私たちは、気づけば、すでに救われている!?『安泰寺禅僧対談』藤田一照,ネルケ無方

『安泰寺禅僧対談』藤田一照,ネルケ無方の書影と手描きアイキャッチ
  • 私たちは日々、何かを得ようと必死になっていませんか?
  • 実は、本当の自由は「手放すこと」の中にあるのかもしれません。
  • なぜなら、執着や期待を手放したとき、初めて自然な生き方が見えてくるからです。
  • 本書は、曹洞宗の僧侶である藤田一照さんとネルケ無方さんの対談を通じて、禅の本質に迫る一冊です。
  • 本書を通じて、「あるがまま」に生きることの深い意味と、それがもたらす生きやすさについて考えていきたいと思います。
藤田一照,ネルケ無方
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藤田一照さんは、曹洞宗の僧侶として長年禅の実践と指導に携わってきた方です。

慶應義塾大学経済学部を卒業後、いったん一般企業に就職しましたが、29歳のときに出家を決意。

その後、アメリカのマサチューセッツ州にある曹洞禅センターで18年間にわたって禅の指導を続け、欧米の人々に禅を伝えてきました。

現在は日本に戻り、オンラインでの坐禅会や各地での指導を通じて、現代に生きる禅のあり方を模索し続けています。

一方、ネルケ無方さんは、ドイツ・ベルリン出身の曹洞宗僧侶です。

16歳で初めて坐禅を体験し、禅に深く惹かれて来日。

京都大学で日本学を学びながら、兵庫県の山奥にある安泰寺という禅寺で修行を積みました。

安泰寺は電気も水道もない厳しい環境の中で、自給自足の生活を送りながら修行する寺として知られています。

ネルケさんは2007年から2020年まで安泰寺の堂頭(住職)を務め、現在は熊本県の大慈寺で禅の実践を続けています。

このふたりの接点は、まさに「禅」という共通の道です。

一照さんがアメリカで禅を伝えていた時期、ネルケさんは日本の山奥で禅と向き合っていました。

日本人でありながら海外で禅を説いた一照さんと、ドイツ人でありながら日本の伝統的な修行を選んだネルケさん。

この対照的な背景を持つふたりが語り合うことで、禅の本質がより立体的に浮かび上がってくるのです。

本書は、そんなふたりの深い対話を通じて、現代を生きる私たちに禅が何を問いかけているのかを明らかにしていきます。

「手放す」ことで見えてくる自然な生き方

禅と聞くと、多くの人は「厳しい修行」や「悟りを開く」といったイメージを持つかもしれません。

しかし、本書で2人の禅僧が語るのは、もっと自然で、もっと日常に近い禅の姿なんです。

その核心にあるのが「手放すこと」という実践です。

ネルケさんは対談の中で、こう語っています。

強調しすぎねとやはりみんな禅寺する何ていうのかいいのは知りすぎそこになんべそれがいいとはわかでいと一時絡

私たちは何かを「得よう」「達成しよう」と必死になりがちです。禅の修行でさえ、「悟りを開こう」「正しく坐ろう」と力んでしまう。でも、そうやって強調しすぎると、かえって手放せなくなってしまうんですね。

何も期待せず、何も待たず、ただそこに在る。

これが禅の実践における「手放す」ということなんです。

一照さんも、坐禅について興味深い指摘をしています。

いざ、自分の頭で、思い通りに「創ろう」と思っては、それは創れないに決まっています。そうではなくて、安楽寺という環境に身をゆだねていくことで、安楽寺が「自ずとなる」という側面もあります。

