- あなたは「私」というものが、変わらずに存在していると思っていないでしょうか。
- 実は、その「私」という固定観念こそが、変化の時代を生きる私たちを苦しめているんです。
- なぜなら、世界は絶えず変化しているのに、「私」だけは変わらないと信じることで、現実との間に大きなギャップが生まれるからです。
- 本書は、深井龍之介さんと龍源さん(臨済宗の僧侶)の対話を通じて、仏教が2500年前から持っていた「私を溶かす」という知恵を提示してくれます。
- 本書を通じて、固定的な自我から解放され、変化に漂い、世界に溶けていく自由を発見できるんです。
本章の対話相手である松波龍源さんは、京都の実験寺院・寳幢寺の僧院長です。
真言律宗の僧侶でありながら、学生時代に武道と仏教に出会い、単身で中国・北京に渡って5年間武術を修行するという異色の経歴を持っています。
帰国後、真言律宗の総本山である西大寺にて正式に僧籍を得て、さらに日本国内のみならずミャンマーやチベットなど海外の高僧のもとでも学んできました。
龍源さんの特徴は、仏教を「型どおりの古い寺」「形骸化した仏教」から解放し、現代の人々の日常に根ざした実践として問い直している点です。
「実験寺院」という名が示すように、伝統を守りながらも「変えるべきものは変える」という姿勢で、21世紀の寺院のあり方を模索しています。
起業家、医師、学生、主婦、会社員など多様な人々が集まる「場」として寺院を再定義し、宗教施設という枠を超えたコミュニティを創造しているのです。
深井龍之介さんとの対話では、仏教が持つ「私を外側に置く」視点の現代的意義が展開されていきます。
これは知識の伝達ではなく、読者自身が「私とは何か」を問い直す体験となっています。
仏教の智慧を、現代の認知科学や脳科学と接続させながら、2500年の時を超えて今も有効な視点として提示してくれるのです。
前回の投稿「あなたの視点は確かか!?『視点という教養(リベラルアーツ)』深井龍之介,野村高文」はこちらもぜひご覧ください。
「私」という固定観念を疑う
私たちは「私」というものが、確固として存在していると信じています。
朝起きて鏡を見る「私」も、仕事をしている「私」も、夜眠りにつく「私」も、同じ「私」だと。
でも、本当にそうでしょうか。
仏教は2500年前から、この「私」という固定観念に疑問を投げかけてきました。
龍源さんと深井さんの対話は、まさにこの核心から始まります。
西洋哲学の出発点は、デカルトの「我思う、ゆえに我あり」です。
17世紀のデカルトは、すべてを疑った末に、「疑っている私」だけは疑えないと考えました。
この「私」という確固たる存在を前提に、西洋哲学は2500年間積み上げられてきたんです。
深井:西洋哲学が「私」とは何かと考え始めるのは、17世紀のデカルトあたりからなので、それを2500年前に釈迦が考えていたと知ったときには、すごいなと思いました。
でも、仏教のアプローチはまったく違います。
釈迦は「私」というものが固定的に存在するという前提そのものを疑ったんです。
これは単なる思想の違いではなく、世界の見方の根本的な違いなんです。
西洋哲学が「私は存在する」から出発するのに対し、仏教は「私とは何か」を問い続けます。
そして仏教が到達した答えは、「私」は固定的なものではなく、常に変化し続ける関係性の束にすぎないということでした。
龍源:そんな中で異色だったのが、13世紀後半のエックハルトという人です。神父であった彼は、「神は無なのだ。神に自分を献合させ、自分自身も無になり、これが神の恩恵を受けた状態なのだ」という趣旨のことを言います。これは仏教の悟りとかなり近い。
龍源さんが紹介するエックハルトの思想は、西洋の中でも例外的に仏教に近づいた瞬間でした。
「自分自身も無になる」という発想。
これは西洋哲学の主流からは大きく外れていますが、仏教の核心に触れているんです。
私たちは「私」という境界線を引いて、世界を「私」と「私でないもの」に分けています。
この境界線があることで、「私の利益」と「他者の利益」が対立し、「私の考え」と「他者の考え」が衝突します。
でも、この境界線は本当に実在するものでしょうか。
仏教が示すのは、この境界線は私たちの認識が作り出した幻想にすぎないということです。
