- あなたは「宗教」と聞いて、何を思い浮かべるでしょうか。教会や寺院、特定の神様、聖典、そして「信じるか信じないか」という二者択一——多くの人がそんなイメージを持っているかもしれません。
- 実は、私たち日本人が日常的に使っている「ありがとう」「すみません」「いただきます」という言葉の中に、すでに深い宗教性が宿っているんです。それは特定の神を信じる信じないという話ではなく、もっと根源的な、世界との関わり方そのものなんです。
- なぜなら、西洋哲学が「頭の中で考えるもの」であるのに対して、仏教は「姿勢を正すことに加え、細かな作法」があるからです。つまり、宗教とは思考の問題ではなく、生き方そのものだということです。
- 本書は、ドイツ出身の禅僧ネルケ無方が、外国人の視点から見た日本人の宗教観を鮮やかに描き出した一冊です。日本人が当たり前すぎて気づかない、私たちの中に流れる独特の精神性を、著者は「日本人は決して無宗教ではない」と断言します。
- 本書を通じて、私たちは自分たちが空気のように感じている考え方、言葉遣いの中に詰まった世界観を再発見できるでしょう。西洋と東洋、能動と受動、個人と共同体——この対比の中に、日本人がなぜこれほど穏やかで調和的な社会を築けたのか、その秘密が隠されています。
ネルケ無方は、1968年にドイツで生まれ、16歳で坐禅と出会い、その後日本に渡って禅僧となった異色の経歴を持つ人物です。
ベルリン自由大学で哲学を学んでいた彼は、西洋哲学に限界を感じ、より実践的な仏教の道を選びました。現在は兵庫県の安泰寺で堂頭(住職)を務め、所有も給料もない完全な自給自足の生活を送っています。
外国人でありながら日本の禅を体現する著者だからこそ、日本人が当たり前すぎて見過ごしている精神性を、客観的に、そして鮮やかに言語化できるのです。
彼の著作は、日本人に向けて「あなたたちはすでに宗教的なんですよ」と優しく語りかけるようなトーンで書かれています。それは説教ではなく、気づきを促す対話なのです。
「善悪」より「偽善」を嫌う日本人の感性
私たちは普段、宗教について考えるとき、どうしても西洋的な枠組みで捉えてしまいます。
「神を信じるか信じないか」「天国と地獄」「善と悪」——こうした二元論的な発想が、宗教を語る際の前提になっているんです。
でも、日本人の宗教観は根本的に違います。
日本人は、「善良」と「偽善」の違いには鋭いアンテナを持っているのです。……だから、日本人が「結論的に寛しい」と言えないと私は思います。いや、信仰心を盾にしながら戦っている欧米人よりも、はるかに豊かな精神性を持っているのが日本人ではないでしょうか。宗教で闘争をしないどころか、意図的にあり分けもしない日本人こそ、私は好きです。日本人のそういう精神性は、ひょっとしたら、控えめな仏教の「慈悲の心」の影響があったからこそ育ったのかもしれません。
日本人は「正しいか間違っているか」よりも、「本心からか、うわべだけか」を見抜く力が強いんです。
形式的に善人を演じている人に対して、私たちは直感的に違和感を覚えます。逆に、完璧ではなくても誠実に生きている人には、自然と心を開きます。
これは宗教的な教義を学んだからではなく、日本の文化の中で育まれた感性なんです。
西洋哲学が「頭の中で考えるもの」であるのに対して、仏教には「姿勢を正すことに加え、細かな作法」があります。
つまり、思考ではなく、身体を通じて世界と関わる方法が宗教なんです。
宗教とは、「特定の神様がいて、それを信じるか信じないか」である。 もしこれが、宗教の定義だとすると、「仏教は宗教ではない」と言えるかもしれません。神宗の場合は、仏に手を合わせて祈ることより、自分が仏として生きることを模索します。
この視点は重要です。
仏教は「神を信じる」のではなく、「仏として生きる」ことを目指すんです。それは日常生活すべてが修行であるということを意味します。
