- 私たちは今、どのような「学び」を必要としているのでしょうか。
- 実は、私たちの多くは学んでいるつもりで、実は同じパターンを繰り返しているだけかもしれません。
- なぜなら、近代社会が前提とする「学習」の概念そのものが、デカルト以来の分離的世界観に縛られているからなんです。
- 本書は、デカルトから始まった「世界の脱魔術化」の歴史を辿りながら、グレゴリー・ベイトソンの思想を通じて、まったく異なる認識のあり方を提示してくれます。
- 本書を通じて、私たちは「学習」そのものを根本から問い直し、21世紀を生きるための新しいOSを手に入れることができるんです。
モリス・バーマンは、1944年生まれのアメリカの文化史家・社会批評家です。ジョンズ・ホプキンス大学で科学史の博士号を取得し、西洋文明の危機を鋭く分析し続けてきました。
本書『デカルトからベイトソンへ――世界の再魔術化』は、彼の代表作であり、近代科学がもたらした「世界の脱魔術化」という現象を歴史的に追跡しながら、グレゴリー・ベイトソンの思想を通じて新しい世界観の可能性を探った野心的な著作です。
翻訳を手がけたのは、村上春樹作品の英訳でも知られる柴田元幸氏。その流麗な日本語が、バーマンの思想の深みを余すところなく伝えてくれます。
バーマンがこの本を書いた動機は明確です。
それは、デカルト以来の機械論的世界観が、私たちから「参加する意識」を奪い、世界を単なる操作対象へと貶めてしまったという危機感です。彼は、ベイトソンの思想の中に、失われた全体性を回復する鍵を見出しました。
デカルト的「不調の精神」――分離と支配の限界
私たちが当たり前だと思っている世界観は、実は400年ほど前に確立されたものなんです。デカルトの「我思う、ゆえに我あり」という有名な命題は、思考する主体と思考される客体を明確に分離しました。
この分離こそが、近代科学の出発点であり、同時に現代社会が抱える根本的な問題の源泉でもあるんです。
デカルト的世界観の核心は、意識による支配という発想にあります。私たちは「自分」という小さな部分が、周囲の世界全体をコントロールできると考えています。
自分の人生も、仕事も、人間関係も、すべて意識の力で思い通りにできるはず・・・だと。
でも、これは本当に可能なんでしょうか。
ベイトソンはこの発想を「不調の精神」と呼びました。本書では次のように説明されています。
サイバネティクス的システムの持つ心的特性は、ある特定の部分にではなく、システム全体に内在している。意識的な精神、もしくは「自己」というものは決して円の全体ではない。あらゆる円の大小を問わずして、いかなる有機体も、その行動の境界は「自己」の境界と同じではない。
つまり、私たちが「自分」だと思っているものは、実は全体のほんの一部にすぎないんです。にもかかわらず、その小さな部分が全体をコントロールしようとする。これが現代人の苦しみの正体なんですね。
意識の力で満を持してコントロールしようとする数を最大化しようとしているのであり、小さな部にすぎないものに円全体をコントロールさせようとしている――これが「不調の精神」の正体なんです。
私たちの社会を見渡してみてください。環境問題、メンタルヘルスの悪化、組織の機能不全。これらはすべて、部分が全体を支配しようとする傲慢さの帰結ではないでしょうか。
デカルト的世界観は、世界を「魔術」から解放し、客観的に認識可能なものにしました。これが近代科学の偉大な成果です。しかし同時に、私たちは世界との参加的な関係を失ってしまったんです。
世界はもはや、私たちが「共に在る」場所ではなく、私たちが「操作する」対象になってしまいました。そして、その操作がうまくいかないとき、私たちは無力感と疎外感に苛まれるんです。
ベイトソンが示す「システム全体の精神」――学習のパラダイムシフト
では、ベイトソンはどのような世界観を提示したのでしょうか。それを理解するために、まずデカルト的世界観とベイトソン的世界観の対比を見てみましょう。
| 観点 | デカルト的世界観 | ベイトソン的世界観 |
|---|---|---|
| 認識の基本 | 主体と客体の分離 | 主体と客体の相互浸透 |
| 精神の所在 | 個人の内部(脳) | システム全体に内在 |
| 「自己」の境界 | 皮膚の内側 | 相互作用する円環全体 |
| 制御のあり方 | 意識による支配・コントロール | システムの自己組織化 |
| 学習の本質 | 個別問題の解決(学習Ⅰ) | コンテクストの学習(学習Ⅱ・Ⅲ) |
| 変化の起点 | 外部からの衝撃力 | 受け手側のエネルギー |
| 因果関係 | 線形的・一方向的 | 円環的・相互作用的 |
| 目指すもの | 明晰判明な知識と支配 | 全体との参加的な関係 |
