- あなたは、自分なりの「哲学」を持っているだろうか?
- 実は、哲学とは難解な学問体系ではなく、誰もが持ちうる「自分なりの問いと答え」なんです。
- なぜなら、哲学するとは、水面に浮かんで世界を眺めることであり、それは特別な訓練ではなく、素直に「なぜ?」と問い続ける姿勢そのものだからです。
- 本書は、哲学者・永井均が、哲学の本質を「水面のメタファー」を通じて語り直す一冊です。
- 本書を通じて、他人の哲学を学ぶことの難しさと、自分自身の哲学を追求することの自由さ、その両方が見えてきます。
永井均さんは、1951年生まれの哲学者です。
慶應義塾大学文学部を卒業後、同大学院文学研究科博士課程で学び、現在は信州大学教授として哲学・倫理学を専攻しています。
永井さんの哲学は、難解な専門用語で語られるものではありません。
『翔太と猫のインサイトの夏休み』のように、物語形式で哲学を語ることもあれば、『〈私〉のメタフィジックス』『〈魂〉に対する態度』のように、根源的な問いを正面から扱うこともあります。
本書のタイトルにある〈子ども〉という表記に注目してください。
これは単に年齢の若い子どもを指すのではなく、誰もが心の中に持っている「なぜ?」と素直に問い続ける感覚のことなんです。
永井さんは、その〈子ども〉の感覚こそが哲学の原動力であると考え、本書を通じて「自分の哲学」を持つことの意味を問いかけています。
水面のメタファー――哲学する人としない人
永井さんは、哲学について実に印象的なメタファーを提示しています。
それは「水面」という境界線です。
哲学をすることは、ある点でやはり、祈ることに似ているだろう。ひとは、ふつん神の存在を信じていようといまいと、祈らざるをえない事態に陥ることなく人生を終えることもできるだろう(祈るとは、ふつうとは違う行為の仕方で、神の存在を信じる行為のことだろう)。同じように、哲学をせる文えない人は、哲学せずをえない。だからそその内的な問題論的であろうと、哲学をする人は、その行為の内で自分の神の存在を信じるのではないだろうか。
哲学という営みは、実は2種類あることになるんです。
水面に浮かぶ人にとっての哲学と、水中に沈みながらな人にとっての哲学。
前者は、水面に浮かびながら水面のふうらの生活を眺めるような営みであり、後者は、水中探検者に何か人生や世界に関する深い知識があるかのように思えて、そのことが水面での生活にどうやって役立つのか、なんで水中にいるのか理由がよくわからないというものです。
この区別は、とても重要なんです。
なぜなら、多くの人が「哲学」と聞いて想像するのは、難解な学問体系や、プラトンやカントといった偉大な思想家たちの理論だからです。
でも永井さんが言う「水面に浮かぶ人の哲学」は、そういうものではありません。
水中に沈みがたな人にとって、哲学とは、実は水面にいあがるための唯一の方法なのだよ。水面から沈んだときに初めて、水面の意味を知ることになるのだけれど、どうしてもそうは覚えてない。水中探検者には、何か人生や世界に関する深い知識があるように思えて、そのことが水面での生活にどうやって役立つのか、なんで、水中にいるのか理由がよくわからないよう(あるいはそれてくるような)問いが、まじめに考えられたりもする。この二種類の人間にとって、哲学の持つ意味はぜんぜん違う。
つまり、哲学的に思考するということは、水面まで浮かぶことによって、はじめて浮かび方の方法、というようなものを知ることになるんです。
そうじゃない人は、単に浮かび上がることができなかっただけなのだ、と。
そういう連中はたいてい、とさに(自己正当化のためだと思うけど)水中生活の意義を説いたりもするが、ほんとうは単に浮かび上がることができなかったたけなのだよ。
これは、実は非常に痛烈な指摘です。
哲学を「難しい学問」として語る人たちは、もしかしたら水中に沈んだまま、浮かび上がる方法を見失っているだけなのかもしれません。
永井さんがこの本で目指したのは、水底まで沈みきることによって、はじめて浮かび方の方法、といったようなものを示すことだったんです。
ぼくがこの本でめざしたのは、自分が水中に沈みがたな人間にとっての哲学のやり方といったものだった。つまり、水底まで沈みきることによって、はじめて浮かび方の方法、といったようなものを示すことだった。
私がこの視点を知れただけでも、本書を読んだ価値がありました。
哲学とは、特別な知識や訓練ではなく、ふたたび水面に浮かんで世界を眺めるという、ある種の「姿勢」なんです。
自分の哲学を持つということ
永井さんは、さらに重要なことを語っています。
それは「自分の哲学」と「他人の哲学」の根本的な違いです。
哲学はむずかしいと言われる。言葉がむずかしいから、というだけではない。ほんとうの理由はそんなところにはない。哲学がむずかしく思われるのは、それが他人の哲学だからだろう。それに対して、自分の哲学ほどわかりやすいものはない。なぜなら、それは言われるのではなく、自分で言うものだから。だれでも頭のいい人は論理的には理解するだろうけど、こむずかしい屁理屈の山にしか見えないだろう。それでも頭のいい人は論理的には理解するだろうけど、こむずかしい屁理屈の山にしか見えないだろうから。
この言葉には、哲学の本質が凝縮されています。
他人の哲学を理解することは、確かに難しいんです。
