勝ち続けることに疲れたら、始めることとは!?『人生というクソゲーを変えるための仏教』ネルケ無方

『人生というクソゲーを変えるための仏教』ネルケ無方の書影と手描きアイキャッチ
  • なぜ私たちは、勝ち続けることに疲れているのに、ゲームをやめられないのでしょうか。
  • 実は、人間は本質的にゲームを好む生き物です。目標を立て、努力し、達成する――このサイクルに快楽を感じる。でもその性質こそが、終わりなき競争や比較、執着を生み出し、苦しみの源になっているんです。
  • なぜなら、仏教は本来、そのゲーム性から降りるための思想として生まれたからです。勝ち負けや優劣といった枠組みそのものから自由になること。ところが気づけば、悟りという「ゴール」を設定し、修行という「レベル上げ」を備えた精巧なゲームへと変質していきました。解放を目指す教えが、いつの間にか新たな達成システムを構築してしまうという皮肉。
  • 本書は、ドイツ出身の禅僧ネルケ無方が、この仏教の根本的な矛盾に真正面から向き合った一冊です。「人生というクソゲー」という挑発的なタイトルが象徴するように、人生のゲーム性と、そこから逃れようとする仏教がまた別のゲームになるパラドックスを、率直な言葉で解きほぐしていきます。
  • 本書を通じて、私たちは「より良く生きる方法」ではなく、「生き方そのものを疑う視点」を手に入れることができます。努力や成長、目標達成といった価値観に違和感を覚えたことがある人ほど、深く刺さる思想がここにあるんです。
ネルケ無方
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ネルケ無方さんは、1968年にドイツで生まれ、16歳で坐禅と出会い、その後日本に渡って禅僧となった方です。

大学で哲学を学んだ後、23歳で来日し、兵庫県の安泰寺で修行を積みました。ドイツという西洋哲学の伝統の中で育ちながら、東洋の禅に深く傾倒していった経緯は、彼の思想に独特の視点をもたらしています。

現在は曹洞宗の僧侶として、坐禅や仏教の実践を通じて、現代人が抱える生きづらさに向き合い続けています。ドイツ人としての客観的な視点と、禅僧としての実践的な経験が融合した彼の言葉は、仏教を単なる精神論ではなく、人生という構造そのものを問い直す思想として提示してくれます。

本書はまさに、西洋と東洋、哲学と実践、批判と実感が交差する地点から生まれた、極めてユニークで、ある意味俯瞰的な仏教論と言えるでしょう。

仏教が陥った逆説――ゲームから逃れるためのゲーム

私たちは、なぜゲームをやめられないのでしょうか。

仕事で成果を出す、資格を取る、SNSでいいねを集める、体重を減らす、本を読む――私たちの日常は、小さなゲームの連続です。

目標を設定し、努力し、達成する。このサイクルは心地よく、達成感という報酬が得られます。でもその報酬は一時的で、すぐに次の目標を求めてしまう。

終わりがないんです。

勝ち続けることに疲れているのに、ゲームから降りることができない。なぜなら、ゲームの外に何があるのか分からないからです。目標のない人生、達成のない日々――それは空虚に思えてしまう。

この構造こそが、苦しみの源なんです。

仏教は本来、このゲーム性から降りるための思想として生まれました。勝ち負けや優劣といった枠組みそのものから自由になること。それが仏教の出発点だったわけです。

ところが、皮肉なことに――

人生というゲームから解放されるために生まれたはずの仏教は、気づけば自分自身もまた一つのゲームになっていた。

この構造は、私たちの日常とまったく同じなんです。

その解放を目指す過程で、仏教は独自の「勝利条件」を設定してしまいました。悟りという明確なゴール、戒律という達成すべきルール、修行という積み重ねるべき努力。これらはすべて、ゲーム的な構造そのものなんです。

