私たちは、常に可能性である!?『ビジネスシーンを生き抜くための仏教思考』松波龍源,野村高文

『ビジネスシーンを生き抜くための仏教思考』松波龍源,野村高文の書影と手描きアイキャッチ
  • 私たちが「見ている」この世界は、本当に存在しているのでしょうか。
  • 実は、世界は観測されるまで「空」であり、認識する「私」によって初めて確定するんです。
  • なぜなら、仏教の唯識論は量子力学と驚くほど似た構造を持ち、認識と存在の関係を2500年も前から説明していたからです。
  • 本書は、「空」「唯識」「無意識」という三層構造を通じて、世界が完成と未完成を同時に抱えるパラドックスを解き明かします。
  • 本書を通じて、自己犠牲ではない真の利他とは何か、ネットワークの一部としての自分をどう捉えるべきかが見えてきます。
松波龍源,野村高文
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松波龍源さんは、京都で「実験寺院」寳幢寺の僧院長を務める異色の僧侶です。

大阪外国語大学でミャンマーの仏教儀礼を研究していましたが、研究よりも実践に惹かれて出家されました。

現在は学生、研究者、起業家、医師、看護師などと共に「人類社会のアップデート=仏教の社会実装」という壮大な仮説の実証実験に取り組んでおられます。

一方の野村高文さんは、東京大学文学部を卒業後、PHP研究所、ボストン・コンサルティング・グループ、ニューズピックスを経て独立した音声プロデューサーです。

制作した「a scope」「経営中毒」でJAPAN PODCAST AWARDベストナレッジ賞を2年連続受賞するなど、複雑な思想を分かりやすく伝えることに定評があります。

本書『ビジネスシーンを生き抜くための仏教思考』においては、この2人のコラボレーションだからこそ、仏教の深遠な哲学が、現代人にとって実践的な思考法として提示されているのです。

今回は、前回に続き、空、唯識などの概念とともに、私たちがどのように世界を認識することが“無理がなく”、“ロジカルで”、“仏教的なのか”を見つめていきたいと思います。

前回の投稿はこちら「仏教は超ロジカル!?『ビジネスシーンを生き抜くための仏教思考』松波龍源,野村高文」からぜひご覧ください。

「私」が世界を確定させる――認識と存在の量子力学的関係

世界は私たちが見る前から、そこに存在しているのでしょうか。

この問いに対して、仏教は驚くべき答えを用意しています。

本書では「認識力を持った存在が、その力を向けたからこそ、そのものの存在が確定していると考えます」と述べられています。

つまり、観測されない限り、世界は「空」のままなんです。

認識力を持った存在とは、要するに「私」ですね。もちろん「私」も本質は「空」なので絶対性はありませんが、そこにたわむと前に進まなくなるので、認識する自分の心は、「因果関係の集束として存在している」と仮定します。

この考え方は、量子力学における観測問題と驚くほど似ています。

量子力学では、電子は観測されるまで粒子でもあり波でもある重ね合わせの状態にあります。

観測という行為によって初めて、電子の状態が確定するんです。

本書でも「唯識の理論は、量子力学とよく似ている」と明確に述べられています。

電子は観測されていると粒子としてふるまい、観測されていないときには波として振る舞うという結果が出たのです。この結果は「電子は、観測されることで初めて粒子状になるのではないか」と世界中に驚きをもたらしました。この疑問を解くため、電子は観測されていないときは「粒子」でもあり「波」でもあり、そのどちらでもありませんか? 観測(認識)されないうちは「空」であり可能性としてのみ存在し、観測された瞬間に意味を持ち、存在が確定する。

