- 人生をもっと良くしたい、と思ったことはありませんか?
- 実は、その「人生を改善したい」という願いこそが、私たちを苦しめている根本原因かもしれないんです。
- なぜなら、何かを目指した瞬間に、私たちはそこから遠ざかってしまうという逆説が、この世界には確かに存在しているからです。
- 本書は、人生を「クソゲー」という大胆な比喩で捉えながら、そのゲームを変えようとする私たち自身の動機を、静かに問い返していく一冊です。
- 本書を通じて、悟りを目指すことの矛盾、マインドフルネスの限界、そして「目指さない」という最も難しい態度について、深く考えさせられることになります。
著者のネルケ無方さんは、ドイツ出身の禅僧です。
16歳で坐禅に出会い、大学で日本学を専攻した後、1993年に来日。兵庫県にある曹洞宗の禅堂・安泰寺で修行を積み、2002年から2020年まで堂長を務めました。
現在は全国を回りながら坐禅会や講演を行い、禅の教えを現代の言葉で伝え続けています。西洋哲学と禅の両方に精通した視点から、私たちが抱える根源的な問いに向き合う姿勢が、本書の随所に現れています。
「改善したい」という立派すぎる煩悩
「人生を良くしたい」という願いは、一見すると素晴らしい動機に見えます。
自己啓発書を読み、瞑想を始め、健康的な生活習慣を整える。
そうした努力は、誰からも否定されるものではないでしょう。
でも、ネルケさんはこう指摘するんです。
『人生を改善したい』という願いは、とても立派に見えるが、実は根深い煩悩でもある。
私たちは「向上心」や「成長意欲」を無条件に肯定しがちです。
でも、その向上心そのものが、実は今の自分を否定し、常に不足を感じ続けることにつながっているとしたら?
ネルケさん自身、坐禅に長年取り組んできた経験を振り返ってこう語っています。
二十歳が三十年坐禅しても、五十歳になるだけだ、という言葉は本質を突いている。
坐禅を続けたからといって、人生が劇的に「良く」なるわけではない。
むしろ、坐禅の本質は別のところにあるんです。
人生を改善させたというより、人生をどうしようもないものとして引き受けられるようになった。
ここで語られているのは、「諦め」とは違います。
人生を変えようとするゲームから、一歩引いた場所に立つということ。
「私なんか、どうなってもいい」という境地は、自暴自棄ではなく、自分を特別視することから降りる態度なんです。
人生をクソゲーだと感じる視点そのものが、すでにゲームの一部だった。
人生をクソゲーだと認識している時点で、私たちはまだそのゲームの中にいます。
「このゲームはおかしい」と批判している主体も、ゲームのプレイヤーなんです。
だから、クソゲーを良いゲームに変えようとする哲学と、そのゲームから降りようとする坐禅は、表裏一体の関係にある。
仏教は、人生というクソゲーを変えるための宗教だったのかもしれない。しかし実際には、仏教は『離脱の書』であり、『人生のクソさ』を消す教えではなかった。
仏教は人生を快適にするためのツールではありません。
人生をどうにかしようとする衝動そのものを、静かに問い返しているんです。
目指した瞬間に遠ざかるもの
では、何も目指さずに生きることは可能なのでしょうか?
ここに、最も難しい逆説が潜んでいます。
「悟りたい」と思っている限り、悟りからは遠い。
「自然に生きたい」と決めた瞬間、自然さは失われる。
「今ここ」を意識しようとすると、その意識が「今ここ」を遠ざけてしまう。
無為に生きようとする作為が、もっとも強い有為になる。
無為とは、作為のない自然な状態を指す言葉です。
でも、無為を目指した瞬間に、それは作為になってしまうんです。
努力を手放そうとする努力ほど、矛盾した行為はない。
リラックスしようと頑張る。
力を抜こうと力む。
自然体でいようと意識する。
これらはすべて、同じ構造の矛盾を抱えています。
近年、マインドフルネスが広く受け入れられるようになりました。
「今この瞬間に気づく」という実践は、確かに多くの人に効果をもたらしています。
でも、ネルケさんはその限界も冷静に見つめているんです。
気づいた瞬間に、マインドフルネスはすでに過去になる。
「今、私は気づいている」と認識した瞬間、その「気づき」はもう過去のものになっています。
続けようとした時点で、気づきは技法へと変わる。
マインドフルネスを継続しようとすると、それは一つの技法、一つのメソッドになってしまう。
本来の「ただ在る」という状態からは、また遠ざかってしまうんです。
『今ここ』をつかもうとする心が、今ここを遠ざける。
つかもうとする主体がいる限り、つかまれる対象としての「今ここ」が生まれてしまう。
この分離そのものが、問題の核心なんです。
坐禅についても、同じ構造が見えてきます。
坐禅は、何かになるための手段ではない。
坐禅を続けて悟りを開こう、心を落ち着けよう、より良い人間になろう——。
そうした目的を持った瞬間、坐禅は本来の姿から離れていきます。
悟りを目標にした瞬間、悟りは遠ざかる。
何も目指さないことを、どうやって実践すればいいのか?