仏教は“勝たないための道”を説いたはずなのに、いつの間にか勝敗や段階を備えた精巧なゲームを構築してしまった。

この逆説は、仏教だけの問題ではありません。

私たちが「競争から降りよう」「もっと自由に生きよう」と思った瞬間、その思考自体が新たな目標設定になってしまう。自由になるための努力、解放されるための修行――言葉にした途端、矛盾が露呈するんです。

苦しみから逃れようとすること自体が、ゲーム化していく・・・。

この変質は、避けられないものなのかもしれません。

なぜなら人間は、目標なき営みを続けることが極めて苦手だからです。

何のために坐禅をするのか、何のために戒律を守るのか――そう問われた瞬間、私たちは「悟りを得るため」と答えてしまう。その瞬間、仏教はゲームになります。

仏教の中でも特に顕著なのが、「すでに仏である」という思想と「修行する」という実践の矛盾です。

すでに仏であるなら、なぜ修行するのかという問いは、仏教が抱え続けてきた最大の矛盾である。

大乗仏教の核心には「一切衆生悉有仏性(いっさいしゅじょうしつうぶっしょう)」という考えがあります。すべての生き物は、すでに仏としての本性を持っているという思想です。

だとすれば、修行は何のためにあるのでしょうか。すでに持っているものを獲得する努力とは、いったい何なのか。

悟りとは獲得するものではなく、すでに起きている事実に気づくことにすぎない。

この答えは一見、矛盾を解消しているように見えます。
修行とは「新たに何かになる」ためではなく、「すでにそうである自分に気づく」ためだと。

しかし、それでもパラドックスは残るんです。

気づくための努力をしている時点で、それは「気づいていない自分」を前提にしています。気づくべき目標がある限り、それは依然としてゲームの構造を保っているわけです。

修行は仏になるためではなく、仏として生きていることを自覚するためにある。

この説明は美しいけれど、やはり「自覚すべき状態」という新たなゴールを設定してしまっています。

到達すべきゴールがあると思った瞬間、修行はゲームになる。

まさにこれが、仏教の抜け出せないジレンマなんです。

ゴールを設定すればゲームになる。しかしゴールなき修行は、動機を失って続けられなくなる。勝利条件を否定するために、別の勝利条件が用意されてしまうという、この構造的な罠

私たちが日常で感じているゲームからの疲労と、まったく同じ構造が、仏教の中にも存在しているんです。

では、この逆説から本当に逃れる道はあるのでしょうか。

道元が示した道――ゲームそのものから降りる

道元は、この仏教のジレンマに対して、極端とも言える答えを提示しました。

道元は、仏教というゲームそのものから降りるために、禅という極端な選択をした。

道元の思想の核心は「修証一等」――修行と悟りは別々のものではなく、同時に起きているという考え方です。修行すれば悟れるという因果関係ではなく、修行している瞬間がすでに悟りの現れだという主張。

