- なぜ日本の組織では、誰も反対しないのに何も決まらないんでしょうか。
- 実は、この違和感の正体は、60年以上前にすでに精緻に言語化されていたんです。
- なぜなら、政治学者・丸山眞男が描いたのは、判断が引き受けられないまま、責任だけが拡散していく構造だったからなんです。
- 本書『日本の思想』は、日本人の思考様式を「古層」から掘り起こした古典中の古典です。
- 本書を通じて、私たちが日々感じている「何かおかしいが、誰も悪くない」という組織の空虚感が、驚くほど明確な輪郭を持ち始めます。
丸山眞男(まるやま・まさお、1914-1996)は、戦後日本を代表する政治学者です。
東京帝国大学で学び、戦時中は召集され、敗戦後に復員。その体験が、彼の思想形成に決定的な影響を与えました。
戦争中、彼が目の当たりにしたのは、誰も決断せず、誰も責任を取らないまま、破滅へと突き進む組織の姿でした。
「なぜ日本人は、こんなにも主体的に判断しないのか」
この問いが、彼の生涯のテーマとなります。
本書は1961年に刊行された論文集ですが、扱っているのは過去の思想史ではありません。
今も私たちの中に生きている、意識すらされない思考の型を、彼は執拗に掘り起こしていきます。
読むのは正直、骨が折れます。
文章は硬く、抽象度も高い。
でも、現代の組織で働く私たちにとって、これほど切実な問いを投げかけてくる本も珍しいんです。
「実情」という名の思考停止
丸山眞男が最も鋭く指摘したのは、日本社会の二重構造でした。
明治以降、日本は西洋から制度を輸入しました。
法律、議会、企業組織、教育システム。
表面上は近代化が完了したように見えます。
でも同時に、社会の深層では「人情自然」「実情」という前近代的な感情構造が、そのまま生き続けていたんです。
「第一に『実情』が共同体的習俗に根をおろしている限り、それは本来合理化・抽象化と相容れない」
この一文が、すべてを物語っています。
「実情」とは、日本社会で非常に強い力を持つ言葉です。
「現場の実情を考えると…」
「実情に即して判断すると…」
一見、現実的で柔軟に見えます。
でも丸山が問題にしたのは、この「実情」が、思考を停止させる装置になっているという点でした。
言語化できない=検証不能
「実情」は、本来なら具体的な状況を指すはずです。
でも日本の組織では、この言葉が出た瞬間に、議論が終わります。
なぜか。
「実情」は言語化・抽象化を拒否するからなんです。
言語化されない判断は、検証できません。
検証できないものは、反論もできません。
結果として、「実情だから」という一言が、説明責任を免除する魔法の言葉になってしまうんです。
同じ構造が、「前例」「当社のやり方」「現場感覚」にも見られます。
これらは本来、有益な参照点です。
でも日本企業では、思考を代替する盾として機能してしまう。
制度化が悪循環を生む
さらに丸山が洞察したのは、制度そのものが問題を深刻化させる構造でした。
「制度は完成品として輸入され、各部門にバラバラに導入され、計画性と実態調査の結合を欠いたまま、現実との間に悪循環を引き起こす」
これは、今の日本企業にそのまま当てはまります。
新しい制度を導入する。
でも、その制度を「なぜ導入するのか」という判断は、誰も引き受けない。
上層部は「制度だから」と言い、現場は「従っただけ」と言う。
制度はあるのに、誰もそれを使って判断していない。
この状態を、丸山は「無限責任=無責任」と呼びました。
全員が少しずつ関与しているから、誰も責任主体にならない。
責任が拡散されるほど、次の判断も宙吊りになる。
これが60年以上前に、すでに言語化されていたんです。
判断が蒸発するメカニズム
日本企業でよく見る光景があります。
会議では静かに合意が形成される。議事録もきれいにまとまる。でも実行段階になると、なぜか失速するんです。遅れる。形骸化する。いつの間にか別の解釈になる。
これは、合意が形成されたのではなく、判断が回避されただけなんです。
丸山的に言えば、ここで起きているのは以下です。
- 賛成=主体的判断ではない
- 反対しない=同意でもない
- その場の「空気」に同調しただけ
誰も引き受けていないから、実行段階でエネルギーが出ない。
当然です。
自分が決めたことではないんですから。
上司の「一言」が絶対命令になる構造
もう一つ、典型的な場面があります。
上司が会議で、こう言います。
「それ、いいんじゃない?」
「まあ今回は…」
「うーん、どうだろうね」
この曖昧な言葉が、下に降りると絶対命令になるんです。
でも上司は「決定したつもりはない」。
部下は「決定だと受け取る」。
結果、誰も責任を持たない。
これは権威主義というより、責任の転写なんです。
判断が「空気化」して伝播し、固体化せずに消えていく。
丸山が描いた「判断の主体性の欠如」は、まさにこれです。
