- あなたは、自分の中に仏がいると感じたことはありますか?
- 実は、仏教では誰もが最初から仏なんです。悟りを「得る」のではなく、すでにそこにあるものに「気づく」。それが仏教の根本的な考え方です。
- なぜなら、仏教は神を信じる宗教ではなく、自分自身がブッダに「なる」宗教だからです。キリスト教やイスラム教のように、神の恩寵や救いを待つのではありません。自分の中にある仏性に、自分で気づいていく。そこに仏教の独自性があります。
- 本書は、ドイツ出身の禅僧ネルケ無方さんが、西洋人の視点から仏教とは何かを客観的に論じた一冊です。キリスト教との比較を通じて、仏教の本質が鮮やかに浮かび上がります。
- 本書を通じて、私たちは「迷いは悟りの第一歩」という言葉の真意に触れることができます。完璧を目指すのではなく、ありのままの自分を受け入れる。その中にこそ、仏教的な生き方のヒントがあるんです。
ネルケ無方さんは、1968年にドイツで生まれ、16歳の時に来日した禅僧です。
高校生の頃、哲学書を読み漁る中で東洋思想に興味を持ち、特に禅に惹かれて日本へ渡りました。大阪大学で日本学を専攻した後、京都の安泰寺で出家得度。その後、兵庫県にある曹洞宗安泰寺の住職を務めています。
ネルケさんの特徴は、西洋人でありながら日本の禅僧として生きているという立場です。キリスト教文化圏で育った視点から、仏教を客観的に見つめることができる。そのため、私たち日本人が当たり前だと思っている仏教の特徴を、新鮮な角度から教えてくれます。
本書を執筆した動機は、日本人が自国の宗教である仏教をよく理解していないことへの問題意識でした。「仏教とは何か」と問われて、明確に答えられる日本人は少ない。そこでネルケさんは、キリスト教やイスラム教と比較しながら、仏教の本質を解き明かそうとしたのです。
「迷いは悟りの第一歩」というタイトルには、完璧を目指さなくていいというメッセージが込められています。迷いながら、悩みながら、それでも自分の道を歩む。そこに仏教的な生き方があると、ネルケさんは語りかけてきます。
仏教は「なる」宗教――キリスト教・イスラム教との違い
宗教について考える時、多くの人は「信じるか、信じないか」という問いを思い浮かべるのではないでしょうか。
実は、この問い自体がキリスト教的な発想なんです。
ネルケさんは本書で、仏教とキリスト教の根本的な違いを鮮やかに示してくれます。キリスト教では「信じるか、信じないか」が争点になりますが、仏教ではそもそもその問いが成立しません。
宗教について西洋人が議論をする場合、まずは「信じるか、信じないか」が争点になります。しかし仏教では、あまりそれは問題視されません。仏教では、誰でもブッダになれるのです。その意味でも仏教は、”religion”というよりは、ブッダになるための実践方法と言えるでしょう。
この一文には、仏教の本質が凝縮されています。
仏教は神を信じる宗教ではなく、自分自身がブッダに「なる」宗教なんです。信仰の対象を外部に求めるのではなく、自分の内側に仏性を見出していく。そこがキリスト教やイスラム教と決定的に異なる点です。
キリスト教の物語は「クリエーション(創造)」から始まります。神がこの世界を創造し、人間も神の手によって造られた。だからこそ「この世界は誰の手によって創造されたか」と問われ、「それを信じるかどうか」が重要になります。
しかし仏教のコスモロジーでは、創造主を問題にしません。
キリスト教の物語は「クリエーション(創造)」から始まります。しかし、仏教のコスモロジーでは創造主を問題にしません。「この世界は誰の手によって創造されたか」と問われ、「それは誰でもない(誰でもないところに)生まれ作られている」と答える仏教の哲学者もいるかもしれません。
「この世界は誰の手によって創造されたか」と問われても、仏教は「(誰でもないところに)生まれ作られている」と答える。ブッダ自身も、この世の始まりについて問われても沈黙していたはずです。