これは単なる理論ではなく、徹底した実践として現れます。それが坐禅なんです。

坐禅とは、何かを得るための行為ではなく、得ようとする衝動そのものを手放す実践である。

道元の坐禅には、明確な目的がありません。

健康のため、心の平穏のため、悟りのため――そうした一切の理由を排除した、ただ坐るという行為。これは、仏教の修行としては異様なほど純粋です。

多くの仏教の修行には、何らかの「効果」が期待されています。慈悲の心を養う、煩悩を滅する、智慧を得る――目的があり、それに向かって進むという構造がある。

しかし道元の坐禅は、そうした一切の目的設定を拒否するんです。

悟ろうとしない坐禅こそが、悟りを最も遠ざける発想を壊す。

この徹底ぶりは、ある意味で狂気的とも言えます。

何の役にも立たない、何も得られない、ただ坐るだけ――そんな行為を続けることに、どんな意味があるのか。普通なら、そう問いたくなります。

でもその「意味を求める問い」こそが、すでにゲームの論理に囚われている証拠なんです。

坐禅に意味を求めた瞬間、それは「意味を得るための手段」になってしまう。
坐禅という行為が、また別の目標達成のツールに成り下がる。

道元はそれを徹底的に拒んだわけです。

ただ坐る。それ以上でも以下でもないという徹底。

この「ただ」という言葉の重みを、私たちは理解する必要があります。

ただ坐るとは、坐禅を通じて何かを得ようとしないこと。坐禅によって変化しようとしないこと。坐禅を、人生というゲームの攻略法にしないこと。

道元の禅は、あらゆる目的論からの完全な離脱を要求します。

それは「より良くなるための努力」という、私たちが最も疑わない前提そのものへの挑戦なんです。成長しなくていい、向上しなくていい、ただそこに在ればいい――この思想の過激さ。

たとえば、現代の自己啓発やマインドフルネスは、ほとんどが「効果」を前提にしています。生産性が上がる、ストレスが減る、集中力が高まる――そうした「メリット」を語ることで、実践を正当化しようとする。

でも道元の坐禅は、そうした正当化すら必要としません。

坐禅は坐禅である。

それ以上の説明も、それ以下の言い訳も不要。

この思想的な潔さが、仏教というゲームから完全に降りる唯一の方法だと、道元は示したんです。

もちろん、これは極めて困難な道です。

目的なき行為を続けることは、人間にとって本質的に難しい。
私たちは常に「なぜ」を問い、「何のために」を求める生き物だからです。

でも逆に言えば、だからこそ道元の思想は価値があるんです。

ゲームから降りる方法は、新しいゲームを始めることではない。
ゲームという枠組み自体を、根底から問い直すこと。

道元の禅は、その最も徹底した試みだと言えます。

ネルケ無方
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自由意志とマインドフルネスの幻想

ネルケ無方は、仏教的な思考をさらに深めて、私たちの「主体性」そのものに疑問を投げかけます。

自由意志があってもなくても、私たちの人生はほとんど変わらない。

私たちは普段、自分の意志で選択し、自分の判断で行動していると信じています。主体的に生きること、自分の人生を自分で決めること――これは現代社会で最も尊重される価値観の一つです。

でもネルケ無方は、その前提を揺さぶるんです。

自由意志が幻想だと知ったところで、昨日までの行動が消えるわけではない。

仏教には「無我」という思想があります。固定的な自己など存在せず、私たちは常に変化し続ける現象の集まりにすぎないという考え方です。

この思想を徹底すれば、「自分が選択している」という感覚自体が幻想だという結論に至ります。

自分で考えているつもりの思考の多くは、実際には勝手に浮かび、それに反応しているだけかもしれない。

試しに、今この瞬間、何も考えないでいてください。

できないはずです。思考は勝手に湧いてきます。次の予定、昨日の会話、漠然とした不安――頼んでもいないのに、思考は次々と現れる。

だとすれば、「自分が思考している」のではなく、「思考が起きている」だけなのかもしれません。

主体的に生きているという感覚そのものが、すでに後付けの物語である可能性。

この視点は、努力や成長という価値観を根本から問い直します。

もし私たちの選択が、実際には環境や遺伝、過去の経験の総和によって自動的に決まっているとしたら、「自分で決めた人生」という物語は、後から作られた錯覚にすぎないのかもしれません。