世界は「私」の認識があって初めて成り立つという、唯識の基礎的な考え方です。

ここで重要なのは、仏教が単なる精神論ではなく、極めて科学的な世界観を持っているということです。

西洋哲学と仏教の違いを見ると、その独自性がよく分かります。

西洋哲学仏教
究極的な真理不変不動の確固たる真理が実在する実在するものはなく、関係性やネットワークそのもの
探求の対象認識の対象物認識する心

西洋哲学が「客観的な真理」を探求するのに対し、仏教は「認識する心」そのものを探求の対象とするんです。

つまり、仏教は世界を理解するために、まず自分の認識のメカニズムを理解しようとします。

これは現代のビジネスにも応用できる視点ではないでしょうか。

問題を外部に探すのではなく、自分の認識フレームワークを問い直すことで、解決の糸口が見つかることは多いんです。

完成と未完成の同時性――言葉が開く世界認識の扉

世界は完成しているのか、それとも未完成なのか。

この問いに対して、仏教は「両方だ」と答えます。

これは一見矛盾しているように思えますが、実は深い洞察を含んでいるんです。

本書では、フロイトの「無意識論」と仏教の「唯識論の8段階」の類似性が指摘されています。

フロイトの「無意識論」とも近い、唯識論の8段階

唯識論では、人間の認識を8つの段階で説明します。

  • 1)眼識(げんしき) ― 視覚による認識
  • 2)耳識(にしき) ― 聴覚による認識
  • 3)鼻識(びしき) ― 嗅覚による認識
  • 4)舌識(ぜっしき) ― 味覚による認識
  • 5)身識(しんしき) ― 触覚による認識
  • 6)意識(いしき) ― 五感の情報を統合し、思考や判断を行う表層意識
  • 7)末那識(まなしき) ― 非言語の潜在意識。過去の経験や感情が蓄積され、「好き・嫌い」などの条件づけを生む領域
  • 8)阿頼耶識(あらやしき) ― 個を超えた集合的無意識。時間・空間を超越して存在する、すべての経験が蓄積された根源的意識

1~5は五感による直接的な認識です。そして、その五感を統合するのが、6の意識です。そして仏教では、そのさらに奥に潜在的な意識が存在するとしています。

7番目、意識下2段階目の認識を「末那識」を見てみましょう。

末那識は非言語の潜在意識で、その人がこれまでに思考した、感じた、あるいは体験した何かが一つ失われることなく蓄積されている領域です。

その中から因果関係によって「好き・嫌い」のような条件づけがなされ、言語化理性では制御できない衝動や理由として発現してきます。

さらにその内部には、8番目、3段階目の認識である「阿頼耶識」があります。

これは個の根源だとされているもので、個別具体的な内容を超えた、時間も空間も超越して存在する集合的無意識とでもいいましょうか。

自分という個体を超えて、人類、宇宙、空間がこれまで経験してきた「苦」の概念を、いつどんな状況でも完全にシャットアウトできる心の使い方ができるようになることです。

ですから、「私」という個体が形を保てなくなる(死ぬ)ことは、阿頼耶識という集合的無意識に吸収されるようなものかもしれません。

そこに個体として存在し続けようとするベクトルがあると、波が海に落ちる人に衝撃が生まれ、次の波が立ち上がったとしても、これを輪廻といってしまうと考えるとよいでしょう。

阿頼耶識という完全なる意識の集合体からして見れば、ここで重要なのは、世界は常に完成した状態で存在しているということです。

すべての可能性が「空」という海のように横たわる因果関係があり、そこから立ち上がった波頭のようなものが、未完成だと捉えているのだ、と、考えるとよいでしょう。

私たちが「これは未完成だ」と感じるのは、実は認識の問題なんです。

完成した全体から、私たちが一部分だけを切り取って見ているから、未完成に見えるだけです。

そして、私たちがこの複雑な世界を認識できるのは、言葉があるからです。

言葉がなければ、世界は分節化されず、私たちは何も理解できません。言葉によって初めて、私たちは世界を「こういうもの」として認識し、意味を与えることができるんです。

これは本当に素晴らしいことだと思います。

世界が常に完成しているということは、今この瞬間も、すべての可能性が同時に存在しているということです。

私たちはそこから、言葉を使って特定の現実を切り取り、経験しているんです。

松波龍源,野村高文
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自己犠牲は利他ではない――つながりの中での全体最適