掃除をすること、料理をすること、何か仏道修行か——この問いに対する答えを、なるべく簡潔に説明してもらえるでしょうか。
日常生活も修行である
これ以上シンプルな答えはありません。
「掃除をしないで、料理をしないで、何が仏道修行か」屈辱をきれいに並べることも非常に大事なこと。師下照顧、足元を見なさい」
禅では、特別なことをするのが修行ではないんです。
掃除をする、料理をする、履物を揃える——こうした日常の小さな行為すべてに、仏道が宿っています。
これは「ただ生きる」ことそのものが宗教的な営みであるという、日本人の深い智恵なんです。
日本語の中に息づく宗教心
言葉は単なるコミュニケーションの道具ではありません。
その言葉を使う人々の世界観、価値観、そして宗教観が凝縮されているんです。
日本語には、他の言語にはない独特の宗教性が宿っています。
日本語の中にある宗教心
日本人の日常会話はとても宗教心にあふれている。「ありがとう」「すみません」「いただきます」「ごちそうさま」「おはよう」「おつかれさま」など、通常の生活の中に宗教的な慣用句が当たり前のようにちりばめられることができる。
その中でも「お陰さま」。この言葉には、何か大きなものに見守られているという安心感、生かされている命に対する気づきや感謝の気持ちなど、多様な意味を含んでいるように思う。それはご先祖様のお陰でもあるし、神様や自然のお陰でもある。
欧米では「誰のお陰なのか」と、いちいち言わなくてはならないように言われただろう。つまり、それはイエス・キリストだと。
この観察は鋭いです。
「お陰さま」という言葉には、特定の神を指定する必要がないんです。
それは漠然とした、しかし確かに存在する「大いなるもの」への感謝なんです。誰に対してかを明確にしなくても、感謝の気持ちは成立します。
これは西洋的な「神」の概念とは根本的に異なります。
西洋では、感謝の対象は明確でなければなりません。「誰のおかげか」「何のおかげか」を特定することが、誠実さの証だと考えられているんです。
でも日本では、むしろ「誰のおかげとも言えない、すべてのおかげ」という曖昧さの中に、より深い真理があると感じています。
ここで重要なのが「ただ坐る」という概念です。
坐禅とは何か。
これに対する答えを、なるべく簡潔に説明してもらえるでしょうか。何をしているのか。何かをしているようで、実はいつも何かに使われているのではないか。……持続何かになるために勉強する。いい大学に入るために勉強する。いい大学に入らなければならない」という思いに使われて勉強している生徒もいる。 なぜいい大学に入りたいのか。それは、いい会社に勤めたいからである。
なぜいい会社に勤めたいのか。それは、いい給料をもらいたいからである。
なぜいい給料をもらいたいのか。それは、いい生活をしたいからである。
なぜいい生活をしたいのか。それは……。生きている限り、欲望は続いていていく。
私たちは常に「何かのために」生きています。
次の目標、次の欲望、次の達成——終わりのない連鎖の中で、私たちは自分自身を見失っているんです。
坐禅中は動いてはいけないし、何もできない。だがそれは、何もしなくてもいい、欲望に使われない、完全に解放された時間でもある。 「坐禅をしなさい」と諭説されて坐るならば不自由だが、自分で坐禅をしているのならそれこそ自由になる。 しかし坐禅は、自分で坐禅をしているうちは本当の坐禅ではない。坐禅していて坐禅をしているうちは「坐禅のために自分を投げ出さないといけない。それは、「私(自分)が坐禅をしている」のではなく、「坐禅が坐禅をしている」「坐禅が私(自分)をしている」と思ってみただ。
これは深い逆説です。
「私が坐禅をしている」という意識がある限り、それは真の坐禅ではないんです。