この対比を見ると、ベイトソンの思想がいかに根本的にデカルト的世界観を転換しようとしているかがわかります。
特に注目すべきは、ベイトソンの「学習」についての再定義なんです。私たちは通常、学習とは「何かを知ること」だと考えています。でも、ベイトソンは学習を三つの階層に分けて考えました。
学習Ⅰ(原=学習)は、個別的な問題への対処法を学ぶことです。例えば、「この問題はこう解く」という具体的な知識の習得ですね。これは私たちが通常「学習」と呼んでいるものです。
しかし、ベイトソンが本当に重要視したのは学習Ⅱ(第二次学習)です。本書ではこう説明されています。
学習者が何をしないことを学習する消極的学習ではなく、何をすることを学習する積極的学習には、一般に四つのコンテクストがある。
その四つとは、(1)その人自身の分の行為が何の関係も持たない「パブロフ的」コンテクスト、そして、何をすることで報酬が与えられる、「道具的報酬」の学習コンテクスト、(2)何をしないと電気ショックが与えられるというような「道具的回避」のコンテクスト、そして、単語Aと単語Bを結びつける記憶を押さえながら意味化される「反復学習」のコンテクストがある。
学習Ⅱは、「何をすることを学習する」という積極的学習ではなく、むしろ「どのように学習するか」を学習することなんです。つまり、コンテクスト全体を学習するんですね。
これは決して抽象的な話ではありません。私たちの「性格」と呼ばれるものは、実はこの学習Ⅱの産物なんです。
パブロフの犬のように条件づけられた場合、電気ショックを避けるために学習した場合、あるいは道具的な報酬のために学習した場合――それぞれ異なる「性格」が形成されます。そして、その性格は、学習Ⅱのプロセスから生まれてくるんです。
本書では次のように述べられています。
ベイトソンの言うように、人間の行動は第二次学習に支配されている。第二次学習の結果習得した予測の型にコンテクスト全体がうまく適合するような行動をとるのである。言いかえれば、第二次学習は自分で自分の正しさを規定する。
これは非常に重要な指摘です。私たちは自分が「自由に」選択していると思っているけれど、実は学習Ⅱによって形成されたパターンの中で動いているだけかもしれないんです。
しかも、そのパターンは「自分で自分の正しさを規定する」。つまり、パブロフ的に学習した人は、パブロフ的なコンテクストを探し出し、そこで「正しい」行動をとることで、自分の学習Ⅱを強化し続けるんです。
「回避」を経験し、ひとつのパラダイムを捨てて別のパラダイムを探るようになる人も少なくない。だがいくらパラダイムが変わっても、やはり第二次学習の枠組みそのものにとらわれたままであり、このパターンの正しさを「証明」するような「事実」を見出しつづける点は変らない。
だからこそ、ベイトソンは学習Ⅲの可能性を示唆したんです。
学習Ⅲとは何か。それは、学習Ⅱで形成されたパラダイムそのものを捨てる学習です。ふたつのパラダイムのどちらか良いかということではもはや問題ではなく、パラダイムというものそれ自体の本質を理解すること――それが学習Ⅲなんですね。
これは禅の「悟り」にも通じる境地です。自分が囚われているコンテクストそのものから自由になること。これこそが、ベイトソンが到達した最も深い洞察だと思うんです。
21世紀のOS――パラダイムを捨てる勇気
ここまで見てきたベイトソンの思想は、なぜ21世紀を生きるためのOSになりうるのでしょうか。
それは、私たちが今直面している問題の多くが、学習Ⅱのレベルでは解決不可能だからなんです。
気候変動、格差の拡大、メンタルヘルスの悪化――これらの問題に対して、私たちは学習Ⅰのレベルで対処しようとしています。「この技術を導入すれば」「この制度を変えれば」「この習慣を身につければ」。
でも、問題の本質は、私たちがどのような学習Ⅱのパターンの中で生きているか、なんです。
デカルト的世界観の中で、私たちは「意識による支配・コントロール」という学習Ⅱのパターンを身につけてしまいました。そして、そのパターンが機能しないとき、さらに強くコントロールしようとする。これが悪循環を生み出しているんですね。
文化人類学者グレゴリー・ベイトソンによる思想体系は、今日、全体論的科学に最も精緻な体系を与えているのは、ベイトソンの思想をおいておそらくほかにない。ベイトソンの思想のみが科学を無視することなくかつ無意識の知に基づいているのである。
本書で指摘されているサイバネティクス的システムの4つの誤りは、まさにこの学習Ⅱの罠を示しています。
1つ目の誤りは、「相互に作用しあう諸部分がひとつの全体をなし、その相互作用をスタートさせるものがあるという考え」です。私たちは常に「原因」を探そうとします。でも、システムは円環的に作動しているんです。