身体を構成する細胞は、数年ですべて入れ替わります。
記憶も、時間とともに変化し、再構成されていきます。
感情も、思考も、瞬間ごとに移り変わっていきます。
それなのに、なぜ私たちは「変わらない私」が存在すると信じているのでしょうか。
龍源:こんなにはそのインパクトを分解してみましょう。「私」を分解するということは、まず「私とは何か」を問うことになります。そして、それは他者との存在差を規定させていることです。すなわち相互存在関係に気づくということです。しかしそれを時間を経過させてみて説明したのが仏教の自分の考え方です。
龍源さんのこの言葉が示しているのは、「私」は他者との関係性の中でしか存在しないということです。
「私」は独立した実体ではなく、無数の関係性が交差する結節点にすぎません。
親との関係、友人との関係、社会との関係。
これらの関係性が「私」を形作っているのであり、関係性が変われば「私」も変わるんです。
そして、時間という軸を加えれば、「私」はさらに流動的になります。
10年前の「私」と今の「私」は、同じ「私」でしょうか。
記憶がつながっているから同じだと感じますが、身体も思考も感情も、すべて変わっています。
では、何が「私」を「私」たらしめているのか。
仏教の答えは明確です。
「変わらない私」など、最初から存在しなかったんです。
私たちは、変化し続ける流れの中に「私」という固定点を見出そうとしているだけなんです。
この固定点への執着が、苦しみを生みます。
「私はこういう人間だ」という固定観念。
「私の人生はこうあるべきだ」という固定的な理想。
「私の考えが正しい」という固定的な信念。
これらはすべて、変化し続ける現実に対して、私たちが勝手に設定した固定点です。
でも現実は変化し続けます。
固定点と現実との間に、ギャップが生まれます。
このギャップが、苦しみとして体験されるんです。
深井:自分というのは「私」なるものが持っているものの本質的な実在を規定させていると想識したものは、それが私の問題ですと。そこから、次の瞬間に何かされたら私があると認識されて、次の瞬間に変化していきます。すべてのものが次の瞬間に変化する。
深井さんのこの整理が示しているのは、「私」の可変性です。
私たちは「私」を固定的なものとして認識していますが、実際には瞬間ごとに変化している。
この変化を認めることが、仏教の出発点なんです。
「私」を固定化することをやめる。
「私」を外側から眺める。
「私」という境界を緩め、溶かしていく。
これが、仏教が2500年前から実践してきた方法です。
そして、これは単なる思想ではなく、具体的な実践として伝えられてきました。
瞑想は、まさにこの「私を外側に置く」訓練です。
自分の思考を観察し、感情を観察し、身体の感覚を観察する。
観察している「私」と、観察されている「私」を分離させることで、「私」の固定性が揺らいでいくんです。
現代の私たちは、この仏教の智慧を必要としています。
なぜなら、変化のスピードがかつてないほど速くなっているからです。
「私はこういう人間だ」という固定観念を持ち続けることが、ますます難しくなっています。
でも、それは苦しみではなく、実は解放のチャンスなんです。
「私」を固定化しなければ、変化に抵抗する必要がなくなります。
変化と共に流れ、漂い、溶けていくことができるようになるんです。
2500年前の先見性――境界を溶かす知恵
仏教が2500年前に到達していた洞察は、驚くべきことに現代の科学によって裏付けられつつあります。
認知科学、脳科学、心理学。
これらの最先端の研究が示しているのは、仏教がずっと語ってきたことなんです。
「私」という固定的な実体は存在しない。
「私」は脳が作り出した便利なフィクションにすぎない。
そして、このフィクションを信じ込むことが、私たちの苦しみの源泉になっている。
深井:まさに「自分をメタ認知しよう」と言っているわけですね。もっと広い視点から自分を俯瞰すれば、たとえ状況は変わらなくても、心の持ちようは変わります。つまり幸福は心が決めるものではないのに、どうして他者を思い通りにしようとするのか」というお釈迦様の言葉があります。まさにメタ認知ですよね。
深井さんが「メタ認知」という言葉で表現しているのは、まさに仏教の核心です。
メタ認知とは、自分の認知を認知すること。