胎内化されすぎて意識すらできない
ここまで読んで、「でも、これは日本の伝統だから」と思う人もいるかもしれません。
実際、この構造は長く日本社会を支えてきました。
短期的には安定し、摩擦も少ない。
でも丸山が怖いのは、この構造が、もはや意識すらされていないという点なんです。
私たちは、判断を回避しているとは思っていません。
むしろ、
- 空気を読む
- 摩擦を避ける
- 相手の顔を立てる
これらを「配慮」「思いやり」「大人の対応」だと感じています。
つまり、判断しないことが、美徳として内面化されているんです。
ここまで来ると、外から批判することはほぼ不可能です。
なぜなら、私たち自身が、その構造の担い手だからなんです。
「現場感覚」が絶対値になる瞬間
日本企業で、議論を終わらせる最強のフレーズがあります。
「それは現場を知らない人の意見だ」
「机上の空論だよ」
「理屈は分かるけど…」
これが出ると、議論が止まります。
丸山はこれを、「実情」という魔法の言葉として分析しました。
現場知は本来、重要です。
でも抽象化・言語化を拒否した瞬間、検証不能な絶対値になってしまうんです。
感覚が尊重されているようで、実は誰も説明責任を負わない。
これが、日本的思考停止の核心です。
内在化された構造をどう扱うか
ここまで読んで、多くの人がこう感じるはずです。
「これは根深い」
その通りです。
しかもこの根深さは、悪意でも無能でもなく、うまく回ってきた歴史の副産物として形成されています。
だから厄介なんです。
丸山眞男が本当に凄いのは、彼が「日本人はダメだ」とは一度も言わなかった点です。
彼が示したのは、
思考が抑圧されているのではなく、思考が不要になる環境が、きわめて合理的に設計されている
という視点でした。
これは個人の問題ではありません。
多くの人は、考えられるし、判断できるし、責任感もあります。
でも職場に入った瞬間、「ここでは、それをやらない方が合理的」と学習してしまうんです。
壊すのではなく、ほんの少しズラす
では、希望はないのか。
あります。ただし、形が違います。
大きく変える──組織改革、意識改革、文化変革。
これは、ほぼ失敗します。
なぜなら、この構造は「環境」に埋め込まれているからです。
でも、ほんの少しズラすことはできます。
たとえば
- 会議で「反対意見を出す人」を評価するのではなく、「判断の根拠を言語化した人」を評価する
- 上司が「決めた/決めていない」を明示する
- 失敗時に「誰が判断したか」を記録として残す(処罰しない)
こういう小さな設計変更が、空気の力をほんの少し弱めます。
丸山的に言えば、
判断を引き受けることが例外にならない環境
を、部分的に作ることなんです。
意味が残る場所を探す
最後に、個人としてできることがあります。
それは、判断が蒸発しない場所を、意識的に選ぶことです。
組織の中でも外でもいい。
判断 → 行為 → 手応え → 修正
この循環が、ちゃんと回る場所。
自分の判断が、自分の行為として返ってくる場所。
それを探し続けることです。
これは逃避ではありません。
むしろ、判断を引き受ける主体として生きるという、丸山が最も期待した態度そのものなんです。
名前がついたものは、扱えるようになる
この構造の最大の防御は、「名前がないこと」でした。
でも、丸山眞男は、それに輪郭を与えました。
- 制度と感情の非同期
- 実情という魔法の言葉
- 判断の主体性の欠如
- 無限責任=無責任
名前がついたものは、少しずつ扱えるようになります。
完全には壊せなくても、ほんの少し呼吸できる余白を示すことはできるんです。
それが、今この本を読む意味だと思います。
日本のカルチャーを俯瞰的にとらえてみるには、こちらの1冊「日本再考!!『神経症的な美しさ:アウトサイダーがみた日本』モリス・バーマン,込山宏太」もぜひご覧ください。

まとめ
- 「実情」という名の思考停止――丸山が指摘した日本社会の二重構造は、制度は近代化したのに感情構造は前近代のまま残り続けた状態を指します。「実情」「現場感覚」は言語化を拒否することで、検証不能な絶対値となり、思考を停止させる装置として機能してきました。
- 判断が蒸発するメカニズム――日本企業で「誰も反対しないのに何も決まらない」のは、合意ではなく判断の回避が起きているからです。上司の曖昧な一言が絶対命令に転写され、責任は拡散し、判断の主体は消えていきます。この構造は胎内化されすぎて、もはや意識すらされていません。
- 内在化された構造をどう扱うか――この根深さに絶望する必要はありません。大きく壊すのではなく、ほんの少しズラすこと。判断を言語化した人を評価し、決定の有無を明示し、失敗の記録を残す。そして個人としては、判断が蒸発しない場所を意識的に選び続けることです。名前がついた問題は、少しずつ扱えるようになります。