ただし、ネルケ無方はこの思想を虚無的に扱いません。

自由意志が幻想だとしても、私たちは依然として選択し、行動し、生きていきます。その事実は変わらない。

重要なのは、「自分が主体的にコントロールしている」という傲慢さから解放されることなんです。

この思想は、マインドフルネスの理解にも鋭い洞察を与えてくれます。

マインドフルネスとは、考えを止めることではなく、“考えていることに気づく瞬間”のことである。

現代では、マインドフルネスが一種のブームになっています。ストレス軽減、集中力向上、感情のコントロール――様々な効果が謳われ、企業研修にも取り入れられている。

でもネルケ無方は、マインドフルネスの本質を別の角度から捉えます。

呼吸に集中しようとする努力そのものが、すでに次の思考を生んでいる。

マインドフルネス瞑想では、よく「呼吸に意識を向ける」と教えられます。
雑念が浮かんだら、それに気づいて、また呼吸に戻る――この繰り返しが基本です。

でもこの実践自体が、すでに目的志向的なんです。

「雑念を減らそう」「集中しよう」という意図が、新たな思考を生み出している。マインドフルネスという技法が、また別の達成すべきスキルになってしまっている。

気づいた瞬間に、マインドフルネスは終わっている。

この指摘は本質的です。

マインドフルネスの本質は、「今、考えている」と気づく一瞬だけ。
その気づきの瞬間だけが、思考から離れた状態なんです。

でもその次の瞬間、「よし、気づけた」「これを続けよう」と思った時点で、
もうマインドフルネスではなくなっている。

“あ、今考えていた”と気づく、その一瞬だけが本物のマインドフルネスである。

この一瞬は、意図的に作り出せるものではありません。

努力して達成するものでも、訓練して上達するものでもない。ただ偶然、ふと気づく瞬間が訪れるだけ。

続けようとした瞬間、マインドフルネスは技法になる。

ここにも、仏教がゲーム化する構造が現れています。

マインドフルネスという「気づき」を、継続可能なスキルに変えようとした瞬間、それは「マインドフルネスというゲーム」になる。気づきの頻度を増やす、持続時間を伸ばす――そうした目標設定が、本質を見失わせるんです。

この本が提示しているのは、「より良く生きる方法」ではありません。

努力すれば報われる、成長すれば幸せになれる、目標を達成すれば満足できる――私たちはそうした前提のもとで生きています。

でもネルケ無方が示すのは、その前提そのものへの懐疑なんです。

努力や成長に違和感を覚えた人ほど、深く刺さる仏教論。

人生というゲームに疲れた人、勝ち続けることに意味を見出せなくなった人、そもそもなぜゲームをしているのか分からなくなった人――そういう人たちにこそ、この本は響きます。

なぜなら、この本が提示するのは「ゲームから勝つ方法」ではないからです。

ゲームから勝つ方法ではなく、ゲームに気づくことがテーマになっている。

人生がゲームだと気づくこと。

仏教もまたゲームだと気づくこと。

自由意志も、主体性も、マインドフルネスも、すべてがゲームの一部かもしれないと気づくこと。

その気づきの先に何があるのか、ネルケ無方は明確な答えを提示しません。

おそらく、答えなどないのでしょう。

答えを求めた瞬間、それはまた新しいゲームになってしまうのだから・・・・・

禅のマインドセットを知るには、こちらの1冊「生きること、そのすべてが、“禅”である!?『坐らぬ禅』ひろさちや」もぜひご覧ください。

まとめ

  • 仏教が陥った逆説――ゲームから逃れるためのゲーム――苦しみを捉え直して、苦しみから自由になる教えだった仏教は、いつの間にか悟りというゴール、修行という努力、戒律というルールを備えた精巧なゲームへと変質していきました。勝利条件を否定するために別の勝利条件が用意されるという、避けがたい逆説がそこにはあります。
  • 道元が示した道――ゲームそのものから降りる――道元の禅は、一切の目的を排除した「ただ坐る」という実践を通じて、仏教というゲームからも降りようとしました。何も得ようとせず、何も達成しようとせず、ただそこに在る――この徹底した姿勢が、ゲーム的思考からの唯一の脱出口を示しています。
  • 自由意志とマインドフルネスの幻想――私たちが主体的に生きていると信じる感覚そのものが、後付けの物語かもしれません。マインドフルネスも、気づいた一瞬だけが本物で、それを続けようとした瞬間に技法化してしまいます。この本は、より良く生きる方法ではなく、生き方そのものを疑う視点を与えてくれるのです。
ネルケ無方
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