これは本当に難しい問いです。
目指さないことを目指してしまう矛盾を、どう超えればいいのでしょう。
縁起の中で見つめる
ここで、視点を変える必要があります。
「目指さないように努力する」という矛盾から抜け出すには、努力している主体そのものを見つめ直すことが必要なんです。
『私』は一人で完結した存在ではなく、つねに他者との関係の中で立ち上がっている。
仏教でいう「縁起」とは、すべてが関係性の中で成り立っているという考え方です。
私が「悟りたい」と思うのも、実は私一人の意志ではありません。
本を読んだから、誰かの話を聞いたから、何かに行き詰まったから——。
さまざまな縁が重なって、その思いが浮かんでくるんです。
私を築いているのは私自身ではなく、私を取り巻く関係性である。
だとすれば、「目指そうとする心」も、私が意図的に作り出しているものではないということになります。
それもまた、縁起の中で起きている一つの出来事なんです。
自己とは所有物ではなく、生成し続ける出来事である。
私というのは、固定されたものではない。
関係性の中で、瞬間瞬間に生まれ続けているプロセスなんです。
では、坐禅とは何をする実践なのか?
思いの手放しとは、思いを消すことではない。浮かんだ思いを、意味づける前にそのまま見送ること。
坐禅中、さまざまな思いが浮かんできます。
「ああ、また雑念が湧いてしまった」と判断するのではなく、ただそれが浮かんでいることを見つめる。
『花が美しい』と判断する前に、ただ『花』がある。
美しいかどうか、好きか嫌いか、役に立つかどうか——。
そうした意味づけが立ち上がる前の、ただそこに在るという事実。
坐禅は、その地点に留まり続ける実践なんです。
意味が立ち上がる一歩手前にとどまる実践。
これは、意味を拒絶することではありません。
意味が生まれてくるプロセスそのものを、静かに見つめるということ。
「悟りたい」という思いが浮かんできたら、それを否定するのでもなく、実現しようと努力するのでもなく、ただその思いが浮かんでいることを見つめる。
そうすると、不思議なことが起きます。
思いは、見つめられることで、自然と力を失っていくんです。
新しいゲームでは、勝たなくてもいいし、悟らなくてもいい。菩薩の実践をしなくてもいい。『こうすべき』というルールが、一切なくなる。
ここで語られているのは、無気力や諦めではありません。
「こうあるべき」という縛りから自由になった時、初めて見えてくる風景があるということです。
だからこそ、新しい遊び方は楽しい。
人生を良くしようとするゲームから降りた時、別の次元が開けてきます。
それは、達成や成功とは無関係の、ただ在ることの軽やかさなのかもしれません。
この本は、答えを与えるのではなく、問いの立ち上がり方そのものを問い直している。
本書は、私たちに解決策を提示しません。
むしろ、問いを立てている主体そのものに気づかせてくれるんです。
「どうすれば悟れるか」ではなく、「なぜ私は悟りたいのか」。
「人生をどう変えるか」ではなく、「なぜ私は変えたいのか」。
その問いの根っこに降りていった時、私たちは初めて、ゲームの外側に立てるのかもしれません。
禅と哲学というクロスポイントは、こちらの1冊「あなたの視点は確かか!?『視点という教養(リベラルアーツ)』深井龍之介,野村高文」もぜひご覧ください。

まとめ
- 「改善したい」という立派すぎる煩悩――人生を良くしたいという願いそのものが煩悩であり、坐禅は人生を改善する手段ではなく、どうしようもない人生を引き受ける実践であることを知る。
- 目指した瞬間に遠ざかるもの――無為を目指すことが最も強い作為になり、マインドフルネスも「今ここ」をつかもうとした瞬間に本質から離れてしまう逆説を理解する。
- 縁起の中で見つめる――自己は関係性の中で生成し続ける出来事であり、坐禅とは意味が立ち上がる一歩手前で思いをただ見送る実践だと気づく。