この違いは、人間の位置づけにも大きく影響します。
キリスト教では、神によって創造された人間は、神の恩寵によって救われることを待ちます。神と人間の間には明確な上下関係があり、人間は神に祈り、神の愛を信じることで救いを得る。
一方、仏教では誰でもブッダになれる。つまり、神のような超越的な存在に依存するのではなく、自分自身が悟りへの道を歩むことができるんです。
それでは、神を信じない仏教において「自由」とは何でしょうか。
神を信じないということは、自分の自由な意志で人生を選択できるということを意味するのでしょうか。ネルケさんは、この問いに対しても仏教独自の答えを示します。
それでは、神をいただかない仏教のポジションでは、「自由」とは何か。何でも自分で決められるのはもちろんのこと、自分の人生を変えるためには、そのわがままをなくすしかない。そのためにはどうすればよいのか。この世を支配しているのは神の相対するものではなく、因果関係である、というのが仏教のポジションです。
ここに仏教の深いインサイトがあります。
自由とは何でも好き勝手にできることではありません。因果関係の中で生きている私たちは、その法則から逃れることはできない。しかし同時に、その因果を理解し、自分のわがままを手放すことで、真の自由に近づくことができるんです。
キリスト教における「愛」と仏教における「慈悲」の違いも、この文脈で理解できます。
仏教の「愛」――さて、ここまでキリスト教における「愛」を見てきました。最後に、愛に対する教えを簡単にまとめてみましょう。釈尊の教えの出発点は「苦」です。人は思うようにならない。その原因は「思うようになるはずだ」という執着にある。自分が幸せに生きるために、幸せ願う執着を捨てよう。
キリスト教の愛は、神から人間へ、そして人間から隣人へと注がれるものです。しかし大事なのは、愛を頭で理解することではなく、愛の実践なんです。それを教えてくれたのが、安泰寺の師匠でした。
ある日の休憩時間、堂頭さん(住職のこと)に「安泰寺の本質は何ですか?汗をかくことですか?」と尋ねてみたそうです。すると堂頭さんは笑いながら答えました。
「ええが、ひとつだけ言うとくわ。『悟り、悟り』と言っている限り、お前には悟る資格名かない!」
この言葉は、仏教の本質を突いています。
悟りを「得よう」とする限り、それは執着になってしまう。悟りを目指すという行為自体が、すでに悟りから遠ざかっているんです。
それに対して、仏教の慈悲は少し違います。全世界をわが子のように思う心、それが仏教の言う「慈・悲・喜・捨」つまり「慈悲」なのです。
私たち人間はすべてこのつながりの中で生きている。そのことそそ自覚できれば、「欲」や「貪」という執着そのものが問題になってくるでしょう。全世界をわが子のように思う心、それが仏教の言う「慈・悲・喜・捨」つまり慈悲なのです。
私たちはつながりの中で生きています。そのことを自覚すれば、「欲」や「貪」という執着そのものが問題になってくる。愛が「あるから」執着が生じ、執着があるから「好き嫌い」が区別される。愛があるから苦しいと思い、執着をする。その結果として人々は不安にかられるんです。
キリスト教の愛が、大事なのは「愛を頭で理解することではなく、愛の実践です」というように、愛を与えて実践していく方向性であるのに対し、仏教の慈悲は執着を手放していく方向性だと言えるかもしれません。
ネルケさんは、こうした比較を通じて仏教の独自性を浮き彫りにします。仏教は「なる」宗教であり、誰もが自分の中にある仏性に気づいていく道なんです。神を信じて救いを待つのではなく、自分自身が実践を通じてブッダになる。そこに仏教の根本的な姿勢があります。
迷いは悟りの第一歩――「すでに仏である」とは何か
「悟れば、全ての問題は解決する」「悟れば一度と悩まないだろう」
そう考えていませんか?
