- どうしたら資本の原理だけで、生きることを避け、自分なりの豊かさを見つけられるでしょう。
- 実は、「土着」という発想にヒントがあるかもしれません。
- なぜなら、本書の「土着」とは自分の感性を「手づくり」することを指し、それは、資本の原理の外側に存在するものを目指す行為であるからです。
- 本書は、人々が「商品化」されつづける社会の中で、いかに自分を取り戻して真に生きるかを考える1冊です。
- 本書を通じて、何が自由かをあらためて考えるヒントを提供してくれます。
資本の原理とは?
本書の著者、青木真兵さんは、文学博士であり、2016年から緑豊かな東吉野村に移住して、住宅を開放して私設図書館を奥様(司書)といっしょに運営している方です。図書館だから、無料で利用できるのです。
一見、なんでそうした暮らしをしているのか、特に都市部の経済合理性をほぼ唯一の価値観として暮らしている私たちからすると、理解しがたい青木真兵さんの営みと視点を知ると、現代人が忘れがちな人としての大切な感性や生きるを見つめる視点を得ることができます。
青木真兵さんはどのような考え方で、奈良の片田舎において私設図書館を開き、そして本書を執筆したのでしょうか。そこには、本来の働くということを取り戻すという考え方が根底にありました。
本来、働くことは楽しい経験のはずです。
働くことにもう一度「意味」を持つ。そうした目的によって本書の思考の旅が始まります。資本主義という共通言語をほぼ唯一の価値観として運用している私たちは、なにか大切なことを忘れがちのような気がしています。
「幸せの最終解決」とも呼べるような「万人に当てはまるゴール」なんていうものはないはずなのに、なぜだか、皆が同じ方向へと吸い込まれるように動いていく・・ひとりひとりは異なるはずなのに。でも、そうした路線から外れていくと、どうしても不安になってしまって、結局は、世の中が「常識」として用意した生き方に自らを当てはめて、正解を生きていくことに慣れてしまっている、そんな世界観として俯瞰してみるきっかけを本書は提供してくれます。
仕事は、ともすれば社会的害悪になるようなことだってあるように感じているけれど、お金を稼がないといけないし、そんな世の中の土台に乗っていくには、学校を出ないといけない・・でも、こうした諦めの状態を人は、そう長くは我慢出来ないのではないか、と青木真兵さんは、いいます。
本来の「働く」を取り戻すための一つのポイントが、「意味がある」ことを感じる力を取り戻すことだといれます。
人は、経済活動のために生きているのではなく、生きるために経済活動をしているはずです。
現代は、ひとりひとりの人が、誰か(社会)から、常に価値があるのかを測られているようです。本当は人が生きるということはそれ自体が目的で貼るはずなのに、社会や会社、経済のための一つの歯車化のような捉え方を多くの方が、気づけばしてしまっている。そんな光景を、働いていたり、あるいはニュースを見ているとしばしば感じます。
本来的な生きることを取り戻してみるには、資本の原理からの決別を目指すということでありません。一度、「資本の原理から距離を取ってみること」で見えてくる世界もあります。いままで絶対視していた資本の原理の全貌を掴み、みずからの感性を取り戻しながら、ひとりひとりが適切な距離感を見出していくことが大切なのです。
資本の原理なのか、あるいは、ひとりひとりが見出す自由か、という「or 構造」ではなく、青木真兵さんが訴えるのはこれらの対立を対立として捉えるのではなく、自らの中に内包しながら、バランスを取るという発想です。
これは、過去に触れたこちらの1冊「【私たちは、二者択一にとらわれている!?】両立思考|ウェンディ・スミス,マリアンヌ・ルイス」に近いアプローチと思われます。物事は、二項対立にすると“わかりやすく”なるため、ついつい人は2つに分けて比べがちですが、世界はそう単純ではありません。
資本の原理の特徴は、世の中のすべてを「商品」としてみなす力があるということです。ひとつひとつ、ものだけではなく、時間に対しても対価を設定し、同じ貨幣価値という指標で測れるようにします。そして、測れないものをあたかも存在しないかのように捉えるのが、この原理です。
自分たちの身の回りの物はすべて購入可能であり、そのお金を稼ぐ仕事につけなければ自由は増し、お金を稼がなければ自由な生活を送ることができない。
これがフェアな社会であり、お金が稼げない人は努力が足りず、自己責任であるというふうに、切り捨てていきます。
人それぞれは最初のスタートラインが異なるはずなのに、これは全くフェアではない発想であるといいます。人を「商品」としてみなし、社会の部品であるとする社会では、ひとりひとりの「個性」は埋没させることに、多くの利点があります。工業製品のように代替可能で、管理しやすいように同じように働いてくれる方が、資本の側が使いやすいからです。
外に出てみるということ?