どれだけ論理的に理解しても、それは「屁理屈の山」にしか見えないかもしれません。
なぜなら、哲学とは本来、究極のわかりやすさそのものだからです。
それに対して、自分の哲学ほどわかりやすいものほない。なぜなら、それは言われるのではなく、自分で言うものだから。そこに生まれるのが哲学なのだから。どう考えたって、これほどわかりやすいものが外にあるわけがない。それはむずが、哲学とは本来、究極のわかりやすさそのもののことなのだ。
つまり、哲学とは「理解する」ものではなく、「自分で考える」ものなんです。
カントやヘーゲルの哲学を「学ぶ」ことは、確かに知的な営みではあります。
でもそれは、永井さんの言葉を借りれば「水中探検者の知識」を集めているようなものかもしれません。
本当に重要なのは、自分が水面に浮かび、自分の目で世界を見ることです。
みんなに、こう考えよう、こうしょう、と呼びかけるようなタイプの言説を、ぼくはけっして哲学とはみなさない。人々に正しい生き方を教えるもの、といったような哲学観を、ぼくはけっつけて認めない。
この姿勢は、とても潔いんです。
永井さんは、読者に「こう考えなさい」と教えるつもりはありません。
むしろ、読者一人ひとりが自分なりの問いを持ち、自分なりの答えを探すことを歓迎しているんです。
だからこそ、本書は「〈子ども〉のための哲学」というタイトルなんです。
〈子ども〉とは、素直に「なぜ?」「どうして?」と問い続ける存在です。
その問いに、他人が用意した答えを与えるのではなく、自分自身で考え続けることこそが哲学なんです。
〈子ども〉の感覚が開く哲学の扉
では、なぜ〈子ども〉なのか。
永井さんは、本書の最後でこう語っています。
自分自身の〈子ども〉の感覚から出発して、みずから哲学をしようとするひと、せざるをえないひとのために書いたのだ。この本が、そしてぼくの〈子ども〉の哲学が、ひとつの捨て石になって〈子ども〉たちがそれぞれ自律的に追求するひとが現れることを(いや現れることはなくとも存在するようになることを)ぼくは願っている。
ここに、永井さんの願いが込められています。
本書は、哲学の「正解」を教える本ではありません。
むしろ、読者一人ひとりが自分の〈子ども〉の感覚を取り戻し、自分なりの哲学を追求することを促す本なんです。
この〈呼びかけ〉が〈哲学〉を必要とするすべての〈子ども〉たちの〈魂〉にとどきますように。
この一文が、すべてを物語っています。
哲学とは、〈呼びかけ〉に応答することなんです。
世界からの問いかけ、自分自身からの問いかけ、他者からの問いかけ。
そうした〈呼びかけ〉に対して、素直に「なぜ?」と問い返し、自分なりの答えを探すこと。
それが哲学という営みの本質です。
私がこの本から受け取ったのは、ある種の「解放感」でした。
哲学とは、専門家だけのものではない。
難解な理論を理解することでもない。
誰もが、自分の中にある〈子ども〉の感覚を信じて、素直に問い続けていいんです。
入門すべきその門は、この本の中にはなく、あなた自身の中にある、というのが、この本の最大のメッセージなのだから。
この言葉が、すべてを象徴しています。
哲学の門は、本の中にはありません。
あなた自身の中にあるんです。
だから、他者の哲学を学ぶことも大切ですが、それ以上に大切なのは、自分自身の哲学を追求することです。
「なぜだろう」「どうしてだろう」という素直な疑問を、恥ずかしがらずに大切にすること。
その疑問こそが、あなたの哲学の入口なんです。
永井さんが提示した「水面のメタファー」は、私の心に深く刺さりました。
哲学する人は、水面に浮かんで世界を眺めている。
哲学しない人は、水中に沈んだまま、浮かび方を忘れている。
でも、誰もが浮かび上がることができるんです。
それは特別な才能でも、訓練でもありません。
ただ、自分の中にある〈子ども〉の感覚を信じて、素直に問い続けることです。
本書は、その姿勢を歓迎し、肯定してくれる一冊なんです。
哲学とはそもそもなんだろう?という論点については、こちらの1冊「私たちは、そもそも「何を」信じているのか!?『哲学的な何か、あと科学とか』飲茶」もぜひご覧ください。おすすめです。

まとめ
- 水面のメタファー――哲学する人としない人――永井さんが提示する「水面」という比喩は、哲学の本質を見事に捉えています。哲学とは水面に浮かんで世界を眺める営みであり、それは特別な訓練ではなく、ある種の「姿勢」なのです。多くの人が想像する難解な学問体系は、実は水中に沈んだまま浮かび方を見失った状態かもしれません。
- 自分の哲学を持つということ――他人の哲学を理解することは確かに難しいものです。しかし自分の哲学ほどわかりやすいものはありません。なぜなら哲学とは「理解する」ものではなく「自分で考える」ものだからです。カントやヘーゲルを学ぶことも大切ですが、それ以上に重要なのは、ふたたび自分自身が水面に浮かび、自分の目で世界を見ることなのです。
- 〈子ども〉の感覚が開く哲学の扉――本書が〈子ども〉のための哲学というタイトルを持つ理由は明確です。〈子ども〉とは素直に「なぜ?」と問い続ける存在であり、その問いこそが哲学の入口だからです。哲学の門は本の中にはなく、あなた自身の中にあります。誰もが自分の〈子ども〉の感覚を信じて、素直に問い続けていいのです。