実は、それは仏教の本質とは逆のベクトルなんです。
ネルケさんは本書のタイトルに「迷いは悟りの第一歩」という言葉を選びました。この言葉には、完璧を目指さなくていいというメッセージが込められています。
「悟れば、全ての問題は解決する」「悟れば一度と悩まないだろう」「悟れば、永遠の幸せが手に入る」……しかし、そういえば「悟り」だと道元は言います。そのベクトルが反対なのです。――悟りは、迷いの自覚です。迷いがなければ悟りもなく、迷いの「原因」と言ってもいいかもしれません。
悟りとは、迷いの自覚なんです。
迷いがなければ悟りもない。迷いの中にこそ、悟りへの道が開かれている。この逆説的な表現に、仏教の本質が凝縮されています。
多くの人は、悟りを何か特別な境地だと考えます。すべての苦しみから解放され、完全な平安を得た状態。そこに到達すれば、もう迷うことはない。そう思い込んでいるんです。
しかし、仏教はそうした考え方を否定します。
仏教と哲学は当然、大きく違うものです。哲学と両者は頭で解決するという、似たような心の両方に関わってきます。しかし、両者に共通しているのは「どう生きるべきか」という問いです。
仏教と哲学は当然、大きく違うものです。哲学と両者は頭で解決するという、似たような心の両方に関わってきます。しかし、両者に共通しているのは「どう生きるべきか」という問いです。
この問いに対して、哲学は様々な答えを提示してきました。ヘーゲルはこう言った、マルクスはこう言った、そしてニーチェは……と、他人の言説を挙げ連ねるだけのものは、「第三者の哲学」とも呼ぶべきものなんです。
それに対して、仏教は一人称の哲学です。
先生があぐらをくても「一人称の哲学」にこだわっていたからでしょう。――一人称の哲学というのは、「どう考え、どう行動し、どう生きるべきか」を、自分で実践しなければならないものとして、哲学を捉えなおしたのです。それに対して「ヘーゲルはああ言った、マルクスはこう言った、そしてニーチェは……」と、他人の言説を挙げ連ねるだけのものは、「第三者の哲学」とも呼ぶべきものなのです。
「どう考え、どう行動し、どう生きるべきか」を、自分で実践しなければならない。それが一人称の哲学としての仏教です。
他人の言葉をいくら集めても、それは自分の哲学にはなりません。思想停止に陥るだけです。それを自分自身にひきつけ、生き方として実践して初めて「仏教」になると私は考えます。
ここで重要なのは、「仏教」とは知識ではなく実践だということです。
お釈迦様が説いた教えを暗記することでも、経典を読み込むことでもありません。それを自分自身の生き方として、日々実践していくこと。そこに仏教の核心があるんです。
では、「すでに仏である」とはどういうことでしょうか。
多くの人は、修行を積んで、悟りを開いて、初めて仏になれると考えています。しかし仏教の本質は、そうではないんです。
最後にもう一度、「仏教とは何か?」と問うことをお許しいただきたい。 答えは一言、「ブッダの教え」でしょう。 しかし仏教の言う「ブッダの教え」とは、自分が目を覚ました時に見えてくる、ものごとのありのままの姿です。そこでは「仏」も「神」も「宗教」も、守りなさい」という一方的な押し付けではありません。「仏の教え」とは、自分が目を覚ました時に見えてくる、ものごとのありのままの姿なのです。
ブッダの教えとは、自分が目を覚ました時に見えてくる、ものごとのありのままの姿。
つまり、悟りとは外部から与えられるものではなく、自分の中にすでにあるものに気づくことなんです。私たちは最初から仏です。ただ、それに気づいていないだけ。迷いながら、悩みながら、その中で自分がすでに仏であることに目覚めていく。
それが「迷いは悟りの第一歩」という言葉の真意です。
完璧を目指す必要はありません。迷いを否定する必要もありません。むしろ、迷いがあるからこそ、その迷いを自覚することで、悟りに気づくことができるんです。
自分を手放して、ありのままの自分になる――禅修行の実践
「すでに仏である」ということは理解できた。
でも、それをどうやって実感すればいいんでしょうか?
ネルケさんは、その答えを禅修行の実践の中に見出します。キーワードは「自分を手放す」ということです。
ある日の休憩時間の祈りに、堂頭さん(住職のこと)に興味本位で聞いてみたそうです。
ある日の休憩時間の祈りに、堂頭さん(住職のこと)に興味本位で聞いてみました。「安泰寺の本質は何ですか?汗をかくことですか?」「私は何者ですか?」「それはどっちらだか分かれるのです。そんなもん同。自分が自分になることちゃ。そのためにはまず、自分が何やめなきゃならん」と、堂頭さんは笑いながら答えました。「いい言葉? ふざけるな、自分も興道も死んじまえ」それを疑うせるのは、今、お前が仏として生活しなかったら、誰が代わりに仏をやるのか」