つまり、考えている自分を、さらに外側から観察することです。
現代の心理学や教育学では、このメタ認知能力が非常に重視されています。
メタ認知ができる人は、自分の思考の癖に気づき、感情に飲み込まれず、柔軟に対応できるからです。
でも、この「メタ認知」という概念を、仏教は2500年前から実践してきたんです。
瞑想とは、まさにメタ認知の訓練です。
自分の思考を観察し、「今、怒りの感情が生まれている」と客観的に捉える。
感情に同一化するのではなく、感情を外側から眺める。
この訓練を通じて、「私」という固定点から距離を取ることができるようになるんです。
龍源:ええ。そして仏教の自分の考え方です。私も物事もいつか必ず消え去らせる。可変性というもの、可能性というもの、作在させないそれは「私であると同時に私でないものの」の実在が永遠に続くというそれが仏教の核心ではないかと思います。
龍源さんのこの言葉が示しているのは、仏教の時間軸です。
「私」は固定的に存在するのではなく、瞬間ごとに生成と消滅を繰り返している。
「私であると同時に私でないもの」。
この矛盾した表現こそが、「私」の本質を言い当てています。
今この瞬間の「私」は、次の瞬間にはもう別の「私」になっている。
でも、記憶という連続性があるから、私たちは「同じ私」だと感じるんです。
現代の脳科学は、この仏教の洞察を裏付けています。
私たちの脳は、バラバラの情報を統合して「私」という一貫したストーリーを作り出しています。
でも、そのストーリーは後付けなんです。
脳が「私」というフィクションを維持するために、常に記憶を編集し、都合よく再構成しているんです。
つまり、「私」は実体ではなく、脳が作り出したプロセスなんです。
この科学的知見は、仏教が語ってきた「無我」そのものです。
龍源:こんなことはそのインパクトを分解してみましょう。したがってベクトルは一つに限定できませんよ。ベクトルは内部や種類など多様になります。ペクトル・ベリシンタシー、だとすると限定に限定してますよ。あるものが実体としてそれが仏教の核心ではないかと。
龍源さんが「ベクトルは一つに限定できない」と言っているのは、「私」が多方向に開かれた存在だということです。
「私」を一つの固定点として捉えるのではなく、無数のベクトルが交差する場として捉える。
このベクトルは、他者との関係、環境との相互作用、過去からの影響、未来への可能性など、多次元的に広がっています。
そして、これらのベクトルは常に変化しているんです。
ここで重要なのが、「自他の境界を溶かす」という視点です。
「私」と「他者」という境界は、実は明確ではありません。
私たちは、他者の言葉によって考えを変え、他者の感情によって自分の感情が動かされます。
文化、言語、知識、すべて他者から受け継いだものです。
では、どこまでが「私」で、どこからが「他者」なのでしょうか。
境界線は曖昧で、流動的なんです。
野村:少し飛びますけど、世界は自分の認識でできているわけです。確固たるものだなんて話になってきました。
野村さんのこの指摘が示しているのは、「世界」もまた私たちの認識によって構成されているということです。
客観的な「世界」があって、それを私たちが認識しているのではありません。
私たちの認識が「世界」を作り出しているんです。
これは、量子力学が示している観測者効果とも通じています。
観測するという行為そのものが、観測対象に影響を与える。
観測者と観測対象は、完全に分離できません。
同じように、「私」と「世界」も完全には分離できないんです。
「私」は世界の中にあり、同時に世界は「私」の認識の中にある。
この相互浸透性を理解することが、「境界を溶かす」ということなんです。
現代の私たちは、「私」の境界を強固にすることで自分を守ろうとします。
SNSでは「いいね」の数で自己価値を測り、他者との比較で一喜一憂します。
でも、これは「私」を固定化し、強化しようとする試みです。
そして、それは必然的に苦しみを生むんです。
なぜなら、「私」を強化すればするほど、「私でないもの」との対立が激しくなるからです。
仏教が示す道は、その逆です。
「私」の境界を緩め、溶かしていく。
「私」と「他者」、「私」と「世界」の境界を曖昧にしていく。