主体と客体が溶け合い、「坐禅が坐禅をしている」状態——それこそが完全な自由なんです。
少しオーバーな表現を使うなら、「天地いっぱいの自分」はただ坐っている」であろうか。すると、それまで考えていた「何のために」という疑問もふっと消えてしまう。
この「何のために」という問いが消える瞬間——それが解放なんです。
坐禅にはそういう力があります。「なぜ坐禅をするのか」では なく、「料理をしている」ではなく、「掃除をしている」ではなく、「掃除をさせていただいている」「料理をさせていただいている」。
この「させていただいている」という感覚は、日本人が持つ独特の謙虚さの表れです。
自分が主体的に行動しているのではなく、何か大きな流れの中で「させてもらっている」という感覚——これこそが日本的な宗教性なんです。
西洋と東洋:2つの世界観
ここまで見てきた日本人の宗教観は、西洋の世界観と鮮やかな対比を成しています。
その違いを整理すると、私たちが無意識に持っている価値観がより明確になるんです。
能動的な欧米人と受動的な日本人
かつて、ヨーロッパやイスラム教地域でも仏教を信仰する人はいたが、あまり派生していかなかったのは、風土と気候が関係していると私は思う。
当時のヨーロッパでは、農業で食べていくことは、仏教は「パッシーブ(受動的)」だということだと。彼らが頼れたのは、南方の初期仏教(上座部仏教)のバーリ語経典だったので、それが誤解されたのだろうなぁ。坐禅などとは、インドのような熱帯地方では、動くとしんどいから静かにじっとして自分を見つめる、という風土から生まれたと言われているが、ヨーロッパは違う。寒いし、降雨量も多いから、動かないといけない。冬にじっとしていたら死んでしまう。
ヨーロッパ人は風土や体質的にも、能動的
この分析は興味深いです。
宗教や哲学は、その土地の気候や風土と深く結びついているんです。
ヨーロッパでは、冬を生き延びるために能動的に動かなければなりませんでした。一方、日本のような温暖で自然豊かな環境では、自然に身を任せる受動的な姿勢が育まれました。
しかし、この「受動的」という表現には注意が必要です。
それは「何もしない」という意味ではなく、「自然の流れに沿って生きる」という積極的な姿勢なんです。
他者とシンクロする日本人も、この文脈で理解できます。
そのおおらかな日本人が、いつの間にか時間に正確になった。でも、それは不思議なことでもない。そもそも日本人は、人に合わせ、人とシンクロする性質がある。相手の動作や気持ちをシンクロするという のは、欧米人には難しい。シンクロる日本人の性質が、日本人の時間の正確さと関係しているのだろう。
日本人は個人として独立して行動するのではなく、周囲との調和を重視します。
これは弱さではなく、高度な社会性なんです。他者の動きを感じ取り、自然にシンクロする能力——これが日本社会の秩序と調和を支えています。
ここで、西洋と東洋の世界観を表で整理してみましょう。
| 視点 | 西洋的世界観 | 東洋的世界観 |
|---|---|---|
| 宗教観 | 特定の神を信じるか信じないか | 日常生活そのものが修行 |
| 思考方法 | 頭の中で考える(哲学) | 姿勢と作法を通じて体現する |
| 善悪の基準 | 善か悪かの二元論 | 誠実か偽善かの感性 |
| 行動様式 | 能動的・自己主張的 | 受動的・調和的 |
| 時間意識 | 個人の意志で管理する | 周囲とシンクロする |
| 言語表現 | 感謝の対象を明確にする | 「お陰さま」と曖昧に包む |
| 修行の概念 | 特別な場所・時間で行う | 掃除も料理も修行である |
| 自己認識 | 「私が〜する」(主体性) | 「〜させていただく」(謙虚さ) |
| 社会関係 | 個人の独立性を重視 | 他者との調和を重視 |
| 自然観 | 自然を征服・管理する対象 | 自然に身を任せる |
