AIが合理性を極めたとき、“甘え”が人々のOSになった──2075年から見た「日本カルチャー」という希望

AIが合理性を極めたとき、“甘え”が人々のOSになった──2075年から見た「日本カルチャー」という希望の手書きアイキャッチ

増田みはらし書店・店主の増田浩一です。

未来へタイムスリップして、少し、想像してみましょう。

2075年の未来では、AIが人類の知性を遥かに超えている――。
それでも人々は、人と人が共に働くことをやめなかった
―― そんな世界になるはずです。そうでなければ、人がいないディストピアな世界になりますからね。

それでもやはり、未来の社会には、精密に設計されたアルゴリズムが満ちているはずです。

すべてがつながり、最適化され、判断の誤りはほとんどない。
それでもなお、人間は人間と関わり合い、 共に考え、共に迷い、共に笑っている。

その未来から、ふと振り返れば、
2020年代の私たちは、 AIの登場に怯えながらも、どこかで感じていたんじゃないでしょうか。
――人間は、効率だけでは生きられないということを。

この時代こそが、 人類が「生産」から「共生」へと舵を切った転換点になるのかもしれません。

今回の投稿では、50年先の未来から、現代を振り返るという思考実験をしてみましょう。
その中で、みなさまと人が人らしく、そして豊かに、社会をみなで作っていくのだという世界観の可能性が探索できると嬉しいです。

AIが奪ったもの、人間が取り戻したもの

みなさん、AIを日頃どれだけ活用されているでしょうか!?

AIは、私たちの代わりに判断し、答えを導き、タスクを処理してくれます。

データを分析し、最適解を示し、ミスなく実行する。

でも、そのすべての最適化の中で、人はふと立ち止まるんです。

「なぜ、自分はこれをしたいのか」
「何のために、これをやっているのか」

その問いを立てられるのは、人間だけなんですよね。

この「意志」というのは、すぐには生まれないものです。時間をかけて、ゆっくりと熟成していく。遠回りや失敗や誤解の中で、少しずつ形を成していく。

AIが“効率”を極めた時代だからこそ、 人間は“非効率”の中にこそ生きる意味を見出したのかもしれません。

つまり、AIが奪ったのは「作業」でした。 そして人間が取り戻したのは「意志」だったんです。

日本が育ててきた「非効率」という叡智

思えば、日本という国は、 その「非効率」を否定せず、むしろ大切にしてきた場所でした。

たとえば「間」。
沈黙を恐れず、言葉と言葉の間に意味を見出す感覚です。

たとえば「察し」。
言葉にしなくても、相手の状況や気持ちを汲み取ろうとする姿勢です。

会議では根回しをし、結論を急がず、空気を読む。
外国から見れば、それは曖昧で、もどかしく、 ときに生産性を欠くように見えたかもしれません。

でも、その曖昧さの中に、 関係を維持するための叡智が潜んでいたんです。

「間」とは、沈黙ではなく、呼吸の共有でした。
「察し」とは、理解の強要ではなく、信頼の証でした。

結果を急がず、他者を尊重し、 共に“整う”ことを大切にする。

この日本的な感性こそが、 AIが合理を極めた後に人類が再発見した“人間らしさ”だったんじゃないでしょうか。

「甘え」という信頼の構造

そして、もうひとつ。 日本の文化には、「甘え」という独特の関係様式があります。

精神科医の土居健郎が1971年に著した『「甘え」の構造』で指摘したように、 日本人は「一人称の輪郭」が薄いと言われます。 欧米的な“自立した個人”としてではなく、 関係の中で自己をかたちづくっていく。

土居は、日本語の「甘える」という言葉が、 英語では一語で訳せないことに注目しました。
“depend on” でも “presume upon” でも、 その微妙なニュアンスを捉えきれない。

なぜなら「甘え」とは、単なる依存でも、わがままでもなく、 相手との一体感を前提とした、信頼に基づく委ねあいだからです。

それは未成熟なのではなく、 相互依存を前提とした、別の種類の成熟なんです。

“甘える”とは、他者に委ねること。
でもそれは、ただ依存するということではありません。

相手の存在を信じ、支え合う関係を前提にした、 ゆるやかな信頼の構造なんですよね。

土居はこうも言っています。「甘えは、内と外を区別する日本人の心理の基盤である」と。つまり、誰に対してでも甘えるわけではない。 信頼できる「内」の人にだけ、甘えることができる。

そしてその「内」に入れてもらえることこそが、 日本社会における受容と帰属の証なんです。

たとえば職場で、「ちょっとこれ、手伝ってもらえますか?」「すみません、よくわからないので教えてください」 こんなふうに、素直に頼る。助けを求める。

それができるのは、 相手が受け止めてくれると信じているからです。
そして受け止める側も、 「お互い様だから」と自然に応じる。

この「甘え」は、関係のゆらぎを受け入れる知恵なんです。
完璧でなくていい、弱さを見せてもいい。そんな安心感の中でこそ、 人は本当の意味で力を発揮できる。

そして、ゆらぎこそが、意志を共に創るための条件になる。

曖昧さの中に眠る共創の可能性

AIの社会では、すべてが明確です。 境界はくっきりしている。 タスクの範囲、権限、責任、成果。 どれも数値で管理できる。

でも人間のあいだには、数値にできない“にじみ”があるんです。

「ここまではあなたの仕事」「ここからはわたしの仕事」
その境界が曖昧だからこそ、 互いの意志が交わり、重なり合う余地が生まれます。

AIが「明確さ」をもたらした時代に、 人間が守り続けたのは「曖昧さ」でした。

そしてその曖昧さの中に、共創の可能性が眠っていたんです。

弱さを共有する未来へ

2075年の未来を想像してみると、こう見えてきます。

AIが進化するほど、人間は弱くてよくなった。 完璧である必要がなくなった。 間違い、迷い、悩み、頼ることが許された。 そしてその“弱さ”が、人間を再び人間にした。

強さを競う時代から、 弱さを共有する時代へ。

それは、AIに支配された未来ではなく、 AIに寄り添われながら、人が人であることを再発見した未来です。

日本が長い時間をかけて培ってきたカルチャー―― 非効率、間、察し、甘え。

それらは、合理化社会が見失った“関係のOS”として、 再び世界の礎になったのかもしれません。

曖昧さが、未来を救うアルゴリズムだった

あの時代、私たちは気づいていませんでした。
自分たちの「曖昧さ」や「不器用さ」が、 未来の人間を救うアルゴリズムの種だったことを。

機械が合理を極めたとき、 人間は“日本的”に生きることを選んだ。

それは、生き方というよりも、 意志のあり方そのものだったのかもしれません。

それでは、また来週お会いしましょう。

甘えの構造については、こちらの1冊「甘えることに改めて上手になってみる!?『「甘え」と日本人』齋藤孝,土居健郎」もぜひご覧ください。

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