「創ろう」とするのではなく、「自ずとなる」に任せる。この違いは、一見すると微妙に見えるかもしれません。でも、私たちの生き方を根本から変える視点なんです。

例えば、仕事でも人間関係でも、私たちは「こうあるべき」「こうしなければ」という思いに縛られています。

計画を立て、目標を設定し、それに向かって努力する。それ自体は悪いことではありません。

でも、そこに執着が生まれると、思い通りにならないことへの苛立ちや、失敗への恐れが付きまとうんです。

一照さんが語る「自ずとなる」という考え方は、そうした執着から私たちを解放してくれます。

努力を放棄するということではなく、結果への執着を手放すということ。

今、目の前にあることに誠実に向き合いながら、同時に「こうでなければならない」という縛りからも自由になる。

これが禅的な生き方の基本なんですね。

ネルケさんが「何も期待せずに、そこでしたら自分ととかどういう一時絡」と述べているのも、まさにこの点を指しています。

坐禅をするときに「悟りたい」「心を落ち着けたい」という期待を持つと、その期待が新たな執着になってしまう。

だから、何も期待せず、ただ坐る。

そうすると、不思議なことに、自然と心が整っていくんです。

これは坐禅に限った話ではありません。

日常生活の中でも、「こうあるべき」という理想像を一度手放してみる。

すると、今まで見えていなかった選択肢や可能性が見えてくることがあります。

手放すことは、諦めることではなく、より自然な流れに身を任せることなんですね。

未完成であることの豊かさ

私たちは「完璧」や「完成」に価値を置きがちです。

仕事でも勉強でも、完璧を目指し、完成した状態を理想とする。

でも、本書で語られる禅の視点は、まったく逆なんです。

未完成であること、可能性が残っていることにこそ、本当の豊かさがあると説くんですね。

一照さんとネルケさんの対談から、印象的な部分を見てみましょう。

僕はやっぱり禅というのは「どこまでも行け」っていう、「探究していけ」という、背中を押しているもの。

この対話には、現代を生きる私たちへの重要なメッセージが込められています。

一照「これでいいのか、あれでいいのか」という終わりのない探究が続く、僕はやっぱり未完成品の方が素晴らしいと思いますね。無方 そうですね。可能性が残っているから。

私たちは「大したことで悩んでいない」と、人間を完成品のように扱ってしまいがちです。

でも、未完成だからこそ、まだ成長できる余地があるんです。

ネルケさんが指摘するように、修行を「生きる」ということに広げていくと、日常のすべてが修行になります。

やはり修行というの、自発的にやってなくでは辛いだけですよ。主体性の責任レベルで与えられると、それこそ修行は辛いだけですよ。それから修行を「生きる」ということに広げても、自発的に生きていなかったら辛いだけですよ。「何で俺にこんなことばっかり起こるんだ」ということになりますから。言檀住いうのは、深い意味での自発的に生きている人だと思います。

自発的に生きるというのは、与えられた環境や状況に対して、受け身ではなく主体的に関わっていくということです。

困難な状況でも「なぜ自分ばかり」と嘆くのではなく、その中で何ができるかを考える。

これが自発的な生き方なんですね。

そして、自発的に生きるためには、自分が未完成であることを認める必要があります。

完成してしまったら、もう成長の余地はありません。

でも、未完成だからこそ、今日よりも明日、もう少し良くなれる可能性がある。

この「可能性が残っている」という状態が、実は最も豊かな状態なんです。

対談では、人間に生まれた意味についても触れられています。

可能性と言えば、本当の可能性というのはどこにあるのか、ということ問題で実際で、人間にとって、いつもこれしかない、いつも決まっている、より良くなるはずだとか、探しているからね、今ここで何が起きないところ、開きているところ、もうよくなるはずだとか、探しているからね、そういう目で見ているから、もうすでにある、充分あるものにかなか目がいかないわけですよ。

私たちは「より良くなる」ことばかりを求めて、今ここにすでにあるものを見落としています。

未来の可能性を追い求めるあまり、今この瞬間の豊かさに気づかないんですね。

でも、本当の可能性は、実は今ここにあるんです。

今、この瞬間に開かれている可能性。

それは「将来こうなるはず」という期待ではなく、「今ここで何ができるか」という現在形の可能性なんですね。

未完成であることを受け入れ、同時に今ここにある豊かさにも気づく。

この両方を持つことが、禅的な生き方の核心だと思います。

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すでに救われているという安心

禅の教えの中で、最も深く、最も解放的なメッセージがあります。

それは「すでに救われている」という視点です。

これは、私たちが普段考えている「努力して救われる」「修行して悟る」という図式とはまったく違うんですね。

一照さんの言葉を見てみましょう。

菩提心を発こしたその時点で、あなたはすでに救われている。だから、菩提心を発こそう、いや、救われるか救われないかを考えたりせず、「自分は菩提心という現環境に身をゆだねていく」という、膚けただけなのかを教えないかけれど自分はやこまやって思いけれども、いいわけですよ「信じる」ということになんらかなければいけないと考えなくてもいいわけですよ。自分がこういうやってまけれどもいい安心で実「信じる」ということはなんでもいいということになります。

