この記事を書いた人:増田 浩一(増田みはらし書店 店主/中小企業診断士)プロフィール
「そんな昔の話、今さら関係ありますかね」
そう言いながらも、社長は話してくれました。
最初はゆっくりと、少し遠慮がちに。 しかし話が進むにつれて、少しずつ言葉に熱が入ってきました。
それはこの店の原点であり、この社長という人間の原点でもある話でした。
社長は、もともとサラリーマンでした。
大手企業に勤め、30代の半ばに中国への赴任を命じられました。 言葉もほとんどわからない状態での赴任でした。 業務は多く、責任は重く、文化の違いから来る摩擦も絶えなかった。
「最初の1年は、本当につらかったです」と、社長は言いました。
ビジネス上のトラブルもあった。 意思疎通がうまくいかないことも、多かった。 日本でのやり方が、そのままでは通じないことも、何度もあった。
それでも、なんとかやってこられた。 その理由を、社長はこう話しました。
「夜、みんなで飲む時間があったからだと思います」
白酒(バイチュウ)という酒があります。
中国の蒸留酒で、度数が高く、独特の香りを持ちます。 最初は飲みにくいと感じる人が多い。 社長も最初はそうでした。
しかしある夜、現地の取引先の担当者に誘われて、 一緒に白酒を飲む機会がありました。
言葉は十分には通じなかった。 通訳を挟みながら、つたない中国語も混ぜながら、 それでも同じ盃を傾けていると、何かが変わっていった。
「気づいたら、友達になっていた」と、社長は言いました。
仕事上の相手だった人が、いつの間にか仲間になっていた。 国籍も文化も違うのに、同じ酒を飲むことで、 見えない壁が、少しずつ崩れていった。
その体験が、何度も続きました。 中国の同僚と。取引先と。 どこかの夜の席で知り合った、別の会社の日本人駐在員とも。
「あの時間がなかったら、中国でやっていけなかったと思います」
社長はそう言いました。 仕事の成果よりも、数字よりも、 白酒を囲んだあの夜々が、中国での日々の核心にあった。
数年後、帰国することになりました。
東京の本社に戻り、また別の仕事が始まりました。 待遇も悪くなかった。仕事の内容も、意義のあるものでした。
しかし社長は、何か物足りなさを感じていたと言います。
「なんか、違う・・・」
言葉にするのは難しかった、と言っていました。 不満があるわけではない。 でも、中国でのあの感覚が、ずっと頭の片隅にあった。
酒を囲んで、人が出会う。 国籍も立場も超えて、その夜だけの仲間ができる。 翌朝には別々の場所へ帰っていくけれど、 確かにそこで、何かがつながった。
そういう場を、自分でつくれないだろうか。
その思いが、少しずつ大きくなっていきました。
脱サラを決めたのは、それから間もなくのことでした。
居酒屋を開こうと思ったのは、あの夜々の記憶からです。 日本酒を選んだのは、白酒が果たしたあの役割を、 日本の文化で再現したかったからです。
日本酒には、その力があると思っていた。 特に純米酒には、土地の水と米と、造り手の思いが宿っている。 それを媒介にして、人と人が出会える場をつくれるはずだ。
恵比寿を選んだのも、理由がありました。 外国人の駐在員が多く集まるエリアだからです。 日本に来ている外国人が、日本酒を通じて、 日本の文化と、日本の人と出会える場所にしたかった。
ターゲットは、純米酒のファンと、日本に暮らす外国人。 それが最初の構想でした。
私は話を聞きながら、店のことを思い浮かべていました。
食べログに出ていた、しゃぶしゃぶの写真。 フェイスブックの、蕎麦の画像。 飲み放題のプラン。
あの店と、今聞いている話が、 まったく別のものに見えました。
しかし別のものなのではない。 同じものの、ふたつの姿です。
一方は外から見えている姿で、 もう一方は内側にある、この店の本当の理由でした。
意味は、消えていませんでした。 ただ、言葉になっていなかっただけでした。
社長が話し終えたとき、私は確認しました。
「それが、この店の本当の理由ですね」
社長は少し間を置いてから、うなずきました。
「そうか。そういうことだったんですね」
自分でも、整理できていなかったのだと思います。5年間、オペレーションに追われながら走り続けてきた。 なぜ走っているのかを、立ち止まって言葉にする機会がなかった。
でもその原体験は、ずっとそこにありました。 問われることで、ようやく言葉になった。
原体験とは、そういうものだと思います。
本人の中に、ずっとある。 消えることはない。 しかし、問われないと、言葉にならない。
そしてその言葉が出てきたとき、 経営は変わり始めます。
次の話では、その変化を辿っていきます。
この記事を書いた人:増田 浩一(増田みはらし書店 店主/中小企業診断士)プロフィール
ビジョン思考・組織・ブランド・生き方について、良書とともに探究しています。