青木真兵さんの活動は、私設図書館です。
自宅をそのまま図書館として開き、本を貸しています。たしかに自宅を利用しているので経費はかからないのかもしれませんが、単に本を貸しているだけなので、対価を得ることはできません。しかし、対価を得ていないからこそ、青木真兵さんは、この時間は「商品化」せずに済むととらえます。
商品以前のことを知るということは、すでに常態化している資本の原理で駆動する社会の外に出るということになります。その社会の外から自らやそこで生きる人々を俯瞰してみることによって、新しい気付きを得て、感性を取り戻し、そして考えを両立できるバランスを取り戻そう!というのが、本書に流れる主張です。
一見そのような「意味がわからない」ものやことにこそ、「社会の外」に出るヒントがあります。
社会の外には、まだまだ「意味が分からないもの」が存在できる余地があります。そして意味がわからないものを自らに引き寄せて知り、捉えるためにひつようなのは、なにか・・それこそ、自分だけが持つ「感性」ということになります。値段もつかないし、価値があると誰も言ってくれない、だからこそ、自らの「感性」を信じて、向き合うことよりほかないというのです。
そして、本書のテーマである「土着」とは、この社会の内と外を行き来する行為と説きます。
要するに、「原理が一つ」になってしまうことが息苦しく、避けたい事態なのです。
近代化によって、確かに人は自由を得ました。田舎の暮らしのような「しがらみ」や「つながり」にとらわれずとも、一人の経済主体として、お金を稼ぎ、ものやサービスと交換し続けていれば、縁が仮に切れてしまったとしても、生存していくことだけは可能です。ひとつの「自由」のあり方を得たといってもよいでしょう。
しかし、一方で、この「自由」は自らも商品化することにつながっていきました。本来的には、人間や農作物は商品としての価値だけを持っているわけではありません。商品としての価値とは、他者から求められているかどうかが基準となりますが、そうした他者からの評価がなくては、ものごとは存在できないかというと、そうではないのです。
誰からも求められなくてもいいし、誰も欲しがっていないほうがむしろいい。でも、同時に自分にとっては不可欠で、切実なものだともっといい。
さらに、そうしたものを自分でつくりだしてみることこそが、現代社会の外側に一歩出てみるということになります。
半身で生きよ?
生産性をもっとも気にするような経済合理性に基づくスマートな社会は、人に考えさせることをやめさせようとしているのかもしれません。テクノロジーの進展、特にAIの登場によって、人は主体性を手放し、考えることを辞められる大きな流れに乗ることだってできるようになるかもしれません。
考えることを手放してより便利に生きていきたい、なにかに考えることを託していきたいというような風潮は少なからず、社会の中にあるようです。これを「スマート」であると、現代では呼ぶようです。
ICT(Information and Communication Technology)技術を生活の至るところに導入すれば、自動的に僕たちが幸せになれるという設定です。
便利になること自体否定されることではないのですが、この便利になることだけを盲目的に信じていること自体が問題であり、効率化すればすべてがよいという考えについて疑ってみるということです。
不合理や、不便と出会い、自らの感性をもとに行動してみるということはとても大切な体験になるはずです。他者のニーズから抜け出し、個人的な体験の中で、自らを取り戻し生きて見ることの中から、見えてくることがあります。
ちょうどよいということは、本来的には、ひとりひとりの身体性にもとづくことでもあり、ひとりひとり異なるはずです。でも、それが同じように測られて、あるいは、社会の側に人が合わせる時代が長らく続いています。例えば、「社会人」という言葉を取ってみるとどうでしょうか。これまでの文脈からまるで「画一的なもの」に自らを合わせられる人を「社会人」と呼ぶように聞こえてきませんか。
これからは、「みんなのため」ではなく、「自分のため」に生きていくべきだと思われます。それは自分たちや身の回りのものを、「商品として見ない」ということです。世の中が教えてくれる「みんな」基準から、自分の感性で気づく「自分」基準の人生が存在するのだということを気づいてみましょう。
「社会人」ではなく「人間」が生きる環境をつくる
中と外をいったりきたりしながら、自分にとって心地よいポイントを探ってみましょう。生き物と社会人の2つの間を行ったりきたりしながら、生きていくようなことが必要なのかもしれません。
青木真兵さんは、上野千鶴子さんが会社に全身を捧げず「半身で関わること」を提唱されていることを引き合いに、半分生き物、半分社会人という意味あいを大切に生きていくことが大切なのではといいます。
一つの原理に選択と集中をするのではなく、何とバランスを取るかで、人生が構築されていくのかもしれません。
こちらの1冊「【「半身」で生きよう!?】なぜ働いていると本が読めなくなるのか|三宅香帆」にも大変深く触れていく内容だと思いました。
まとめ
- 資本の原理とは?――なんでもかんでも「商品」としてみなし、それ以外は無価値だと切ります。
- 外に出てみるということ?――資本の原理が働かない世界から、自分を見つめてみましょう。
- 半身で生きよ?――唯一の原理に身を委ねるのではなく、自らの感性でバランスを取りましょう。