
私たちは「何かになること」を目標にしすぎている。より良い自分、より成功した自分、より認められる自分。でも、そうやって常に未来の自分を追いかけているうちに、今ここにある自分を見失ってしまうんです。
坐禅の本質は、まさにこの「求めない」ことにあります。
鼻の先にぶら下がっている人参を追いかけるのをやめることこそが坐禅なのです。
この比喩は印象的です。私たちは常に、目の前にぶら下がった人参を追いかける馬のように生きている。でも、その人参は決して手に入らない。なぜなら、追いかけている限り、常に「もう少し先」にあるからなんです。
坐禅は、その追いかけることをやめる実践です。何かになろうとせず、何かを得ようとせず、ただ坐る。それだけ。
一人で、一日に何時間も坐禅をしようと思っても、長続きはしないでしょう。むしろ短い、しかし心のこもった坐禅を日々続けることが大事です。たった一日の中でも、心と身はきっと違ってくるでしょうし、坐禅を続けた一生の内容も変わってきます。
毎日15分でいい。
短くても、続けることに意味があるんです。なぜなら、坐禅は何かを達成するためのものではないから。ただ坐ることそのものが、すでに完結しているんです。
坐禅が教える「私」の幻想
坐禅を深めていくと、不思議なことが起きます。
「私」という感覚が薄れていくんです。
人間は、自分の周囲に見えるものを、「飲」と「味わ」に分けて考える癖があります。しかし、本当の飲とは誰のことでしょうか。私、私、私……私です。でも、私の敵は私自身にほかならないのです。仏教はこの気づきから出発します。私の悩み苦しみの原因は、物事を二分している私にあるのです。私を取り巻く環境ではありません。
この洞察は深いんです。
私たちは常に、世界を「私」と「私でないもの」に分けて考えている。好きなもの、嫌いなもの。味方、敵。得るべきもの、避けるべきもの。
でも、その分離こそが苦しみの根源なんです。
仏教では、この「私」という幻想からの解放を説きます。坐禅は、その幻想を直接体験する方法なんです。
「私は誓い、私は思い」「私が考えている」「私が見聞きしている」「私が行っている」「私が信じている」……全てにおいて、私たちは「私」なるものの存在を仮定します。しかし実の私もそうです。でも、私はカチカチと文字を打ち込んでいる時、「私」がここにいると思っています。しかし、よくよく観察してみれば、そういう「私」が何物であることが判明します。つまり、「私」の存在は文字を打ち込んでいるのですが、「私」そのものはここにいないのです。
坐禅中、この体験が訪れます。
呼吸をしている。でも「私が」呼吸しているという感覚が消える。
ただ、呼吸が起きている。思考が浮かぶ。でも「私が」考えているのではない。ただ、思考が流れている。
自分の身を離れて坐禅をしなければ、坐禅をしてくれない」「この身が仏になければ、仏はどこにも存在しない」というのが禅の主張
この逆説が坐禅の核心です。
「私」が坐禅をするのではなく、坐禅が坐禅をする。「私」が悟りを得るのではなく、「私」が消えたところに仏がある。
仏が仏として現れる瞬間、それが『今ここ』の坐禅です。
今ここに、ただあること。
それが坐禅なんです。過去でも未来でもない。他の誰かでもない。ただ、今ここに坐っている。その事実だけがある。
日常に溶け込む禅の智慧
坐禅は座布団の上だけのものではありません。
その智慧は、日常生活のあらゆる場面に応用できるんです。
無方さんが挙げる運転の比喩が、これを見事に示しています。
車の運転と同じ。内山興正老師は、坐禅を車の運転にたとえました。運転に慣れていない人にとって、その操縦は大変難しく、よく注意しなければ、自分も他人も危ない目に遭わせることになります。
運転を始めたばかりの頃を思い出してください。