仏教は、世界の哲学や宗教の中でも「変わり者」です。

本書では次のように説明されています。

仏教は、世界の哲学や宗教の中でも「変わり者」。ーーものごとに絶対性を認めないのは、仏教のみです。ヒンドゥー教、キリスト教、イスラム教、ユダヤ教やシク教といったインドの思想体系と比べても、アートマンを否定する点は飛び抜けて変わっています。

西洋のキリスト教では「神道は絶対である」という前提で語られますよね。

仏教では、仏陀のような偉い存在さえも、現象として観測する絶対性を徹底的に否定します。

仏陀も神様も、その本質はすべて「空」であると考えるからです。

すべては同じ「空」から立ち上がる現象では平等であり、私たちにも解脱の作用が整えば、仏陀になり得るんです。そして、当然のように仏陀になりえる可能性は万人が、いますでに持っているということであり、そのことに調和すること自体が、仏性の現れ、つまり即仏であるということになります。

この「絶対性の否定」という姿勢は、自己犠牲の問題を考える上で重要な視点を与えてくれます。

自己犠牲は利他ではない

日本で美徳とされがちな自己犠牲や滅私奉公の精神は、本来の仏教的な意味では利他といえません。

先ほどの等式を思い出してください。

「私=私以外のすべてのもの」とイコールで結ばれているので、「私」の幸せのための行為は他者の幸せにもなるし、他者の幸せは「私」の幸せにもつながります。

つまり、自己犠牲によって「私」が苦しむことは、全体の苦しみを増やすことになるんです。

真の利他とは、自分を含めた全体が良くなることです。

私たちは「より良く生きたい」という本能を持った生物ですから、自分の利益を考えること自体が悪いわけではありません。大切なのはその際に、自分は他者と切り離せない存在であり、大きなネットワークの一部である事実を忘れないことです。

これは現代のビジネス環境でも非常に重要な視点です。

短期的な自己利益を追求することが、長期的には全体の損失につながることは多いんです。

一方で、自己犠牲的に働き続けることも、個人の燃え尽きや組織の持続可能性を損なうことになります。

結局、「さとり」とは何か では、修行のゴールである「さとり」とは何でしょうか。 それは、自己コントロールによって因果関係を正しく認識し、因果関係がもたらす「苦」の概念を、いつどんな状況でも完全にシャットアウトできる心の使い方ができるようになることです。

「さとり」とは、自分も他者も含めた全体のネットワークの中で、因果関係を正しく認識し、全体が良くなる方向に行動できる状態なんです。

独りよがりでもなく、自己犠牲でもない。

ネットワークの一部としての自分を認識し、つながりの中で全体が良くなっていくことを目指す。

これこそが、仏教が教える真の利他であり、現代社会を生きる私たちにとって最も実践的な知恵ではないでしょうか。

2025年も増田みはらし書店をご利用くださいまして、ありがとうございました。

みなさまのおかげで、1日1冊のレビューを積み重ねることができました。

2026年も変わらず、1冊1冊を丁寧にレビューしながら、ご一緒に新しい論点を見出し続けてまいります。

どうぞ良いお年をお迎えください!!それでは、また明日。

まとめ

  • 「私」が世界を確定させる――認識と存在の量子力学的関係――仏教の唯識論は、認識する「私」によって世界が確定するという量子力学的な世界観を2500年前から提示していました。西洋哲学が客観的真理を探求するのに対し、仏教は認識する心そのものを探求対象とし、問題解決においても自分の認識フレームワークを問い直す重要性を示しています。
  • 完成と未完成の同時性――言葉が開く世界認識の扉――世界は「空」という可能性の海として常に完成しており、同時に私たちの認識によって切り取られた部分は未完成でもあります。フロイトの無意識論と類似する唯識の8段階は、言葉によって初めて世界を分節化し認識できることの素晴らしさを教えてくれます。
  • 自己犠牲は利他ではない――つながりの中での全体最適――仏教は絶対性を認めない「変わり者」の思想であり、自己犠牲を美徳としません。真の利他とは、自分も含めたネットワーク全体が良くなることです。独りよがりでも自己犠牲でもなく、つながりの中での全体最適を目指す姿勢こそが、現代社会で実践すべき仏教的知恵といえます。
松波龍源,野村高文
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