この対比を見ると、日本人の価値観がいかに独特かがわかります。
でも、ここで重要なのは、どちらが優れているという話ではないんです。
西洋的な能動性がなければ、科学技術の発展はなかったでしょう。一方、東洋的な受動性がなければ、持続可能な社会の在り方は生まれなかったかもしれません。
むしろ、この2つの世界観を理解することで、私たちは自分たちの立ち位置をより深く認識できるんです。
そして、もうひとつ重要な点があります。
独りで悟ることは危険
この警告は、現代の私たちにこそ必要なメッセージです。
しかし独りの修行は、大変危険である。共同生活の中でこそ、肝心の自分の姿は一切見えない。人の目は、鏡の役割をしているのである。慈林は、お互いが切磋琢磨する場なのだ。自分独りでは、坐禅をしなさい」と説説されて坐るならば不自由だが、自分で坐禅をしているのならそれこそ自由になる。 しかし坐禅は、自分で坐禅をしているうちは本当の坐禅ではない。坐禅していて坐禅をしているうちは「坐禅のために自分を投げ出さないといけない。
一人で山に籠もって悟りを開く——そんなイメージを持っている人もいるかもしれません。
でも、それは実は危険なんです。なぜなら、独りでいると、自分の思い込みを客観視できないからです。
「無師独悟」の人はいまでもいるが、自堕落屋で、威張りちらしている。
独りで「悟った」と思い込んでいる人は、実は自分のエゴに囚われているだけかもしれません。
共同生活の中でこそ、他者という鏡を通じて、自分の姿が見えてくるんです。
他者の目、他者の反応、他者との摩擦——これらすべてが、自分を磨く砥石になります。
少しオーバーな表現を使うなら、「天地いっぱいの自分」はただ坐っている」であろうか。すると、それまで考えていた「何のために」という疑問もふっと消えてしまう。坐禅にはそういう力がある。「なぜ坐禅をするのか」ではなく、「坐禅をさせていただいている」という理由は、日常生活でも同じこと。「料理をしている」ではなく、「料理をさせていただいている」「掃除をしている」ではなく、「掃除をさせていただいている」
この「させていただいている」という感覚——それは共同体の中でこそ育まれるんです。
一人では、「私がやっている」という意識から逃れられません。
でも、他者と共に生きる中で、「やらせてもらっている」「生かされている」という謙虚さが自然と湧いてくるんです。
日本のような安定した社会、争いごとの少ない社会は、世界の中でも珍しいのです。
この穏やかさの背景には、他者とシンクロする能力、調和を重んじる価値観、そして日常の中に宗教性を見出す感性があります。
私たちは特別な宗教を持たなくても、すでに十分に宗教的なんです。
東洋の思想が詰まった仏教については、こちらの1冊「【仏教の教えを一言でいうと!?】完全版 仏教「超」入門|白取春彦」もぜひご覧ください。

まとめ
- 「善悪」より「偽善」を嫌う日本人の感性――日本人は西洋的な善悪の二元論ではなく、誠実さと偽善を見分ける鋭い感性を持っています。宗教とは「神を信じるか信じないか」ではなく、日常生活すべてが修行であるという仏教的な世界観が、私たちの中に根付いているのです。
- 日本語の中に息づく宗教心――「お陰さま」「いただきます」といった日常の言葉には、特定の神を指定せずとも感謝を表現する独特の宗教性が宿っています。「ただ坐る」ことで「何のために」という問いから解放される坐禅の智恵は、「させていただく」という謙虚な姿勢につながっています。
- 西洋と東洋:2つの世界観――能動的な西洋と受動的な東洋という対比は、気候風土から生まれた必然でした。日本人が持つ他者とシンクロする能力、調和を重んじる価値観は、共同体の中で磨かれます。独りで悟ることは危険であり、他者という鏡を通じてこそ、真の自己が見えてくるのです。