そうすることで、対立ではなく調和が生まれるんです。
深井:証明はできないけど、言っておいたほうがいいんじゃないかと釈迦は思ったということですが、龍源:ええ。あれだけロジカルなお釈迦様がポンと言葉に出したのは、この可能性に気づいていたんじゃないかと思うのです。
この対話が示しているのは、釈迦の先見性です。
論理的に証明できないことでも、直観として重要なことは伝えておく。
これは科学的な態度とは違いますが、人間の知恵としては非常に重要です。
なぜなら、すべてが証明されるのを待っていたら、人生は終わってしまうからです。
釈迦は、自分の実践と洞察から、「これは真実だ」と確信したことを語りました。
そして2500年後、現代科学がそれを裏付けつつあるんです。
「私」は固定的な実体ではない。
「私」と「他者」の境界は流動的である。
認識が世界を構成している。
これらの洞察は、今まさに私たちが必要としている知恵なんです。
漂い、溶けることの自由
では、「私」の境界を溶かすことは、具体的にどのような自由をもたらすのでしょうか。
それは、変化に抵抗しなくなるということです。
固定的な「私」を持つことは、ある意味で安心感を与えてくれます。
「私はこういう人間だ」という確信は、アイデンティティの拠り所になります。
でも同時に、それは檻にもなるんです。
「私はこういう人間だから、こうすべきだ」
「私はこういう人間だから、これはできない」
固定的な自己像は、可能性を制限してしまうんです。
そして、変化の激しい現代において、この固定性は致命的な弱点になります。
10年前の常識が通用しなくなり、昨日まで正しかったことが今日は間違いになる。
こうした環境で「私は変わらない」と主張することは、時代から取り残されることを意味します。
でも、「私」を固定しなければ、どうなるでしょうか。
変化を脅威としてではなく、自然な流れとして受け入れられるようになります。
「私」が流動的であれば、環境の変化に応じて柔軟に形を変えることができるんです。
深井:証明はできないけど、言っておいたほうがいいんじゃないかと釈迦は思ったということですが、龍源:ええ。あれだけロジカルなお釈迦様がポンと言葉に出したのは、この可能性に気づいていたんじゃないかと思うのです。野村:今のお話を聞いて最近言われている「ステークホルダー資本主義」を思い出しました。利害関係者が重視すべき人・企業は、働きやすさや、働く意味や生きがいを重視する。
野村さんが引いた「ステークホルダー資本主義」の例は、まさに現代的な文脈での「境界の溶解」を示しています。
従来の資本主義は、株主という「私」の利益を最大化することが目的でした。
でも、ステークホルダー資本主義は、企業と社会の境界を溶かそうとしています。
従業員、顧客、地域社会、環境。
これらすべてとの関係性の中で、企業の価値を捉え直すんです。
これは「企業という私」の境界を緩め、より広い関係性の中に溶かしていく試みです。
そして、この変化は企業だけでなく、個人のレベルでも起きています。
「働くこと」の意味が変わってきているんです。
かつては、「会社という組織に所属すること」が「私」のアイデンティティでした。
「私は○○社の社員です」という自己紹介が、「私」を定義していました。
でも今、多くの人が組織の枠を超えた「私」を模索しています。
複数の仕事を持つ人、フリーランスとして働く人、プロジェクトごとに異なるチームで働く人。
「私」は一つの組織に固定されず、流動的に変化していくんです。
これは不安定さではなく、新しい形の自由なんです。
でもちろん「私がいつまでもある」「あの人がいつまでもある」これはもちろん「これはもっとべき」と固定観念になりますよ、ですから一度「外し手してしまう」それを外したのが段階として、仏教学においてはありありあるのです。
龍源さんのこの言葉が示しているのは、「私」を一度外してみるという実践です。
「私がいつまでもある」という固定観念を、一度外してみる。
すると、何が見えてくるでしょうか。
「私」がなくても、世界は続いている。
「私」がなくても、思考は流れ、感情は動き、身体は機能している。
では、「私」とは何だったのか。
それは、これらの流れに後付けされた「所有者」というラベルにすぎなかったんです。
この気づきが、深い解放感をもたらします。