この問答は、禅修行の本質を示しています。
「私は何者ですか?」という問いに対して、堂頭さんは「自分が自分になることちゃ。そのためにはまず、自分が何やめなきゃならん」と答えました。自分が自分になるために、自分を手放す。この逆説的な表現に、禅の深い智慧があります。
私たちは普段、「自分」というものを固定的に捉えています。自分には性格があり、好みがあり、価値観がある。そうした属性の集まりが「自分」だと思い込んでいるんです。
しかし、仏教ではそうした固定的な「自分」を否定します。
天地も施し、空気も施し、水も施し、植物も施し動物も施し、人も施す。施し合い。わかれれはこの施暖し合う中にのみ、生きている。
天地も施し、空気も施し、水も施し、植物も施し動物も施し、人も施す。施し合い。わかれれはこの施暖し合う中にのみ、生きている。『最後部編』「神に感じ」「大至無極」と言う禅師さんはいかにも禅師らしく応答しました。「いい言葉? ふざけるな。自分も興道も死んどめ」それを疑うせるのは、今、お前が仏として生活しなかったら、誰が代わりに仏をやるのか」
天地も、空気も、水も、植物も、動物も、人も。すべてが施し合っている。私たちは、この施し合う中にのみ生きているんです。
「ええか、ひとつだけ言うとくわ。『悟り、悟り』と言っている限り、お前には悟る資格はない!」
悟りを求めている限り、悟れない。
なぜなら、悟りを「得よう」とする心そのものが執着だからです。何かを得ようとする限り、私たちは「今ここにあるもの」から目を背けています。すでに自分の中にある仏性を見逃して、どこか遠くに悟りがあると思い込んでいるんです。
「ニュートンの第三法則を知っているか? いわゆる作用・反作用の法則だよ。お前が何かを押すと、必ず押した分だけ押し返されて、悟りだいたぶん欲しがるほど、反作用が生じて逆襲。――お前がいまだにブッダにならなくても、もうとっぷの言が神通力めんだから、お釈迦様の『信じれば救われる』ということになってしまう。『明恵出現の時、我と大地有情と同成する』『敏』『正法眼蔵』の巻に言いところだろう。『明恵出現の時、我と大地有情と同成する』釈尊へ披露しじゃ」「『報恩? それなら悟い、キリスト教の『信じれば救われる』と大差ないではありませんか」「それは違う。お前ぇたな」
この問答は深いんです。
悟りを求めれば求めるほど、反作用が生じて遠ざかる。それはニュートンの第三法則と同じだと堂頭さんは言います。押せば押すほど、押し返される。悟りを欲しがれば欲しがるほど、その執着が悟りから遠ざけるんです。
では、どうすればいいのでしょうか。
答えは、何も求めないことです。悟りを得ようとせず、ただ今この瞬間を生きる。それが禅修行の本質なんです。
「『周りを見なさい。見るものすべては仏だ。それが見えないのは、お前が『悟りたい』という色眼鏡をいまだに捨てさせないからだ』 世界は寂かんだよ。自分を手放して、自分のほかに由りところがない」と、仏典『大般涅槃経』に書かれています。――この『自由』とは自我を固くと、キリスト教の専売特許のように考えている人もいるかもしれませんが、それは違です。「『自由』も『宗教』という言葉と同様に、明治になってから訳語として仏教用語から借り出されたものなのです。「『自由』という言葉を囲むと、キリスト教の専売特許のように考えている人もいるかもしれませんが、それは逆です。
「周りを見なさい。見るものすべては仏だ」
この言葉は衝撃的です。見るものすべてが仏。つまり、特別な修行を積まなくても、特別な境地に達しなくても、今この瞬間に仏は目の前にあるんです。
それが見えないのは、「悟りたい」という色眼鏡をかけているからです。悟りを求める心が、かえって目の前の仏を見えなくしている。だから、その色眼鏡を外すこと。自分を手放すこと。それが禅修行の実践なんです。
日本語に一貫したアイデンティティを表す言葉がないというのは、仏教の「無我」の教えに非常に近いかもしれません。
日本語に一貫したアイデンティティを表す言葉がないというのは、仏教の「無我」の教えに非常に近いかもしれません。――そのことを一番感受に表している言葉が、「させていただく」です。――親鸞聖人曰く、「阿弥陀如来の力によって念仏を唱えさせていただく」。――道元禅師も次のように言っていました。「自分のこと仏教徒と思っていた人日本人でも、『させていただく』という言葉はよく使っていしょう。自覚せずとも、その感覚はとても仏教的だ、私は思います。
「させていただく」という日本語の表現には、仏教的な主体性が込められています。
これは単なる謙譲語ではありません。自分が何かをする時、それは自分の力だけで成り立っているのではない。周りの縁によって「させていただいている」。その感覚が、「させていただく」という言葉に表れているんです。
日本語特有の表現方法として、「迷惑の受身」というのがあります。