2つ目の誤りは、「物質と空間と時間に属するものではなく、特定の場に位置づけることができないという『違い』や『違い』の変形形式が、やはり場に位置づけられたものの間の円環に沿って、もしくは経路のネットワークを複雑に進みながら、伝達されること」を理解していないことです。
情報は物質ではありません。それは関係性の中で生まれ、伝達されるものなんです。
3つ目の誤りは、「このシステムは意識しないところでシステム内で生じる出来事の多くが、それ自身のエネルギー源を持つこと」を忘れていることです。意識がすべてをコントロールしているわけではないんですね。
4つ目の誤りは、「つまり、反応を引き起こす部分から衝撃力が与えられるのではなく、影響を受ける側にその出来事を迎えるエネルギーが用意されて」いることを理解していないことです。
変化は外部からもたらされるのではなく、受け手側のエネルギーによって生まれるんです。
これらの誤りはすべて、デカルト的な線形的因果関係の発想から来ています。そして、この発想こそが「不調の精神」を生み出しているんですね。
では、私たちはどうすればいいのか。
学習Ⅲへの道は、決して簡単ではありません。なぜなら、それは自分が依拠しているパラダイムそのものを手放すことを意味するからです。
ベイトソンの考えでは、この束縛から逃れるため唯一の道は「学習Ⅲ」である。「学習Ⅲ」においては、ふたつのパラダイムのどちらが良いかということはもはや問題ではなく、パラダイムというものそれ自体の本質を理解すること、それが「学習Ⅲ」である。
でも、その道は開かれています。
まず必要なのは、自分がどのような学習Ⅱのパターンの中で生きているかに気づくことです。自分の「性格」と思っているものが、実は過去のコンテクストで形成された習慣的なパターンにすぎないと理解すること。
次に必要なのは、そのパターンに「正しさ」を証明させ続けるのをやめることです。私たちは無意識に、自分のパラダイムを強化するような「事実」ばかりを見つけ出します。その自動的なプロセスに気づき、立ち止まること。
そして最も重要なのは、「システム全体の精神」という視点を持つことです。
自分という小さな部分が全体をコントロールしようとするのではなく、自分もまた大きなシステムの一部であることを受け入れる。意識の力で何かを変えようとするのではなく、システム全体の自己組織化に身を委ねる。
これは諦めではありません。むしろ、より大きな力との協働なんです。
ものごとの「感じ」をもとに、ひとつの科学を創造すること。これがウィリアム・ベイトソンが果たそうとしていた仕事であった。
ベイトソンが目指した「感じ」をもとにした科学の創造――それは、世界との参加的な関係を回復することでもあります。
世界は操作対象ではなく、私たちが共に在る場所です。その「共に在ること」の中で、自然に生まれてくる変化に身を委ねる。これが学習Ⅲの実践なんだと思います。
21世紀を生きる私たちには、新しいOSが必要です。それは、デカルト以来400年続いた「分離と支配」のOSから、「参加と共創」のOSへの転換です。
ベイトソンの思想は、そのための道筋を示してくれています。それは決して容易な道ではないけれど、私たちが本当に生き生きとした人生を送るために、避けては通れない道なんです。
まとめ
- デカルト的「不調の精神」――分離と支配の限界――デカルト以来の近代的世界観は、主体と客体を分離し、意識による支配を理想としてきました。しかし、小さな部分である「自己」が全体をコントロールしようとするこの発想こそが、ベイトソンが指摘した「不調の精神」の正体です。環境問題からメンタルヘルスの悪化まで、現代社会が抱える多くの問題は、この分離的世界観の帰結なんです。
- ベイトソンが示す「システム全体の精神」――学習のパラダイムシフト――ベイトソンは学習を三つの階層に分けることで、私たちの認識を根本から問い直しました。個別問題への対処である学習Ⅰ、コンテクスト全体を学習し性格を形成する学習Ⅱ、そしてパラダイムそのものを理解する学習Ⅲ。私たちの多くは学習Ⅱのパターンに囚われ、そのパターンを強化する「事実」ばかりを見つけ出しています。真の変容は、このパターンそのものから自由になることで初めて可能になるんです。
- 21世紀のOS――パラダイムを捨てる勇気――21世紀を生きる私たちには、「分離と支配」から「参加と共創」への根本的な転換が求められています。それは、自分という小さな部分が全体をコントロールしようとするのではなく、システム全体の一部として、自己組織化のプロセスに身を委ねることです。ベイトソンの思想は、学習Ⅲという新しい可能性を示し、世界との参加的な関係を回復するための道筋を提供してくれています。