「私」を守らなければならないというプレッシャーから解放されます。
「私」を大きく見せなければならないという強迫から解放されます。
「私」が傷つくことを恐れる必要がなくなります。
なぜなら、「私」は最初から固定的に存在していなかったからです。
これは虚無主義ではありません。
むしろ、逆なんです。
「私」という境界がなくなることで、世界全体と一つになれるんです。没入、没個性。
この言葉は、「私」を失うことではなく、「私」という檻から解放されることを意味します。
何かに没入しているとき、「私」は消えています。
音楽に没入しているとき、絵を描くことに没入しているとき、誰かとの対話に没入しているとき。
そこには「私」という自意識はなく、ただ流れがあるだけです。
そして、その瞬間こそが、最も自由で、最も生き生きとした瞬間なんです。
深井:まさに「自分をメタ認知しよう」と言っているわけですね。もっと広い視点から自分を俯瞰すれば、たとえ状況は変わらなくても、心の持ちようは変わります。つまり幸福は心が決めるものではないのに、どうして他者を思い通りにしようとするのか」というお釈迦様の言葉があります。
釈迦の「状況ではなく、心の持ちようを変える」という教えは、現代でこそ重要な意味を持ちます。
私たちは、外側の状況をコントロールしようとして疲弊しています。
収入を増やし、地位を上げ、他者から認められようとします。
でも、外側の状況は思い通りにならないことの方が多いんです。
そして、思い通りにならないとき、私たちは苦しみます。
仏教が示す別の道は、外側ではなく内側を変えることです。
状況は変わらなくても、それをどう受け取るかは変えられます。
そして、受け取り方を変えるためには、「私」という固定点を緩める必要があるんです。
「私はこうあるべきだ」という固定観念。
「私の人生はこうでなければならない」という執着。
これらを手放したとき、状況がどうであれ、心は自由になれます。
変化の時代を生きる私たちに必要なのは、まさにこの自由です。
環境が変わっても、「私」を固定せずに漂える柔軟性。
他者との境界を溶かし、世界と一つになれる没入感。
固定的な自己像を手放し、瞬間ごとに新しく生まれ変われる軽やかさ。
これらはすべて、仏教が2500年前から実践してきたことなんです。
そして今、AI時代、不確実性の時代、変化の時代を迎えて、この古代の智慧が最先端の生き方になっているんです。
本書を通じて深井さんと龍源さんが示してくれるのは、仏教が単なる宗教ではなく、「生き方のOS」だということです。
「私」というOSから、「無私」というOSへ。
固定から流動へ。
境界から溶解へ。
このOSのアップデートこそが、現代を自由に生きるための鍵なんです。
私たちは、自分の認識を変えることができます。
「私」という固定観念を、一度外してみることができます。
そして、漂い、溶け、世界と一つになることができるんです。
その自由を、2500年前の釈迦は知っていました。
そして今、私たちもその自由を手に入れることができます。
本書は、その実践への第一歩を示してくれているんです。
まとめ
- 「私」という固定観念を疑う――西洋哲学がデカルトの「我思う、ゆえに我あり」から出発したのに対し、仏教は2500年前から「私」という固定観念そのものを疑ってきました。「私」は独立した実体ではなく、常に変化し続ける関係性の束にすぎません。この固定点への執着が苦しみを生み、「私」を外側から眺めることで、思考の柔軟性が生まれるのです。
- 2500年前の先見性――境界を溶かす知恵――仏教が到達していた「メタ認知」という視点は、現代の認知科学や脳科学によって裏付けられつつあります。「私」は脳が作り出した便利なフィクションであり、瞬間ごとに生成と消滅を繰り返しています。「私」と「他者」、「私」と「世界」の境界は流動的であり、この境界を溶かすことで対立ではなく調和が生まれるのです。
- 漂い、溶けることの自由――固定的な「私」を手放すことは、変化に抵抗しなくなることを意味します。環境の変化に応じて柔軟に形を変え、没入し、世界と一つになる。この「没個性」は「私」を失うことではなく、「私」という檻からの解放です。状況ではなく認識を変えることで、変化の時代を自由に生きることができるのです。