ハンドル、アクセル、ブレーキ、ミラー、周囲の車。意識すべきことが多すぎて、緊張でガチガチになっている。「私が」運転している、という感覚が強烈にある。
でも、慣れてくると変わるんです。
運転が上達すれば、これらの項目は全部忘れ去られ、手足は勝手に動くようになります。
「私が」運転しているのではなく、運転が起きている。
車と道路と私の境界が曖昧になって、ただスムーズに流れていく。
これが、坐禅で体験する「無我」の状態と同じなんです。
真の集中はそのものになること
集中とは、対象と一体になることです。
仕事でも、会話でも、食事でも。「私が」何かをしているのではなく、ただその行為そのものになる。
主体と客体の境界が消える。
坐禅中に流れてくる雑念は「邪魔だ」という人がいますが、大体「邪魔だ」という思い自体が邪魔なのです。もちろん、その事になってもいけません。坐禅は思考停止ではないのです。無理に「無念無想」という状態を引き起こしたり、雷鳴状態を作ったり「無い」になったりするわけではありません。坐禅は非思量なのです。
坐禅は思考を止めることではない。
思考が浮かんでくる。
それを「邪魔だ」と判断しない。
「良い」「悪い」と評価しない。
ただ、思考が流れていくのを見ている。それが非思量なんです。
坐禅をそういうふうに利用しないで、坐禅をそのまま受け入れることをおすすめします。もし、今生きている身体を、「あがた」と身体、身性、忘れてしまい、現実をありのままに受け入れてはいかがでしょうか?
この言葉が、本書の核心を突いています。
坐禅を「何かのため」に使わない。リラックスのため、悟りのため、健康のため。そういう目的を手放す。ただ、坐禅を坐禅として受け入れる。
それが日常生活にも及ぶんです。
今ここでやらなければならないことを必死になってただやるのみです。ですから、坐禅の時でも、坐禅以外の時でも、注意や意識に向けるのではなく、目の前のこと、自分の足元にこそ目を向けることが大事です。
未来の計画や、過去の後悔ではなく、今ここ。
目の前のこと、足元のこと。それだけに集中する。
生きるためには、死を覚悟しなければなりませんでした。死を覚悟したそのとき、本当に生かされている実感が得られるのです。
生と死も、分離していない。
生きることは、同時に死に向かうこと。その事実を受け入れたとき、逆説的に「生かされている」実感が湧いてくるんです。
私一人を何でもないという覚悟——菩提心のもとで、私は法蔵から自由になり、社会問題からも自由に出てきます。「自未得度先他」と発願する心です。「自未得度先他」とは、私が救われる前に(自未得度)まず先に人を救いたい(先度他)という意味です。
この菩提心が、最終的な到達点です。
「私」を救おうとする執着から離れる。むしろ、人を先に救おうとする。そのとき、逆説的に「私」が救われるんです。
坐禅とは、結局のところ、ただあることなんです。
何者かになろうとせず、何かを得ようとせず、ただここにある。その事実に気づく。それだけで、生きる自信が湧いてくる。
禅マインドとともに、新年をすごしてみるのもいいですね。こちらの投稿「ただ今あるということを知るには!?『禅のすすめ 道元のことば』角田泰隆」もぜひあわせてご覧ください。

まとめ
- 「何者かになろう」という病から離れる――現代人は常に何かを求めて苦しんでいますが、坐禅は「求めることをやめる」実践です。1日15分、ただ坐ることで、追いかけることの虚しさから離れられるんです。
- 坐禅が教える「私」の幻想――坐禅を深めると、「私が何かをしている」という感覚が薄れていきます。仏教が説く無我の智慧を、坐禅を通じて直接体験できるんです。「私」が消えたところに、本当の自由があります。
- 日常に溶け込む禅の智慧――運転の比喩が示すように、真の集中とは対象と一体になることです。坐禅の智慧は日常生活のあらゆる場面に応用でき、今ここに生きることの深さを教えてくれます。