日本語特有の表現方法として、「迷惑の受身」というのがあります。「朝までピアノを弾かれて寝られなかった」「飲みすぎで二日酔いになっ」……欧米の言葉では、このような表現はできません。「『弾かれた』のはあなたではなく、ピアノだろう。迷惑ならば、なぜ『うるさい』と言わなかったのか」。――それが欧米人の考えです。「『させていただく』ことを実感することは、とても大事です。しかし同時に、主体性を持って、主体的に存在することが大事な場面もあります。それは神の修行道場の場合も、同じことです。
「弾かれた」のはあなたではなく、ピアノだろう。欧米の人はそう考えます。しかし日本人は、「朝までピアノを弾かれて寝られなかった」と表現する。自分が主語にならない。受動態で表現するんです。
これは主体性の欠如ではありません。むしろ、自分が世界の中心ではないという謙虚さの表れです。自分と世界が分離していない。つながっている。その感覚が、「迷惑の受身」という表現に現れているんです。
仏教を実践するためには、仏教を第三者の目で見るのではなく、「私こそ主役だ」という一人称で関わらなければいけません。
仏教を実践するためには、仏教を第三者の目で見るのではなく、「私こそ主役だ」という一人称で関わらなければいけません。仏教に対して一人称で関わらなければいけません。
これは矛盾しているように聞こえるかもしれません。「させていただく」という受動的な姿勢と、「私こそ主役だ」という主体的な姿勢。どちらが正しいのでしょうか。
実は、両方なんです。
仏教の伝統を説明するために、水をあるコップから別のコップへ移す、という比喩があります。
仏教の伝統を説明するために、水をあるコップから別のコップへ移す、という比喩があります。――そのときはできるだけコップを空っぽにならなければ、釈尊から脈々と伝わってきた教えを受け入れることはできないのです。――「言いかり」と言っても口頭のような「言いかり」を受けるということにはありません。そうではなく、「ありのままの自分」になること、余分な飾りを捨てることです。
空っぽになること。それが仏教の伝統を受け継ぐ方法です。
コップが何かで満たされていたら、新しい水を受け入れることはできません。自分の固定観念、執着、価値観。そうしたものを手放して、空っぽになる。そうして初めて、仏教の教えを受け入れることができるんです。
ブッダになる――。
――という と、大げさに聞こえるかもしれないが、要するに「ありのままの自分になる」ことが禅の眼目です。
大げさに聞こえるかもしれませんが、要するに「ありのままの自分になる」こと。それが禅の眼目なんです。
ありのままの自分。それは、何も足さない、何も引かない、自分自身です。社会的な役割を演じるのでもなく、理想の自分を目指すのでもなく、ただそこにいる自分。
私の言う「自由」とは、「~から自由になる」という意味ではありません。自分が今この瞬間に出会っているものを「自分のもの」にすることによって、はじめて自由になれるのです。
「~から自由になる」という意味ではなく、自分が今この瞬間に出会っているものを「自分のもの」にすること。それが仏教の言う自由なんです。
何かから逃げるのではなく、今ここにあるものを受け入れる。自分の置かれた状況を、そのまま受け入れる。その中に自由があります。
現代を生きる私たちは、常に何かを求めています。もっと良い仕事、もっと高い収入、もっと充実した人間関係。今の自分では足りない、もっと何かを得なければと思い込んでいるんです。
しかし、ネルケさんは教えてくれます。すでに私たちは仏なんです。何も足りないものはありません。ただ、それに気づいていないだけ。自分を手放して、ありのままの自分になること。そこに、仏教的な生き方があるんです。
ネルケ無方さんの著書については、こちらの1冊「可能性は、いまここに!!『ただ坐る ~生きる自信が湧く 1日15分座禅~』ネルケ無方」もぜひご覧ください。

まとめ
- 仏教は「なる」宗教――キリスト教・イスラム教との違い――仏教は神を信じる宗教ではなく、誰もがブッダに「なる」宗教です。キリスト教が神の恩寵を待つのに対し、仏教は自分の中にある仏性を見出していく。この「実践」としての性格が、仏教の独自性を形作っています。
- 迷いは悟りの第一歩――「すでに仏である」とは何か――悟りとは迷いの自覚であり、迷いがあるからこそ悟りに気づくことができます。仏教は一人称の哲学として、知識ではなく実践を重視する。私たちはすでに仏であり、それに目覚めていくことが仏教の道なのです。
- 自分を手放して、ありのままの自分になる――禅修行の実践――「させていただく」という受動態の中に、仏教的な主体性があります。自分を手放して空っぽになることで、ありのままの自分になれる。悟りを求めず、今この瞬間を生きること。そこに禅修行の本質があります。
