この記事を書いた人:増田 浩一(増田みはらし書店 店主/中小企業診断士)プロフィール
恵比寿に、一軒の居酒屋がありました。
純米酒を280種類、常時そろえた店です。 恵比寿でも指折りの、本格的な日本酒の居酒屋でした。
しかし私が最初にその店のことを知ったとき、 そのことは、どこにも伝わっていませんでした。
食べログを見ると、しゃぶしゃぶが出てきます。 フェイスブックをのぞくと、蕎麦の写真があります。 飲み放題のプランも目立ちます。 ビールの紹介もある。
一言で言うと、何でもある居酒屋でした。
大手チェーンが「なんでもあります」と打ち出すのとは、 少し違う意味で、何でもある。
何を売りにしているのかが、見えない。 どんな人に来てほしいのかが、伝わらない。 その店の顔が、どこにもなかったのです。
実態はまったく違うのに。 純米酒280種類という、他には代えのきかない店なのに・・・。
私がその社長と出会ったのは、ある支援の場がきっかけでした。
開店から5年が経っていました。 売り上げは伸び悩んでいて、 社長は「何かが違う」という感覚を、ずっと抱えていたと言います。
最初に話を聞きながら、私は店の情報をひと通り確認しました。
食べログ。フェイスブック。ホームページ。
そこに並んでいるのは、蕎麦、しゃぶしゃぶ、メンチカツ、ビール、飲み放題。 どれも悪いものではありません。 しかし、何を目的に来ればいいのかが、わからない。
大手チェーン店が「何でもありますよ」と打ち出すときと、 印象がほとんど変わらない。
それでいて、実態は純米酒280種類をそろえた専門店です。 恵比寿でこれだけの品揃えをしている居酒屋は、ほかにありません。 それが、まったく伝わっていなかった。
なぜこうなったのか。 私には、すぐに見当がつきました。
意味が、言葉になっていなかったからです。
経営の現場では、こういうことがよく起きます。
最初は、確かな理由があって始めた仕事です。 なぜこの事業をやるのか。 なぜこの商品でなければならないのか。 なぜここに店を出したのか。
出発点には、必ず答えがあります。
しかし日々の運営の中で、その答えは少しずつ日常に溶け込んでいきます。 当たり前のことになっていく。 語られなくなっていく。 問われなくなっていく。
社長は一人で店を切り盛りしていました。 仕込みがある。仕入れがある。スタッフのシフトを組む必要もある。 毎日のオペレーションをこなすだけで、一日が終わっていく。
その中で「なぜこの店をやっているのか」を言葉にする機会は、 ほとんどありませんでした。
困ったことが、いくつも起きていました。
まず、従業員が「うちって何屋ですか」という感覚で働いていました。 日本酒は確かにたくさんある。 でも、それが看板なのかどうか、わからない。 お客さんに何をおすすめすればいいのか、判断できない。 だから、メンチカツをすすめたり、蕎麦をすすめたりしていた。
ホームページを作り直そうとした制作会社も、 「何を前に出せばいいですか」と聞いてきました。 社長は答えられなかった。 「日本酒は多いんですけど……」と言いながら、 そこから先の言葉が続かなかった。
結果として、ホームページの改修は止まったままになっていました。
外から見ると、これは「発信の問題」に見えます。 情報整理ができていない。ブランディングが弱い。 そういう言葉で片付けることもできます。
しかし私はそう見ませんでした。
問題は発信ではなく、もっと手前にある。 何を発信すべきかが、まだ言葉になっていない。 言葉になっていないから、伝えようがない。
意味が言葉になっていないとき、組織には特有の症状が出ます。
判断の基準が、なくなります。
これをやるべきか、やらないべきか。 この方向に進むべきか、別の方向に進むべきか。 その判断を支える「なぜ」がないと、 目の前のことに引っ張られ続けます。
お客さんが「しゃぶしゃぶもあればいいのに」と言えば、しゃぶしゃぶを出す。 飲み放題のニーズがありそうだから、飲み放題を始める。 近くにビールのおいしい店ができたから、ビールのメニューも増やす。
ひとつひとつは、悪い判断ではありません。 しかし積み重なると、どんどん「何でもある店」になっていく。 気づいたときには、自分たちの顔が、どこにもない。
この社長も、まさにそういう5年間を過ごしていたのだと思います。
ただ、目の前のことに真剣に向き合い続けた結果、 大切なものが少しずつ薄れていった。
それは、経営者の失敗ではなく、 意味が言葉になっていないことの、自然な帰結でした。
私は社長に、ひとつのことをお願いしました。
戦略の話をする前に、まず話を聞かせてほしい。 なぜこの店を始めたのか。 なぜ日本酒だったのか。 なぜ恵比寿でなければならなかったのか。
社長は少し驚いた様子でした。 そういうことを聞かれると思っていなかった、という顔でした。
「そんな昔の話、今さら関係ありますかね」
私は答えました。
「たぶん、一番関係があると思います」
次の話では、そこから出てきたものを、辿っていきます。
この記事を書いた人:増田 浩一(増田みはらし書店 店主/中小企業診断士)プロフィール
ビジョン思考・組織・ブランド・生き方について、良書とともに探究しています。