これは驚くべき逆転の発想です。

「悟りを開こう」「救われよう」と努力するのではなく、すでに救われているという前提から始まる。

菩提心を発こそうと思った瞬間、もうすでに救われているんです。

だから、「信じよう」「悟ろう」と力む必要はない。

ただ、その事実を受け入れればいいだけなんですね。

これは大乗仏教の核心的な教えでもあります。

同時にまた、「私一人救われなくてもいいではないか」と思ったその瞬間、「今までの悩みは何だったんだろう」と不思議でなりません。「生きることは地獄だ、毎日が大変だ」と思っていたこの生死こそ、パラダイスじゃないかと気づきます。極心なく、本当はパラダイスという気づきが初めてそこに出てくるのです。

「私一人が救われなくてもいい」と思った瞬間、パラダイスが見えてくる。

これは論理的には矛盾しているように聞こえるかもしれません。

でも、禅の真理はこうした逆説の中にあるんです。

自分だけが救われようとしている間は、実は救われていない。

でも、自分が救われることへの執着を手放した瞬間、すでに救われていることに気づく。

この「すでに」という時制が重要なんですね。

未来に救われるのではなく、今ここですでに救われている。

ネルケさんは、このことを2次元と3次元の違いで説明しています。

迷ったっていいじゃないかっていうとその違いが消えるというのは二次元じゃなくて三次元というか、もう一つ次元を入れないと理解できないものも、仏教は少なくとも二次元以上の話をしているんだけど、僕らは二次元的に受け止めるから、三次元のものを二次元で理解するとそれは実際じゃなくて投影されたものですよね。

私たちは物事を2次元的に、つまり「良い・悪い」「正しい・間違い」「救われた・救われていない」という平面的な図式で捉えがちです。

でも、禅が語るのは3次元的な理解なんです。

迷うことも、悩むことも、すべて含めて、それ自体が仏の世界。

2次元的に見れば「迷いは悪で、悟りは善」となります。

でも、3次元的に見れば、迷いも悟りも同じ次元に存在している。

迷っている自分も、悟りを求める自分も、すべて含めて完全なんですね。

これが「すでに救われている」という視点の深さです。

何かを達成したから救われるのではなく、今この瞬間、迷いも含めて、すべてがそのまま完全である。

この理解が腑に落ちたとき、私たちは本当の意味で自由になれるんです。

「こうでなければならない」という縛りから解放され、「今ここにあるものすべてが、すでに完全である」という安心の中で生きられる。

これが禅が示す、最も深い生きやすさなのだと思います。

禅マインドについては、こちらの1冊「生きること、そのすべてが、“禅”である!?『坐らぬ禅』ひろさちや」もぜひご覧ください。

まとめ

  • 「手放す」ことで見えてくる自然な生き方――強調しすぎず、期待せず、ただそこに在る。禅の実践は「創ろう」とするのではなく「自ずとなる」に任せることで、執着から解放され、より自然な流れに身を任せることができます。手放すことは諦めではなく、真の自由への道です。
  • 未完成であることの豊かさ――完璧を目指すのではなく、未完成であることに価値がある。可能性が残っているからこそ成長できるし、自発的に生きることができます。今ここにすでにある豊かさに気づきながら、同時に未完成の自分を受け入れることが、禅的な生き方の核心です。
  • すでに救われているという安心――悟りや救いは未来にあるのではなく、今ここにすでにある。二次元的な「良い・悪い」の判断を超えて、迷いも含めてすべてが完全であると理解したとき、本当の自由と生きやすさが訪れます。
藤田一照,ネルケ無方
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